政治家の高齢化

本日の新聞を読んでいたら、元カリフォルニア州知事のコメントが載っていた。カリフォルニア州知事としての在任期間を見ると、なんと1975-1983年と2011-2019年と記載されており、恐らく30歳代で一度、その後60歳代後半から70歳代でもう一度州知事をやっていると思われる。もちろんその間にもいろいろやっているとは思うが、これだけのブランクを経て州知事をもう一度やるというのは、面白い例だと思う。

ファンタジーランド 【合本版】―狂気と幻想のアメリカ500年史

このJerry Brownという方の例は面白いが、それ以外でも高齢の政治家は目立つ。トランプ大統領も、バイデン大統領も菅総理も高齢で、欧州もマクロン大統領が出てきて、カナダのトルドーが出てきて、これらは若返っているが、印象としては高齢化が進んでいる印象だ。

そもそも平均寿命は引き続き延びており、日本では人口に占める高齢者65歳以上の人の割合は3割ともそれ以上とも言われるぐらいに、全人口に対する高齢者の人数が増えていれば、高齢の候補者に対する共感も増すし、高齢の候補者の政策は高齢者向けであることが傾向としては高いと思うので、それが支持につながるという面もあるだろうから、自然の流れなのかもしれない。

一方でもう一つの要因もあるのではないだろうかと思うのは、政治家という職業の魅力である。例えば50年前と比べて政治家になる事のインセンティブが低いのではと思う。優秀な人材は政治家になるよりも投資銀行や弁護士、医者として働くほうが生涯賃金も多いだろうし、これは50年前よりも傾向が強くなっているんだろうと思う。立身出世といえば日本でも例えば田中角栄のような存在があるが、政治家として名を上げることは一つのモデルであったように思うが、近年は政治家で成功するよりも孫さんのように事業で成功するほうが、立身出世のモデルと言えるだろう。

若い人にとって政治家になる事の相対的な魅力がなくなってきている。これは国家公務員にも言えることであろう。報酬としての金銭の受け取れる量が相対的に低下してしまっているのである。これは政治家や国家公務員の給与額が絶対額としてそれほど上がっていないことの要因よりも、高額報酬の民間の企業の選択肢が増えており、優秀な人材がそちらに行っていることが現在の状況なのだと思う。

これの結果なのか分からないし、個人的な評価はよく知らないのでわからないが、結果として報道で聞くようなスーパークレイジー君のような話題性というか、もはやネタとして立候補して、当選を果たす、そういうような位置づけになってきている。もちろん地方議員の話ではあるのだが、これは象徴的であり、職業政治家を目指そうという人が減っていることの裏返しだろう。

民主主義とは何なのか (文春新書)

もう一つは過剰にリベラルが進んだ結果ともいえる。国民の知る権利による政治家の私権やプライバシーの制限もあり、これもインセンティブが減る要因だ。また、多様性というか、政治家に賢さや優秀さを求めず、良い人で、印象だけを求めるようになっている。リベラルが進んだというか、思考停止というか、両方なのだろうが、有権者が本当に優秀な人を選出しようという気概もなくなり、選出する能力も低下している、これが一番の要因なのだろう。大衆化しすぎた結果、専門性や知識、事務処理能力、こういうものの人の優劣を認めたくない人たちが、その部分をあまりに矮小化して話を進める。これは特にマスコミに顕著であるが、印象、過去の過ち、プライベート、これらにだけ焦点を当てて、政治という名のショーを煽っているのである。本当に優秀な人は選出されず、橋下元知事のようにどうでもいいことで叩いて排除しようとする。民主主義という政治形態の限界なのかもしれない。

昆虫食と食糧危機

最近は薬局のおつまみコーナーにもコオロギの佃煮というか、チップスというか気軽に食べられる昆虫のおつまみが売っている。妻は食べるのを嫌がるが、ビールのお供に全く問題なく食べられる。メキシコに行った時には、確かイナゴのタコスを食べたが、これも美味しかった。

見た目ではなく、蛋白源という考え方に立つと、昆虫は今後の人口増加に対応した食料危機の救世主とも言われる。牛や豚、鳥、羊などを飼育する畜産業で使用する飼料や水の量と比べて、同じたんぱく質量を作るのに、資料や水は少なくて済むらしい。これは環境保護にもつながるし、食糧危機にも対応できる。アフリカやアジア、また先の例のように中南米諸国でも昆虫は食べられており、欧米中心の価値観以外のところでは今後受け入れられていくであろう。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

また、畜産業の飼料としてのたんぱく質に、今は魚粉が多く使われているが、これも小型の魚類の乱獲が問題となっており、人間の口に入る手前の、飼料としての昆虫の取引というものが今後は拡大していくのかもしれない。

