2021年1月5日の日記より
千差万別
最近特に感じる事に、100人いたら100人の受け取り方があるという事であり、それは良い面でもあり悪い面でもある。100人いた時に、全く同じコメント、スピーチを聞いたとしても、100人それぞれの受け取り方があり、受け取り方だけではなく、聞き取っている内容にも違いがあるというレベルで、異なっている。これは聞く事、読むことだけでもなく、我々日常的な感覚であれば、例えば横に並んで二人で同じ風景を見ていれば、同じように見えているだろうと考えるのが普通かと思うが、それすらかなり怪しいのだろう、というのが最近の実感だ。
もちろん、視力の違いや、色彩感覚、コントラストを捉える感覚という物理的な違いもあるが、視野の広さ、物事を眺めるときの前提となる過去の経験、これらについても個人差は必ずある。特に視野の広さというのは例えば子供と大人を比べると明らかに違いがあるもので、他人の視野との比較というのをしたことが無いから実感がないが、これも明確に差異が存在しているモノであろう。また、視野についてはIQとの関連性も論じられることもあり、視野が広いとIQが高いのか、IQが高いと視野が広いのか分からないが、これも何となく連関がありそうなのは、実感されるところだろう。
そういう事を考えると、全く同じ方向を見て、同じ景色を見たとしても、認識される情報というのは、明らかに個人差が生まれているはずであり、これが個人間の誤解を生むことにもつながるのだろう。この見ている景色は千差万別であるという事実に対して、感覚では恐らく同じものが見えているはずだ、という先入観を持ってしまう事があり、Generation gapなんかもそうかもしれないが、色々な認識のずれを生み出していくのだと思う。
これは見るもの、聞くもの、読むもの、それぞれで当てはまるズレであり、例えば同じ新聞を読んでも捉え方は100人が100人違うのである。これは実感として持ちづらく、恐らく一般的な感覚ではそうではなく、だからこそ特に昨今は様々な不満が渦巻いているのでは、とすら感じる。ある個人が考えている事、例えば最近だと「Go to キャンペーンは中止して欲しい」と考える人には、周りに100人いたらみんな中止して欲しいと思っているはずだという先入観が強く働き過ぎており、そうでは無いと考える人の思考回路が理解できないという状況になっているのではないだろうか。
これは最近よく言われることだが、自分の都合の良いニュースやコメントしか吸収しなくなっている事と関係しているのだろう。昔は情報ソースはニュース番組と新聞だけであったが、今や纏めニュースで情報ソースは多様化している。その中で好ましいニュースしか見無くなり、多様な意見を受け入れる素地が減って行っている。自分と他人の違いを感じづらくなり、他人の考え、意見、感覚を想像する力が失われている。こういった個人の思考回路の多様性の欠如、これが様々な社会問題を生み出しており、このコロナ禍がそれらをあぶりだしている様ですらある。
対立の世紀、対立の増長、これらが米国選挙でも言われたが、これは世界的な流れとなっている。なぜ起こるかというと、異なる意見を排除し過ぎる風潮があるからと言う事は明白であり、それを助長しているのは無限に級数的に増加している情報量のせいなのかもしれない。情報が増える事で、個人のフィルターがかかり、多様な情報が届かなくなる、こういった矛盾を解消していかなければ、隣人とすら上手くやっていく事は難しくなるのだろう。