疲れと痛みと恐れ

疲れるということは何なのだろうか。例えば、長時間歩いていると疲れてくる。そこで人は疲れを感じるわけであるが、これは体が発する警告と捉えるのが妥当だろう。体はエネルギーが無くなって行き倒れるのを防ぐために、このまま歩き続けると死んでしまいますよ、という警告の意味で疲れを感じさせる。そのために、もちろん乳酸がたまってきたり、血糖値が下がったり、代謝が下がったり、色々な反応が起こり、体に疲れとして認識されて、人は休憩をとるのだろう。

これは痛みや恐れも似たようなメカニズムだと考えられる。例えば、熱された鍋とか熱いものを触って、熱いと感じるわけであるが、これは痛みを感じているわけであり、これ以上触っていると身体に甚大な影響が出ますよ、だから回避行動をとってください、という警告なわけで、それがないと人間は好奇心によってなんにでも触ってしまい、すぐ体がボロボロになってしまう。恐れも似たようなところがあり、例えば高所恐怖症と言われるものがあるが、高いところに上ったときに、ここから落ちたら命に係わる問題が起きる、もしくは身体に大きな損傷が与えられる可能性がある、だから高いところから落ちないような回避行動を速やかにとる、ようは低いところに降りてください、これが高所恐怖症なのだと思う。

先端恐怖症というのも同じことであり、尖ったものというのは使い方を間違えると、人命に影響を与える可能性があり、その尖ったものから一刻も早く回避行動をとるように則すメカニズムが、先端恐怖症なのだと思う。

人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)

これら疲れ、痛み、恐れ、というのは人類が生き延びてくる間に、必要な能力であったというのが当方の考えであり、死や肉体の損傷から回避行動を一刻も早くとるために、疲れ、痛み、恐れを感じるように人類は進化してきたわけである。疲れ知らず、痛み知らず、恐れ知らず、というとこれらは勇敢で、エネルギッシュで素晴らしい人材のように感じるが、これらが無い状態を想像すると、人のような弱い動物では種を残してこれなかったのだろうな、とかじる。疲れ、痛み、恐れを適切に感じることで、危険な状況を回避することができるのである。

疲れや恐れ、痛みには感じ方に個人差があるというのも日常生活してると感じるところであるが、これに個人差があるところも面白いところで、例えば高所恐怖症は感じる人とそうでない人がいる。これは集団において、危険回避行動をとろうとする人間と、危険に立ち向かって獲物を捕ろうとチャレンジする人が、ある程度のバランスでいた方が、集団が食料確保できる可能性が高かったから故に、危険回避をする人だけではないというバランスに人類はなっているのだろうとも思うわけである。

それでは現代に生きる我々に疲れ、痛み、恐れは必要なのだろうか。狩猟生活をしているわけでも、危険なところを開拓する必要性も、ないわけであり、一見必要がないようにも見える。例えば、マラソン選手が疲れを感じなくなるというのは、どういう状況なのだろうか。これは一面では、凄い成果を出す可能性がある。疲れや恐れ、痛みを乗り越えよう、という修行は存在しており、有名なところでは千日回峰行であろう。これは想像を絶するような修行のようでドキュメンタリーを見たことがあるが、100日とかになる前に、血尿が出て、この世の物とは思えないような、疲れ、痛み、全てを体験し、それを千日続ける修行なのであるが、修行をやり遂げた方は、ある意味ではそれらすべてを乗り越える、というか痛み、疲れ、恐れ、そういったものを達観した状態になってくるのではないか、と思う次第である。

それを達成すると、いままで限界と思われていた肉体の能力や、思考の能力を超えるものが出せるようになるのだろう。漫画の世界のような話であるが、疲れや痛み、恐れというのは、人間の能力を100まで使ってしまうと死んでしまうリスクがあるから、そこに行かないように制限をかける警告なのであり、それが無くなるということは100まで能力を出し切ることができるということである。これは進化のプロセスで体得してきた能力なわけであり、制限を取り払うということは、100までの能力を出し切れる力を手に入れるということになる。

ただ、警告が無くなるということは肉体的な負担は増すわけであり、怪我のリスクや、下手すると死のリスクが高まる。例えば、千日回峰行を終えたマラソンランナーが、疲れを乗り越える術を身に付けたとして、このランナーが元々走る事に長けてたのであれば、世界記録を出したりできるのかもしれない。ただ、制御機能が壊れたまま走り続けると、これは制御機能の本来の機能を失っているので当然ではあるが、故障が頻発するようになるだろう。疲れを無視して続けてくると、体のどこかが痛みを発してくる。それが故障に繋がってくる。

こういうバランスというものは非常に難しくて、制御できるようになるのかもしれないが、人間が20万年なのか、400万年なのかわからないが紡いできて、今に至っている事を考えると、人類が感じるこういう警告サインは、絶妙の感覚で発されるようになっているのかもしれない。疲れ知らず、痛み知らず、恐れ知らず、こういう状態になる事を想像すると楽しそうではあるが、一方で、命を短くしてしまうという可能性もあり、何事もバランスが大事だと思い知らされる次第である。

脳の容量と知能

以前にここでも書いたがネアンデルタール人の脳容量は1500㏄を超えていたといわれる。現代のホモサピエンスの脳容量が1300-1350㏄程度と言われるので、それよりも大きい。脳の容量が大きいから、認知能力が高いとか、知能が高いとか、今の我々ホモサピエンスの基準でいう尺度では一言でいう事ができないが、思考する力なのか、領域なのか、脳を使う領域は広かったのであろう。

