マッチポンプ

2021年1月13日の日記より

緊急事態宣言を巡って様々な報道がなされているが、政策決定者の立場から見ると、緊急事態宣言をしないとか、慎重な姿勢を取ると言事が許されなくなっている。これは報道がそう仕向けている面もあるが、やらないリスクを過剰に見積もり過ぎている故だろう。

新型コロナウィルスに関して、多くの人が何を求めているのかというのが、非常に分からなくなってきた。何か政策決定者が有効な手を打てば、ウィルスは消えてなくなる事を期待しているのだろうか。鎖国状態にして、国民の外出を最低限にしたとて、今回のような死亡率も微妙、感染力は強い、こういったウィルスを消滅させるのは不可能なのではないかと思う。感染症としてイメージされるのはSARSとかMERSとか鳥インフルエンザとかエボラ出血熱のようなものなのかもしれないが、印象としては死亡率が全然違う次元であり、どちらかというと従来型のインフルエンザやもっと言えば風邪の類と同じような死亡率なのが、今回のウィルスであろう。

単純な話であるが、感染力が同じとした場合に、死亡率が高いウィルスは感染した人間が死んでしまうので、感染が広まらない。死亡率や重症率が低いウィルスの方が元気な感染者が感染を広げるので感染が広がる。もちろん、スペイン風邪やペスト、そういったイメージがあるので万全を期して感染を抑制する事は重要であるが、何から何まで感染症として同じに扱って良いのか疑問は残る。そういった感染力や、感染症そのものの性質に関する議論も大事ではあるが、一番問題なのは市民に考える力が無くなっている事というか、これはもしかしたら普遍的なものなのかもしれないが、とにかく問題には特効薬というか最適解が常に存在していると考えがちな世論だ。

例えば従来型のインフルエンザについて、政策を総動員したら毎年の感染者は減って行き、撲滅できるのであろうか。恐らくそれは無理であり、ワクチンを使った対処療法でしか対抗は出来ないし、現実そうなっている。今回のコロナウィルスも、Go toキャンペーンのタイミング、緊急事態宣言のタイミングを上から目線で、結果論でしかないのに後から批判する人をよく目にするが、非常に無責任に感じる。

政策決定者はその時点で様々なファクターを考えた上でベストな決定をすべく、ベストな対応をしている。インドネシアの賢者から聞いた話だが、「政策決定者に文句を言うのは簡単だが、政策決定者を選んだのは自分自身であり、政策決定者である政治家は国民のまさに鏡で、国民自身の縮図というかクローンである」というものだ。いいとこどりをしようとして失敗する国民性はこの国に蔓延しているのであろう。政治家や官僚、地方政府の役人たちが国民一般に比べて能力が劣ると言う事は無いわけで、バランスを考えて政策決定をした結果、遅れたり、タイミングを間違えたりすることもある。

ただ、そういった決定を行った事がない人間が、結果だけを見て、薄っぺらい批判をする、そういう傾向が強い。特にテレビという媒体においては、安く制作できる「情報番組」というよく分からない番組が増えており、そういう所で「専門家」とか「コメンテーター」として発言している人間のコメント程薄っぺらいものはないだろう。それに左右されて政策決定してしまうのもどうかと思うが、声が大きい人の思惑を無視すると民主政治では生き残れないので、政治家としては苦渋ではあるが、そういった決断に至るのだろう。

海の民と陸の民

地球の面積の7割は海であり、残りの3割の陸地に住む人類にとっても海は重要な存在だ。物流の2/3は海上輸送で行われており、だからこそ大都市は沿岸部に出来る。国内から、海外から問わず、物品の獲得にコスト面でも有利であり、結果的に人口の増加を支える事が出来る。

特に日本は国土の7割が山地であることもあり、限られた陸地が沿岸部に多く、そこに人口集積がなされる。これが現代の大都市の図式であるが、歴史的には海は脅威であり、陸地は安定であった。もちろん陸地で遭難したり、事故に会うリスクもあるが、海上での移動におけるリスクと比べると、海上のリスクははるかに大きいと言えるだろう。

マゼランの頃の大洋への航海などは死を覚悟して臨むものであっただろうし、とにかく海の冒険というのは死へのリスクが付きまとうものだと思う。食糧確保においても漁船での漁においては、陸上での食糧採取に比べて死へのリスクが高く、海の民というのはリスクを取って、リターンを得るという文化的なバックボーンの中に生きているともいえる。

日本、特に東南アジアから渡来してきた俗にいう縄文系の履歴を持つ民族はかなり「海の民」的であったと推測される。その渡来の経路を見てもそうだが東南アジアから台湾と沿岸部を移動してきて日本列島に入ってきたという見方が一般的であり、海との繋がりが強い。一方弥生系と俗に言われる人々は中国の大陸の方から渡来してきたと言われる。

いづれにせよ、日本という地理的な条件も、人類の移動経路的な条件から見ても、日本は比較的「海の民」的な背景が強い国家であり、タンパク質消費においても魚介類が多い部類に入るだろう。因みに世界で一番魚介類の消費が多いのはアイスランドであり、共に火山国であることは興味深い。海の民はリスクを取って生存してきた歴史があり、ジャックアタリの著書によるとイノベーションに比較的長けた民族と言えるのではないかとの事であった。一面ではそうであり、米国が世界一のイノベーション国家で居続けるのは、彼らは欧州から死ぬ覚悟で海を渡って移住してきた人たちの集団であるからだろうか。それでは日本はどうなのかとなると、今のところ、現代社会の産業においてイノベーションに長けた集団とは言いずらい状況であることは確かだろう。

