地球温暖化の解決方法

二酸化炭素の排出が本当に地球の温暖化の主要因であるなら、二酸化炭素の排出量を抑える努力を行うことは、待ったなしの課題であり、各国政府は進めるべきであろう。産業分野の排出、民間分野の排出と色々あるだろうが、経済原則だけで進めるのは、困難である。

例えば、アンモニア発電にしても、海上風力発電にしても、バイオマス発電にしても、今のところ経済合理性に欠ける。石炭を掘ってきて発電するのが経済合理性から言ったら合理的だし、原油を掘ってガソリンで車を動かすことが経済的であることは間違いない。

これらの構造の転換を則すために何ができるのかというと、これこそまさに政府の出番である。経済合理性の低い活動を推進するためには、経済性ではない観点で意思決定を行う必要があり、一応、現在の社会は、ある程度の経済の不合理があっても、二酸化炭素の排出を削減しようという合意形成はなされている感じはある。

海の歴史

ただ、これを実際に、例えば石炭火力発電所で発電された電力に税金を課すとか、ガソリン税を3倍にするとか、そういった事は可能なのであろうか。カーボンプライシングは国民の合意形成が得られるのだろうか。今のところ、理念と理想が先行しているが、実際の投票行動は正直なもので、例えば自分個人が石炭火力発電所の発電による売電で成り立っている企業の一員だったら、自分の生活の困難を受け入れてまで、カーボンプライシングを支持する政党に投票するのだろうか。

例えばトヨタ等の自動車会社で考えて、彼らは勿論EVやHybridの開発を続けて、商業生産でも成功しているようではあるが、ガソリン税を3倍にするという法案に、関連従業員はみな賛成するのであろうか。自動車産業に何らかの形で関わる人というのは恐らく家族も入れると日本で数千万人単位となるだろう。このすべてとは言わなくても過半数が納得するのだろうか。

民主主義社会においては、例えば日本でいうと、国民の選挙によって選出された国会議員が立法を行う。そこで成立しないと法律は適応されない。官僚がルール作りをすれば実行されるような感覚を持つ人もいるが、そういう面もありながら、国民の合意形成は必要なわけで、パリ協定は騒がれているが、以前の米国のように離脱する国が表れても不思議ではない。

何を言いたいかというと、本質的な議論をあまりせずに、SDGsとか、レジ袋とか、なんか聞こえは良いのに本質的な意味がない議論が先行しているのが、現在ではないかということだ。ガソリン税を大きく上げて、交通量を減らすことが、一番の二酸化炭素排出量対策になる。そうすると車が売れなくなるから、というのなら、そもそも経済合理性を超えてまで対策をする気はないということになる。環境債とかも話が盛んではあるが、掛け声だけで終わる可能性を危惧するのである。

人類とアルコール

人類は10000年前前後から、大麦を発酵させたり、ブドウのしぼり汁を発酵させたりして、アルコールを接種していた。意図的な醸造所の遺跡も見つかっているので、宗教儀式に必要なのか、それとも余暇としてなのか、いづれにせよ10000年ほどアルコールを接種している。

アルコールは基本的には肝臓で分解されるものであり、人体にとってはどちらかというと有害である。酵素による加水分解で分解して排出するものであり、人体に不可欠な栄養素ではない。ただ、衛生面においては、昨今毎日接している通り、アルコールは除菌、殺菌効果があるとはいえるので、あると便利で、現代社会では工業用アルコールが大いに生産されている。

宗教との関係でいうとモハンマドは部族内、宗教内での争いを防ぐために、イスラムの教えにおいてはアルコールの接種を禁じていた。これが現代でもイスラム社会では基本的にアルコールを接種しない所以である。実際、中東の国やインドネシアでもイスラム教の方々は飲酒をしないのが基本となっているし、公共空間ではイスラム教以外の人間も飲酒を避けるように、というのがマナーになっている。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

イスラム教というのは砂漠で発生した宗教なので、まず生活の基盤において水分を欲しているというのがある。礼拝ごとに顔や手を水で洗うのもその歴史的な背景が影響しているだろうし、アルコールも、他の地域以上に民が酔っ払いやすかった可能性もある。それが争いに発展しやすいということなのかもしれないが、地理的な背景もあるのだろう。

