イノベーションの歴史

詳しく何かを調べながら書いているわけではないので、まさに徒然なるままに考えるわけではあるが、歴史上の大きなイノベーションについて考えてみた。大航海時代、羅針盤と大型帆船によって世界の距離が縮まった。貿易が拡大されていった。活版印刷、これによって書籍や出版というものが産業になった。ダイナマイトや航空機の発明、これらによって軍需産業という巨大産業が生まれるに至った。前後するが電灯というか電気の流通によって人の生活は変わった。蒸気機関については色々なものを変えることに至ったが、産業の工業化の進展に影響した。

これらのことは産業の創出という意味で大きな変革を与えた。貿易商が生まれ、印刷会社が興ることになり、軍需産業、電気にかかわる産業、機械工業、これらが生み出されて、労働というものの質が変わっていった。国民に影響したのは、労働生産性の向上であり、金銭的に豊かになる時代へと移っていったわけである。

一方、産業という意味ではなく、大衆化に繋がったイノベーションもいくつかある。民主主義社会という王政を打ち破って作られたものであり、民主的な選挙による政治運営という概念を生み出した。ヘンリーフォードによる自動車の大量生産は産業的な意味もあるが、移動というものの民主化を引き起こした。そこから時代はかなり現代に近づいてくるが、インターネットの普及というのは、今度は個人が世界各国の情報へのアクセスをとれるようになり、情報の大衆化を生み出した。

世界を変えた14の密約

これら、政治の大衆化、移動の大衆化、情報の大衆化は、もちろん豊かさも生み出してはいるのであるが、個人主義というか、個人の権利や個人の能力の尊重を助長するようになった。文字通りの大衆化ということではあるが、20世紀特に後半から加速的にリベラルな社会が広まっていった。

では21世紀は何が起きているだろうか。産業化、大衆化、その次は何なのだろうか。コロナウイルスの感染拡大はその転機となったのだろうか。コロンブスやマゼランによる大航海時代は貿易による世界の距離を縮めるのに役立ったわけっであるが、個人の功績もそこにはある。民主化に繋がったのは王政の怠慢や制度疲労があるが、王族自体の問題が引き起こした面もあろう。二度の大戦は航空機や自動車の発展に大きく寄与している。そう考えるとコロナウイルスが一つの触媒になっているということは考えられる。

今後の20,30年を考えると、今のイノベーションを見てても圧倒的に進むのは仮想現実化、これがキーワードであるだろう。20世紀の目から見たときに、21世紀の現代はすでにかなりの部分でこのことが進んでいる。AMAZONの店舗はまさに仮想現実上の店舗と言えるわけであるし、ゲームや映画のエンターテインメントでは仮想現実が進んでいる。フィンテックにより、株式投資、資産運用、預貯金の存在についても既に現実空間で行っておらず、携帯電話やPC上で完結するわけである。仕事にしても一気にリモートワークが拡大しており、職場の仮想現実というとたいそうな表現ではあるが、ある種そういう状況ではあるわけであり、これは不可逆的な変化であることは間違いないと思う。

コロナ禍が終わり、以前の日常に戻るという人もいるが、少しでも楽な方に変化した時代は逆戻りしないと思われる。そういう観点から仮想現実化という流れは不可逆的であると言え、筆者の予想では戻ることはない。どんどん物理的な移動をしない社会というのが広がっていくだろう。もちろん、例えば音楽ライブを見に行くように、例えばたまには映画館で映画が見たくなるように、例えば海水浴に行きたくなるように、一定の余暇の部分での物理的な移動は残るのだが、これはあくまで余暇だからやるわけであり、効率性が最重要視される産業とか仕事とかいう観点でいうと、仮想現実化の流れには逆行できないのだろうと思う次第である。

リベラルの不可逆性

婚姻については近年晩婚化が進んでいるのは間違いない。厚生労働省の労働白書にも書いてあるし、実感として結婚する人の年齢が上がっている。だからといって結婚できない人が増えているかというと、選択的に結婚をしない人が増えていることもあるが、全体の流れとしては自由な恋愛、自由な結婚ができる幅が広がっているので、結婚自体は望めばしやすい環境になってきているのではないだろうか。

勿論、経済的な面や仕事の面で結婚できない人がいるかもしれないが、例えばここ50年とかのスパンで社会の変化を見たときには、リベラルな方向性というのは確実に進んでおり、自由な恋愛、自由な結婚という幅は広がっているのは明白である。

例えば国際結婚であるが、これは筆者が子供の時は都内の小学校に通っていたがいづれかの親が外国籍である人、俗に言われるハーフの人は非常に珍しかったが、娘が今通っている小学校には複数いる。もちろん、地域性なんかもあるかもしれないが、例えばスポーツの世界を見てみても、外国籍の親を持つ選手の活躍はここ20年とかのスパンで見ても大幅に増えているように感じる。

これらはリベラルな思想の影響というと大げさではあるが、戦後民主主義という米国主導で始まった日本の民主主義はどんどん民主化、リベラル化する方向で進んでいる。これは世界的な傾向でもあるが、ある意味自由主義的な、ある意味個人主義的な、何物にも縛られないで生きることを最重要視するような文化である。

