多様性と日本の歴史

昨日も大谷選手がオープン戦でホームランを打って、その活躍は眩しいばかりである。八村塁選手も最近好調であり、あのアデトクンポ選手と互角に渡り合ったり、見ていて喜ばしい気持ちになる。大坂なおみ選手も全豪オープンテニスで優勝したのは記憶に新しいが、八村選手と大坂選手はそれぞれどちらかの親が外国にルーツを持つミックスというか、ハーフというかどういうのが正しいのかわからないが、そういうルーツを持つ日本人である。

例えば日本語を話すのが得意ではない大坂選手に心無い声を上げる特にお爺さん世代がいるような報道があったが、日本人がこうやって世界で活躍するのは純粋に誇りに思うし、何より見てて爽快な気持ちになる。外国にルーツを持つ親がいることで日本人ではないとか排除思想になるお爺さん世代の了見のなんと狭いことか。お爺さん世代全員がそうではないことは百も承知であるが、ただただその狭い価値観に唖然とする。この窮屈な島国根性は江戸時代の鎖国が長すぎた影響だろうか、それとも戦時中の国粋主義的な思想の影響だろうか、それとも戦後の経済復興期に文化教育を置き去りにした影響だろうか、恐らくそれらすべての要素が影響しているのだろう。

感覚としては1990年のバブル崩壊以降、経済至上主義がようやく下火になり、文化的な側面や、多様性についての理解が徐々に進んだように思う。ここで思想においても、世代間のギャップが生まれている。今の50歳以上はこの文化的な教育や、多様性に関する感性が比較的掛けている世代であると感じるのは、この辺の影響だろう。

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

そもそも日本は過去に遡れば移民が切り開いた土地であることは間違いない。3万年ほど前に人類が移住してきたことは勿論そうだが、その後も、北から西から、南からたくさんの人がある意味袋小路に集結してきたような形になっている。大陸の東の果てなので、そういったことになる。これはあまり意識されていないが、アフリカから出た人類はユーラシア大陸に拡散していくわけだが、東の果ては一応日本である。もちろん、シベリアからアラスカに渡って最終的にインカ帝国やマチュピチュを作った一団もいたが、ユーラシアの東の果ては日本である。

その後、稲作も中国大陸からもたらされ、恐らくは鉄器についても大陸からもたらされた。その時に国家というものが形成され、日本の統治がなされた。統治の当初は渡来人が多くの要職を務め、7世紀には遣隋使が盛んになり、その後も中国大陸からの移民は多かったはずである。13世紀ころには倭寇と呼ばれる集団が東シナ海を拠点に中国南部、台湾、沖縄、九州海域で混血を進めたはずであり、戦国時代には宣教師の移住というのもある程度見られていた。そんな歴史の中、江戸幕府は植民地政策からの避難方法として鎖国政策をとったわけであるが、ここから日本の孤立化の歴史が始まり、果ては国粋主義による大戦の開始に至るわけである。

戦争の判断に対する是非は色々あるので、好し悪しを簡単には議論できないが、この価値観を狭くしたままの状況判断をしてしまったということについては、江戸の鎖国政策からの流れの中で、問題であったろうとは思う次第である。

日本は移民の国であり、多様な価値観を持つからこそ発展してきた歴史があるというところを忘れてはいけないし、生物学的に見てもなるべく遺伝子情報が異なる個体の間で子孫を残していったほうが多様性が増し、環境変化への耐性が強くなっていく。これは今回のコロナの騒動にも生物学的に言えることかもしれないし、例えば、働き方とか、人生の哲学とか、そういった面でも時代の変化に耐えられるのは、思考が柔軟で多様であることが大きいと思う。そういう意味で移民を受け入れること、多様な遺伝子が広がることは喜ばしいことではないだろうか。

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スポーツで活躍する選手が増えるというのもある意味では、そういったことの影響が先に出てきているということであり、これからそういった多様な人材が例えば経済社会や文化的な面でどんどん活躍していくのだろう。

痛みや疲れ

痛みや疲れというのは個人差があるとよく言われる。客観指標があるのかどうか詳しくは分からないし、例えば疲れでいうと、乳酸のたまりやすさや、筋力の個人差、そういったものに左右されるだろうから一概には言えないが、これらは感じ方の個人差の存在を感じさせるものの一つでもある。

例えば10㎞を徒歩で歩いた場合、筆者の家族でいうと妻は疲れやすいが、私は疲れないし、娘たちはその中間くらいという感覚がある。娘たちは「疲れてない」と言いたい年ごろなのかもしれないが、筋力の違い等を考えても私と妻では疲れる感覚が違う。また、例えば痛みに対する感覚も個人差があり、注射をしても痛い人痛くない人がいたりもする。

