人類と火

子供のころ、火遊びをするとひどく怒られた。もちろん、子供の不注意で例えば建物が火事になったり、森を焦がしてしまったり、火の不始末は甚大な被害になるので、当然のことだ。群馬県での山火事がハイカーの火の不始末の可能性が言われているのも、記憶に新しいところだ。

火の不始末による野火というか山火事もあるが、雷などによって出火することもあるし、自然の力で火が起こされることはある。人類というか人種というか、恐らくホモサピエンスだけが火を使っていたわけではないと思うので、表現が難しいが、いづれにせよ火を最初に使い始めたときは自然に出火した状態を発見したところから始まったのだろうと言われている。

例えば自然出火した近くに、動物の死骸があり、それが一部焼けており、食べてみたところ美味しい味がして、消化も楽であることに気付いた、そういうことが始まりなのであろう。いづれにせよ、そこで得た知見を活かして、人類は火で調理するという技術と経験を得た。このことは火で調理することが当たり前の我々には分かりづらいが大きな変化を及ぼす。

火で調理するとたんぱく質の変性、余計な水分の除去が進むことになり、まず味が良化する。さらに、栄養素についても相対的に濃縮された状態で摂取されることになるので、食事の効率が上がる。そしてたんぱく質の変性によって、消化に費やすエネルギーも減じられるわけである。これは生肉を食べる状態と、焼かれたステーキを食べる状態や、生のアスパラガスと茹でたアスパラガスを食べる状態を想像してみればわかるが、生の状態は人にとって食べづらい。まずは噛んで飲み込むまでに相当の労力が必要であろうことが想像できる。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

火の発見と、火の活用が人類の進化を支えたと言っても過言ではないだろう。エネルギーを費やす方向性が変わると、身体的には恐らく脳へ供給できるエネルギー量が増えるので、これが言語の発達を則したのかもしれない。また、日常生活という意味でも、食事に費やすエネルギーが減ることで、食糧確保に使うエネルギーや、子孫繁栄のために費やすエネルギーに、自分のエネルギーを費やすことができるようになるわけであり、このことが人口の爆発に一役買った可能性は大いにある。

ホモサピエンスの脳の容量は、初期人類であるアウストラロピテクスやもっと最近の人類であるホモエレクトスと比べても3倍ともいわれる。現在のサルの集団と比べても数倍の大きさであろう。その事が言語の発達を則し、その後に文明を作り上げることにつながるわけであるが、進化を大きく分けたのは火の利用なのかもしれない。

人類の祖先であるホモサピエンスは動物界では弱い存在であった。どちらかというと中型哺乳類で、雑食であり、食物連鎖の中でいうとそれほど上位に君臨するような存在でもなかった。しかしながら、食糧確保の多様性を確保するために、地域的な広がりを持つことができ、その中で比較的火の発見もしやすく、もちろん一人が発見しただけでなく、複数人がそれぞれ発見できるほどに、地域的な生活圏の広さを持っていたのだろうと想像できる。それが二足歩行を始めたからなのかもしれないが、二足歩行→弱者ゆえの生活圏の拡大→偶然の火の発見確率の上昇→調理を覚える→脳の容量がさらに増加する、こういったサイクルがあったのではないだろうか。

ではなぜ二足歩行をし始めたのか、これについては確保した食料を両手で運搬するのに優位であったから二足歩行を始めたのである、という説があるが、なかなか面白い説だと思う。食料の運搬は、家族や親せきにあたる仲間のためのものである可能性が高く、結局のところ家族への愛が人類の繁栄につながった、そういう考え方が成り立ってくるのである。

医療の未来

子供の時に見たトータルリコールという映画は刺激的であり、確か遺伝子操作によって体のデザインができるような未来になっていたと記憶している。既に出生前診断は普通の状態になりつつあり、ゲノムの解析が終わり、これからは遺伝子の操作による選択的な生命のデザインは普通になっていくだろう。既に作物ではなされているのは周知の事実であり、人間にも利用される日は遠くないだろう。

倫理的な問題を咎める声は勿論聞こえてくるのであるが、人間の欲望というのは止められないものであり、例えば我が子にはより賢く、より健康に、と願うのは親心であり、遺伝子操作でそれができる方法が目の前に提示されるようになれば、これは倫理の問題を飛び越えて、費用対効果の問題になり、効果が大きいと判断されれば、実行がなされるだろう。頭脳がお金を生むという世の中になって久しいが、賢いことは将来の収益、すなわち収入につながるのは、かなりの領域で言えることであり、今でさえ子供の教育は最も効率の高い投資手段といわれるくらいなので、お金をかけて賢さを得て、将来的に収益を得るというのは、確率の高さ、費用対効果を考えても非常に好ましいものである。

残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか (NHK出版新書)

一方で、医療についてはどのように進化していくのだろうか。人類の寿命が急速に長くなっているのがここ100年ほどのトレンドと言えるだろう。医療、科学分野の進歩が加速的に見られた100年であったと言えると思われる。人口が爆発的に増えているのは、生産性が上がったことが原因ではあるが、医療の進歩が級数的になされているからという面もある。