アルコールは脳を麻痺というか、俗にいう酔っ払う状況に導く作用がある。これは初期のころは恐らくは宗教儀式上重要な意味を持っていたのではないかと思われる。アルコールが脳を麻痺させるから酔っ払うという科学的な知識がない中で、大麦を発酵させたものやブドウ汁を発酵させたものを飲むと、人によってはトランス状態になる、というのは宗教家を興奮させたはずだ。

古代の宗教というのは一つに麻薬的な成分によるトランス状態や、飲酒によるトランス状態を起こし、その中で例えばまっとうな感覚を持つ人間がコントロールしたり、トランス状態を見せつけるなどして、人智を超えた存在を見せつける、というのも一つの統治形態であっただろう。その辺りが、ビールやワインの醸造所が作られた期限ではないかと思う。権力維持のために醸造した始めたものが、大衆にも広がっていた、そう見るのが妥当ではないか。

日常的にビールを飲む生活を日本でも享受できているが、アルコールには色々な面がある。そもそも人体には毒であること、殺菌作用は重要であること、宗教によっては禁忌品であり、宗教によってはその統治に活用されたであろうこと、非常に単純な化学式であらわされる化合物であるが、その奥深さに驚かされる。なぜそもそもアルコールは脳に麻痺症状を起こさせるようになったのか、これも恐らく生物の進化と関係しているのであろう。この部分をもう少し掘り下げたいとは思っている。

今日の芸術

「今日の芸術」は50年代というから今から60年以上前に岡本太郎によって書かれた芸術論についての書籍である。筆者は5回くらい読んでいる愛読書である。岡本太郎という人は「芸術は爆発だ」という言葉であったり、大阪にある「太陽の塔」で有名な人であり、絵画、彫刻、等の有名な作品もあるが、筆者としてはこの文筆にこそ彼の才能が出ていると思う。

今日の芸術~時代を創造するものは誰か~ (光文社知恵の森文庫)

今でこそモダンアートの世界での多様な表現や、芸術論についても体系的に例えば、シュールレアリスムであったり、キュビスム、そういった考え方が一般化されるようになったが、中世からの長い歴史の中でいうと、技巧こそが芸術の原点だという考えがまだ色濃かったし、文化的な歴史が比較的長い日本においては、職人の技巧を重要視して、技巧にすぐれた作品を芸術的だという感覚が強かった時代だと思う。

そんな中、「芸術は上手くあってはいけない」「芸術は嫌ったらしいもの」そういう表現で芸術を解き、人間個々の精神から生み出される何とも表現しずらいものの発露として芸術があるべきで、それを見たときに観察者は心が震えて感動する、そういった論調であった。芸術表現というのは、表現者個人の内面や精神を形に変えて表現することであり、現代的な芸術論を既に60年以上前に、しかも周囲というか一般常識が到底追い付いていない中発表した勇気と信念は称賛されるべきであろう。

筆者は大学時代にピカソの芸術論という授業を受講して、その後ピカソ作品の虜になった。「アヴィニョンの娘たち」という世界観に到達したピカソの精神世界を想像するだけで心が震えるというか、感慨にふけってしまう。「ゲルニカ」に至っては第一次世界大戦に至ったドイツとスペインの戦いが目に浮かぶようであり、さらには絵を見ているだけで心が張り裂けそうになる。大家といわれる存在になったピカソが「ゲルニカ」を発表したときの、彼の精神の内面は想像を絶する状態で合ったろうことが推察される。

何がすごいかというと、天才的なデッサン能力を持つピカソがそこに安住してないことと、美しさを捨てたことであり、これが岡本太郎の世界観につながっていく。岡本太郎はそのピカソの世界観を文章に体現して、日本に紹介した、その功績が凄いのだと思う。もちろん、「太陽の塔」を初めて見たときに、確か路線バスの車内から見たのだが、その存在感、制作者の精神性がミシミシと伝わってきたのを覚えている。彼の作品は彼の作品で良さがある。ただ、岡本太郎には若干の計算が見えてしまうときがある。ピカソの作品ではそれを感じさせない。

暗幕のゲルニカ (新潮文庫)

アメリカで本物の「アヴィニョンの娘たち」を見た。写真で見た通りの構図、内容であった。そのキャンパスの前でピカソが何を思ってこの作品を描いていたのか、考えるだけで興奮するものがあった。そういった精神性を良く描いてくれたのが原田マハであり「暗幕のゲルニカ」はノンフィクションとフィクションの間を上手いこと描いてくれていたと思う。