そもそも痛みや疲れというのは人間として生物学的に何の反応なのかということを考えると、人間として警戒する表現の表れのはずであり、痛みが出るようなことを継続的に行わないように体が発する警告が痛みであり、体力の限界まで行動して死に至ることを避けるように発する警告が疲れのはずである。例えばこれらを失った状態を考えると、どんなに痛い事をしても気にかけないという状態になる。切り立った崖の上に食料がたくさんあるときに自分の体が傷つくリスクを考えて、落下するリスクが高いときはその食料を取りにいかないが、傷つくことを厭わない人は食料を取りに行くだろう。その結果として体に深刻な損傷を与える可能性が高まってしまう。そのための傷みという警告なのだろう。

疲れというのも同様であり、基本的にはどこまでも獲物を追いかけ続けないようにするためのリミッターであると思われる。苦みを感じることや、毒素を接種してしまった時の嘔吐や下痢という症状もちょっと毛色は違うが人間が体を守るために行う行動の一つである。

ではこのリミッターは徐々に解除したりすることができるのだろうか。例えばものすごい量の運動をした後に、疲れを感じれば休憩をするが、本当に体が動かなくなるという状態でなくても休憩しているケースはあり、その程度のリミッターであれば徐々に外していけるのではないか、それを突き詰めていった姿がトライアスリートであり、鉄人レースに出るような人たちの姿なのだろうか。現代人にとっては疲れのリミッターはあまり必要ではないかもしれない。

ただ疲れと違って痛みの方は病気のサインの警告であるケースもあるので上手に付き合っていく必要がある。膝の痛みは将来の深刻な歩行困難リスクを教えてくれているのかもしれないし、内臓の痛みについてもあまり感じることはないだろうが、感じた時には何らかのサインである可能性が高い。そんな事をふらっと思った次第で、年齢も年齢なので痛みとはうまく付き合っていきたい。

糖尿病になりやすい遺伝子

糖尿病になりやすい遺伝子

現在読んでいる書籍によると、糖尿病になりやすい家系というか遺伝子というのはある環境下では生存に有利になるから残っているという学説があると書かれている。具体的には極低温環境下において凍傷で死亡してしまうリスクを血糖値が上昇することで防ぐというメカニズムがあるらしい。シベリアの方から来たデミタス系と言ったら語弊があるが北方系のルートで渡ってきた日本人の祖先はそういった遺伝子の効力により厳寒のシベリアを超えて日本列島まで来たのかもしれない。

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鬱になりやすい遺伝子というのもあり、これもある環境下では生存に有利であったという説がある。具体的には鬱症状になると気力がなくなり、まず狩猟などのリスクテイク的な行動をしなくなるという。また、鬱症状の時には人との接触を避ける傾向があり、現在のような感染症の蔓延から逃れることもできたのではないか、そういう考え方もあるようだ。

ホモサピエンスの誕生から20万年の歴史を経て現在の人類は存在している。そこには現在の人類から見ると生活には不便と思われるような遺伝的な特徴も人類が生き延びてくるために必要だったということが言え、多様な遺伝子を持つに至ったことが人類を反映に導いたのだろうということを感じさせてくれる。

そんな中以前にも書いたがPolitical correctnessではないが、人はこうあるべきだ、という考え方が強まっている。個人の意見を尊重しすぎる風潮があるが故の反動であり、リベラルが進みすぎた社会に発生してしまうことなのかもしれないが、結果として多様性を失う方向に行ってしまう。個人に簡単なレッテルを張ってしまい、例えば日本国民を二つの種類に分けて、反戦派と好戦派、富裕層と貧困層、正規雇用と非正規、こうやって二項対立を煽ることも常套手段となりつつあるが、ある意味ではリベラル化が極まっている民主主義のなれの果てなのかもしれない。

なぜ、成熟した民主主義は分断を生み出すのか アメリカから世界に拡散する格差と分断の構図

思想やアイデンティティの面だけであったら、例えば政治体制が民主主義というものから違う体制に移行していけば、未来の世の中では多様性の復活というものがみられていくのかもしれないが、リベラルな考えは、出生前診断等で生態系の方にまで影響を与えつつある。現在の人類の価値観だけで、利益判断を行い、例えば鬱の遺伝子を撲滅したり、糖尿病になりやすい遺伝子を撲滅したり、そういった設計が可能な世の中になるかもしれない。そうなると20万年の積み上げというかもっと言えば38億年間地球環境に向き合って積み上げてきた生命の遺伝的な多様性が失われていくのかもしれない。ひどく簡略化した物言いでいうと、現代人のワガママが将来の多様性を奪っている、そういう言い方もできるのかもしれない。