そういう意味で寿命が急速に長くなったのはここ最近の、人類にとっては急激な変化であると言える。その中で、一部の器官において、今まで必要とされなかった耐用年数が必要になってくるケースが出てきているのだと思う。一定程度の割合で心臓の病で亡くなる方がいるのもそうだし、他の臓器においても、従来であればこれほど長いこと使われることは稀であったという機関において、臓器の寿命というものが問題になってきているのだと思う。

その観点から今後の医療の中心は再生医療になっていくのだろう。3Dプリンターで作った臓器のモデルなどが報道されるが、その分野は医療提供側にとって大きなビジネスチャンスということもあり、研究は進むのであろう。様々なパーツにおいて、再生医療がなされ、必要に応じて、お金を払えば臓器やパーツのスペアを作り、交換することが可能になっていくのだろう。もちろん、これは誰にでもできることではなく、一部の富裕層に限定されるように、医療提供側が価格政策をとるはずではあるが、その分野の進展は恐らく21世紀の大きな変化の一つになるだろう。

世界を変えた14の密約

そうなってくると未だに解明されていない部分が多い脳という存在を除くと恐らく多くの物は交換可能になり、脳が正常である限りは生きていく、という状態になる。さらに寿命が延びることになっていくが、人類はその状態を受け入れるのだろうか。果たして150年とか200年もの間、生きることが幸せなのであろうか。何のために生きているのか、生きるということは何なのか、そういう世界観にもつながる話であるので、またの機会に考察をしていきたい。

天皇家と日本社会

昨日子供向けの伝記漫画を見ていたが、織田信長の妹のお市の方、その娘の淀殿は秀吉の子供を産んで秀頼となる。そこからちょっと複雑なので正確には覚えていないが、いづれにせよ、信長の血と、秀吉の血を受け継いでいる血筋がおり、さらに徳川家に嫁いで、その娘を天皇家に嫁がせたという複雑な血統がある。

古くは平安時代には藤原氏の摂関政治もそうであったように、そこでも天皇家に藤原氏の女性が嫁ぎ、天皇家の血筋に藤原の血が深く混ざるということが起きたことは歴史的事実であろう。

そうやって遡ってみると、織田家の末裔も、藤原家の末裔も、豊臣家の末裔も、天皇家の末裔も広く見れば、遠い親戚ということになる。これは面白いもので、その考え方で行くと、日本全国みんなが遠い親戚ということになりそうだが、実際に数学的に計算すると1000年ちょっとさかのぼれば、どこかで現在のすべての人間が混ざり合うようになるという計算結果であるようで、少なくとも遠い親戚である。もっと言えば、20万年を遡れば、ホモサピエンスの一団に行き着くわけであり、人類みんな遠い親戚ではある。

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

そんな天皇家であるが、神武天皇から脈々と男系にて同じ血筋で血統が受け継がれていると言われている。色々な時代を経ながらも、大きく言えばヤマトの時代から日本を朝廷という形で統治しており、12世紀から19世紀は軍事政権が中心であったとはいえ、朝廷という存在が継続しており、ものすごい期間の統治をしてきた存在である。

勿論、文化的な面でも伝統を保全したり、祭りをつかさどったり、いまやこちらの面が重要視されるくらいであり、貴重な存在である。我々日本人にはむしろ当たり前の存在になっており、太陽のようにそこにあることが当然の存在ではあるが、世界的に一つの系統が統治を継続しているという状態は非常にレアである。もちろん統治とは今の形態では言えないが、国家の象徴としての皇室という存在は、経済合理性などは越えたところにあるような感じがある。

それはひとえに文化統合の存在であるからだと思う。皇室が重要視している祭事や、伝統というものが日本人のアイデンティティの確立に寄与している面があり、お祭りの文化であったり、初詣、結婚式、これら節目節目で我々は伝統を目にすることがあり、それを突き詰めて考えてみると、皇室の存在と、その貴重な歴史に目が行くのである。

海の歴史

歴史が深いというのはそれだけで、見るものを引き付けるところがある。例えば、甲子園や箱根駅伝は競技の一流なレベルではなく、むしろ100年近く継続している歴史に圧倒される部分がある。プロ野球や実業団駅伝よりもレベルが劣るのにである。同じようなことは祭事や、神社それ自身にも言えることで、歴史の長さそれだけで、重厚さが出てくるものである。それは裏を返せば、継続することの難しさを孕んでおり、いくつもの荒波を乗り越えて継続されていることに畏怖の念が生まれるのである。そういう意味で日本の歴史上、もっとも継続されているであろうことは、皇室の神技であり、天皇という存在そのものであり、歴史の長さだけでも、畏怖されうる存在となっている。今後、1000年、2000年と継続するのかはわからないが、継続する、ということ自体の難しさに敬意を示したくなるのである。