これを議論するためには、恐らく、海と陸という世界的概念で見た対立軸だけではなく、宗教観や倫理観を含めた議論が必要になり、日本の場合に重要なのは、中国渡来の儒教的価値観であろう。儒教的価値観において、年長者を敬うというのは絶対的な価値観であり、年長者や歴史、伝統的なふるまい、これらを過度に敬うと、イノベーションが起きずらくなる。先人が言っている事を尊重しなければならないので、それを翻すような発言が出来なくなる、という昭和的価値観に繋がっていくのだろう。

封建制、上下関係、これらも同じ論点である。ヒエラルキーは軍事的には重要な価値観であり、上官の命令が絶対、というシステムが無ければ、軍隊は統率を取れず、集団としての力が弱まる。その観点で、軍事の面で見ると儒教というのは非常に優れた統治システムであり、価値観を提供していたのだが、現代のようなイノベーションの時代に移ってしまった今、儒教的価値観というのは時代遅れになりつつあり、過度な年長者への経緯は中長期的な国力にも影響してきてしまう。この部分の価値観の転換というのが上手くなされておらず、政策決定においても中途半端で八方美人的な政策ばかりが実行され、時代に即した先行投資に制作資金が繋がって行かない、そういったジレンマに陥っているのが現代日本の現状ではないだろうか。

独裁者を生み出す民主主義

独裁者を生み出す民主主義

独裁政治と民主政治というのは対極にある様なイメージがあるが、非常に関係が深いものだと思われる。独裁者というのは、民衆を抑圧する存在で、自分の都合の良いように進めるという、例えば今で言うと北朝鮮の指導者のような存在がイメージに上がって来て、民主的な選挙が無い国で、世襲で指導者が決定されるような政治体制を独裁的と認識し、独裁的な政治体制は強権的で、市民を抑圧するような体制だというイメージがある。

そのイメージはある意味では正しいが、民主的な政治体制においても独裁的になっていく事はあり、そこが民主主義政治体制の危うさである。これは古代ギリシャ時代から言われている事で、民衆の支持を得るためには、実効性が無かったり、理想主義的な政策であっても、民衆の得票を得るために、無茶苦茶な公約を掲げて選挙に出る事が出来るからだ。特に国が苦境に陥っている時には注意が必要で、ドイツにヒトラーが出現した時もそうだが、国民のプライドが壊された時、純粋に経済状態が良くないときは、誰が政治を主導しても変わらない、ただただプライドを取り戻そう、という感じになり、ナショナリズムが台頭する方向に行くのかもしれない。

現代で言うと2016年からのトランプ旋風、17年からのトランプ政権は、アメリカの相対的な凋落と、そこで傷ついたアメリカ国民のプライドの復活のための、大衆迎合、衆愚政治の始まりだったのかもしれない。プライドの復活のためには、国民は強権的な政治を受け入れてでも、面目を保とうとする。それの行き着く先がヒトラーによる大戦への行進だったのかもしれない。

全体主義がイタリアやロシア、日本にも広まったと言われるが、当時の各国には一応選挙の仕組みがあり、それによって選出されたのがヒトラーであり、ムッソリーニであった。ヒトラーに至っては国民の大多数が支持をしていたのは当時のニュースや映像からも明らかである。 国民という存在は、それがドイツであれ、日本であれ、非常に脆いものであり、マスの人数があるから扇動には強いとか言うものでもなく、むしろ扇動によって右にしろ、左にしろ、考え方の振れ幅が加速してしまう。

これはバブルを生み出すメカニズムと似ているのかもしれないが、一度定常状態から上なり下なり、右なり左なりにぶれが生じると、これが加速度的にそちらの方向へ大きく振れていく、これが世論なのかもしれない。安全装置が働いて、中道的な定常状態へ戻っていく場合もあるのかもしれないが、一定のブレ幅を超えたところで、国民の熱狂というものを生み出してしまうものである。ナチの台頭もそうであるが、太平洋戦争前半期の日本国民についても鬼畜米英、戦艦大和、国民全員でどんちゃん騒ぎをしていたような印象だ。

1980年代のバブルの熱狂もそうであろう。誰もが乗り遅れまいと不動産を買ったりゴルフ会員権を買ったりした。もちろんプロが買っているうちは良かったのだが、当方の親族もそうだったが、素人が乗り遅れないようにと思って株に手を出す頃からが本当のバブルであり、その熱狂がバブルの拡大を生み出し、どこかの転換点まで突き進み、最終的にはじけてしまうのだろう。株価を2,3倍にしたバブル的な熱狂は、冷めていく時も同じ規模で働くわけで、みんなが我先にと逃げ出して、バブルは終わる。

そこには冷静な分析や、過去の経験則など働かず、皆が乗り遅れるな、逃げ出せ、という扇動に追われているだけであり、これは民主的な選挙においても現れる傾向であろう。旧来の既得権益を打破してくれそうだ、こういったものは熱狂を呼ぶ。これは細川政権誕生、小泉政権、2009年の民主党政権誕生で日本でも感じられた熱狂であったかもしれない。経済的に疲弊する時期にこういった事が発生する傾向が強いと思われるので、2021年の菅政権も危険な状況になるかもしれない。さらに保守的な勢力が出てくるのか、それともリベラル勢力が盛り返すのか、その点が分からないが、コロナの状況下、国民が一つの方向に熱狂してしまう可能性は否定できない。