ただ、昆虫も好き勝手にとっていいわけではない。もちろん、昆虫も食物連鎖の一端を担っているわけであり、例えば鳥の餌はかなりの部分が昆虫だ。昆虫を乱獲すると食物連鎖内に影響を与える可能性があり、これは魚類の乱獲と同じ問題を生み出す。ただ、魚類に比べても飼育は簡単な面があるかもしれず、蛋白源としての昆虫の養殖というのが今後は流行るのかもしれない。

養殖でない場合に、食物連鎖以外の面での影響に、受粉を補完しているという昆虫の役割は非常に大きい。これは食物の生育を助けるわけで、植物性の食料に対して昆虫が担う役割は非常に大きく、欧州の調査ではここ最近の有機肥料の使用などにより昆虫の多様性が失われつつあり、それによって食物栽培にも影響が出ており、受粉補助という昆虫の役割に注目が集まっているようだ。

それに伴い受粉補助ロボットの開発も行われているようで、どこかで問題を解決しようとすると、どこかに問題が生じてしまう。森羅万象であり、全てのものは繋がっているのだと感じる次第だ。

そもそも人口が70億人とか、数十年後には100億人というのが、人類の人口として限界を迎えているとしか思えない。食料危機は確実に存在している危機であり、既に耕作面積が不足しており、それを解決する手段も目ぼしいものはない。蛋白源をどうするか、マグロや牛肉の獲得競争もすでに始まっており、これには所得の格差がもろに聞いてくる。良質なたんぱく源はその国民を豊かにし、経済活動や、軍事力にまで影響を与えると思う。ローマ時代の兵士ではあるまいし、という声もあるかもしれないが、これは個々人の問題ではなく、例えば数千万人というような単位で国民を見たときには、影響を与えるものだと思う。

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

ここから言えることは、人口が持続可能な水準を超えてしまって、様々な獲得競争が行われるフェイズに入ってきている時代において、力関係の逆転というものは容易ではないということであり、富める者はさらに裕福に、こういう世界が続いていくのだと思う。それが良いのか悪いのかは分からないが、第三世界といわれてしまうような途上国にとっては、あまり明るい未来ではないのではないか、という印象を持ってしまう。

人間とスポーツ

大谷選手や松山選手の活躍がアメリカでも日本でも注目を読んでいる。二人とも20代で世界一線で活躍している事が非常に喜ばしい。特に松山選手のマスターズ制覇は今週のホットトピックであったし、米国人の友達からも祝福のコメントがあった。

野球であったり、ゴルフ、テニス、卓球と球体のボールを何かで打つという競技、スポーツが一定程度の注目を集めているが、このボールを駆使するというのはどういう欲求からきてて競技スポーツとして発展し、どのような人間の欲求を満たすから感染スポーツとして発展したのだろうか。

例えば野球でいうと、生身の肉体を使ってピッチャーがバッターに対して「一番打ちづらいと思う球」を投げる。それをバッターはできるだけ遠くにバットを使って飛ばす、単純化するとこういった競技であると換言できる。投げるという行為は、やり投げにも通じるものがあり、狩りを行っていた人類は投げる行為が上手であれば、槍を上手に扱えたはずで、生存競争に有利と言える。

これは狩猟時代には非常に大事な能力であったはずであり、生存競争に強いことを示すための協議としてやり投げが発展したのだと思われるし、その流れを汲んで投げる行為を競うことは理解できる。狩猟がない季節でもそういった事を競い合って、勝者が勝ちに浸り、それを誇ることを競う、これはある種お祭りの起源の一つである可能性もあるし、そういって人間は余暇を楽しむ発想を広げていった。

我々はどこから来たか?我々は何者?我々はどこに向かうのか?我々の存在意義は?―現代人類学の人間観―

そういう発想でいうと、バットを使って球をできるだけ遠くに飛ばすというのも、武器を使って狩りをするのか、戦いの中で使う武器の扱いのうまさを競う、そういった発想が根底にあるのかもしれない。例えば、頭で思い描いた太刀筋と実際の肉体をリンクさせるには、鍛錬や筋力が必要であり、その能力を磨いた上に、武器使いの上達があり、そこを競うことは、これは狩猟時代よりも現代に近い時代の権力争いの中での話になるかもしれないが、生存競争に有利であり、現代風に言うと異性にもてるわけである。

究極的にはスポーツというのも、「もてる」かどうか、を競うものなのかもしれない。足の速さを競ったり、泳ぐ速さを競うことも、逃げ足の速さや、狩りでの優位性、これらを担保するものであり、現代では感じずらいことであるが、これらを鍛錬することで、生存確率を上げることに繋がる。そういった最高に生存確率を上げ切った競技人を見ることで我々は感動するし、その人々の生存能力の高さに興奮するのである。

生存競争というのは人類の根底に刻まれているファクターであり、すべてそこに結び付く。食欲、性欲、睡眠欲、と言われるものもそうであるが、我々が何気なく見ているスポーツであったり、その祭典であるオリンピックにしても、この生存競争の疑似競争という側面があり、人類の根底にある興味がひきつけられるのではないか、ということを思う次第である。