これは個人にスポットを当てると非常に過ごしやすく、居心地が良いので、世の中はリベラルに行く方向性であり、長いスパンで考えると今の政治体制、すなわち民主主義という観点から言うと、不可逆的であろうということが言える。自由を享受した国民は、自由が後退することは許容できないし、さらなる自由を求めるのである。

民主主義とは何なのか (文春新書)

しかしながらここには危険な点も潜んでいる。民主主義のもっと根本原理である、国民の間での助け合いの概念というか、ここの部分をむしばんでしまうという矛盾に行きあたってしまうのである。民主主義を追求すると、個人の権利が拡大される方向に行ってしまい、個人が自由を得るようになり、さらなる自由を要求する。そして一定以上に自由になった国民は他者の事よりも自分のことを追求することに重きを置くようになり、やがて国家という事には思いを馳せなくなる。民主主義というのは国民全員が参加してこそ、最大限の効力を発揮するシステムであり、例えば徴税に応じない国民がいると平等が担保されなくなり破綻に至る。

破綻に至るプロセスは色々あり、徴税を免れるように権力を操作したり、議会を扇動したり、国家の活動に制限を与えたり、効率性を落とすように策略していくことに繋がる。そうすることによって国家としての活動、例えば、防衛、警察、インフラ、が不十分になっていき、破綻をきたすようになる。もしくは破綻をごまかすために戦争に走るのである。

机上の論理のようなことを書いているようであるが、この不可逆的なリベラル思想が進み過ぎてしまった社会はどこか現在の米国社会であるようにも感じる。特にトランプ政権を支持していた層は、まさに法人税率を低減して、テック企業の徴税逃れもそこまで追求せずに、そんな中、特に警察権力の失墜、インフラの致命的な老朽化、これらの問題を抱えており、国民国家としての危機に瀕していた。

バイデン政権になって反動があるので少し民主主義が引き締まったように感じられるが、あくまで反動であり中長期的に見たら、リベラル化は不可逆的である。欧州や英国でもこの民主主義の行き過ぎに指導層では危機感を感じており、GAFAへの課税強化、最低税率の上昇を議論しているが、自由を叫ぶ国民や民間企業に勝てるのだろうか。民主主義という国民主導の政治体制を維持したい体制側と、民主主義の恩恵を最大限に生かしたからこそ破綻に向かっているという事実を認識しているのかしてないのか分からない国民側に、大きな溝ができつつある。そう考えると民主主義というのが古代ギリシャでは「怪しい政治体制」と論じられていたことも納得がいくわけであり、そもそも矛盾をはらんでおり、長期には継続できない政治体制なのかもしれない。フランス革命から200年以上経つわけであるが、強権的な政治体制が優勢になっていくのが大きな流れなのかもしれないし、それをごまかすためにとれる策は戦争でしかないのかもしれない。

ESGに関して

木材を使ったビルに投資するとESG投資で、鋼材を使ったビルに投資するとそうではない。イメージ的にもそうであるし、実際本日の新聞にもそういう投資があると記載があった。もちろん、紙面には記載しきれない要件とかがあり、原材料だけの問題ではないのだろうが、イメージで語られることの危険というのはある。

これは地球温暖化の議論でもそうであるが、エコバッグを使うとプラスチックバッグを使わないのでESGだ。これは本当なのであろうか。疑ってみる必要は本当にないのだろうか。

木材と鋼材でいうと、森林伐採の影響というのは昨今言われなくなっている気がする。20世紀のころはアマゾンの森林が急速なペースで失われており、二酸化炭素の吸収量が減っている、そういった論調が目立っていた。毎年日本の国土に相当する分とかが焼失されていたような曖昧な記憶があるが、現在はどうなってしまったのであろうか。

世界を変えた14の密約

例えば、鉄鋼の鋼材については、鉄鉱石と石炭から作る鋼材が日本や中国では多いが、米国ではスクラップるから製造する鉄鋼の量の方が多いと言われている。その場合、どちらが環境にいいのだろうか。従来の論調であったら、木材を伐採することは二酸化炭素の排出ではなく、吸収量の低下を招くという議論があったように思うが、これはもう取るに足らない議論となってしまったのだろうか。

勿論、鋼材はスクラップを溶かすときに大量の電力を使うので、現在のEVの議論と同じで火力発電を使う限りにおいては、環境にやさしくはないのではあるが、木材と比べてどうなのか、これは議論が必要である。

ストローやプラスチックカップについては、海洋汚染が言われているので、材料としての環境負荷について議論はあまりされていないが、材料としての環境負荷だけで見た場合にどうなるのかは興味がある。ここでも問題は複雑に絡んでおり、カメの鼻にストローが刺さっている映像でイメージ戦略化されている可能性はある。ツバルの海面上昇が実は井戸水の堀りすぎによる地盤沈下だったのは有名な話であり、氷山が解け落ちる映像は多くは北極海に浮かんでいる氷山だったのも有名な話だ。

イメージ戦略がどうもついて回る節があるESG議論というのは、ESG問題自体は非常に重要な問題ではあるのだけど、一つ一つの話については疑ってみる必要がある。基本的には理研の対立のケースが多く、ESG、ESGとは言っても、何らかの商業的な利得と結びついているケースは少なくないと思う。