ただ、それが例えば文化創造能力が異常に高いとか、記憶力だけは異常に高かったとか、我々の今の基準でいえば、生活のために必要な能力として活用されていたのかどうかは分かっていない。ただ、ネアンデルタール人はその脳の容量の多さにより、多くのエネルギーが必要であり、狩りをしなければいけない時間が長くなったこと、食糧が少なくなる時期にはまっさきに飢餓が襲ってくること、脳が大きいことによって不利な面があったように見られている。

ホモサピエンスにしても10000万年ほど前のホモサピエンスは、現代のホモサピエンスよりも脳容量が大きかったことが言われているらしい。1400-1450㏄と言われているようである。言語能力は10000年程度前だとあまり変わらないだろうが、10000年前と言えば当方が好きな農耕が始まったころと合致してくる。

この頃から集団で生きていくという色合いが強まったとみられている。労働を集約することで収穫量を2倍にも3倍にもできるようになったからであり、その先には国家のような大規模組織が徴税、治水をすることで飛躍的に収穫量を増やす仕組みができていったという現代につながる話になってくるのである。

残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか (NHK出版新書)

その農耕が始まったタイミングから脳の容量が小さくなっていったというのは非常に興味深い発見であり、一つには国家のような大きな単位で生産、収穫、再分配を行うようになったことにより人々の間に分業制が定着していったことと無関係ではないだろう。例えば、治水の人、例えば、耕作の人、例えば、防衛の人、こういうようにルールを決めて分業ができるようになった時代であり、権力者と言われる人間が統治を始めた時期である。例えば、一市民であるAさんは、以前は集落の安全を守ること、食糧を確保すること、子孫を残していくこと、これらすべてに気を使う必要があったし、これらすべてに長けていないと、自分と近縁の人々が反映することができない社会であった。

しかしながら、国家というものの登場により、それが分業されるようになったわけである。防衛能力が高い人は防衛を、耕作能力が高い人は耕作を、それぞれ自分の力を専門的に発揮できるようになっていったわけである。

現代の我々ホモサピエンスはどうであろうか。分業制、専業性はさらに進展しているのではないだろうか。食料生産について響きにすることもなくなっているし、安全を担保するのも対外的には国家の軍隊が、対内的にはこれも国家の警察権力が担ってくれている。税金を払えば、自分とその家族が食べていくための生産活動に力を注ぐことができるのが、一般的な先進国の状況になっているのは間違いないだろう。

そう考えると、今後も脳容量は小さくなっていくのだろうか。例えば10万年とかのスパンで見た場合に、下手したら今の半分くらいの脳容量となり、省エネが進むのかもしれない。ある研究によるとインドネシアのフローレンス島にいたといわれるホモフロレンシスは、ジャワ原人という100万年前にいた人類から進化して脳容量が小さくなったと言われている。もちろん、何に適応するために小さくなったのかというのが問題であるが、必要な食糧を少なくすることができ、生きるための食料確保がしやすくなったからというのは、大きな理由の一つであると思われる。

そう考えてみると10万年とかのスパンであれば、現生人類も食料も今の7割程度しか食べず、思考も同じく7割程度、脳の容量も7割程度、そういう社会になっているのかもしれない。これは別に不幸な未来を話しているわけではなく、ただただホモサピエンスの基準がそうなるかもしれないという話だけであり、その時の人類には最適な脳の容量になるだけの話である。ただ、もしかすると余白の活動というか、必須ではない活動である文化的な創造性の高い活動は低下していくのかもしれない。そこには少し悲しさを感じる次第である。

決定力不足という怪しい言葉

昨日、日本代表対オリンピックのU-24代表というサッカーの珍しい試合が行われていた。練習試合という位置づけでありながらテレビ中継も行われ、オリンピックに対する注目度が上がっていると感じる。

結果、内容についてどうこう言う話ではなく、それを見ながら決定力不足という従来から日本サッカーの課題と言われている言葉について考えてみた。

サッカーの専門家でもない筆者が感じることではあるが、サッカーにおける点を決めるシュートと、比較的日本人がうまいとされるパスについては、ゴルフでいうとドライバーとパターくらい違うというのが印象だ。シュートというのは多くのケースにおいて、パスよりも、時間的余裕がなく、万全ではない体勢で、強い力をボールに与えなければならない。サッカーゲームのようにボタンを押すだけだと同じメカニズムに考えがちだが、シュートとパスはそれくらい違う。パスがうまければシュートがうまいように感じがちであるが、そうではなく、シュートを上手に行うには、さらに技術や体力が必要であり、決定力不足というのはそこが足りていない、要は技術や体力が足りていない、そういう事になるのだろう。

時間的な余裕はともかく、万全ではない体勢で、強い力をボールに与えるには、筋力が必要になる。特に体幹の筋力の重要性は言うまでもないだろう。そういう意味でも、海外でプレーしている選手はその重要性に気付いているのか、それとも海外のチームがそういう方針なのかわからないが、海外に行くと選手は体が大きくなっているように感じる。これは野球選手にも言えることで、大谷翔平選手にしても筋力の増加が著しく感じる。

新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造 (NHKブックス No.1255)

日本国内で筋トレ、パンプアップ重視に何故ならないのだろうか。技術とか文化ではなく、筋力を鍛えることは時間をかければできるはずである。ラグビー選手は相当筋肉をつけている。日本の指導者とか解説者の話をテレビとかで聞く限りでは、野球とサッカーにおいては、筋力と柔軟性、筋力と速筋のキレ、これがバランスしないという声を頻繁に聞く。おそらくこれが色々な部分を阻害してるのだろう。野球にしてもサッカーにしても、世界の潮流は体力勝負であり、筋力無くして成長なし、そんな感じになっている。身体能力の高い黒人選手が各方面で活躍しているのはその表れである。

日本にはびこる筋力は悪という文化がどこからきているのだろうかというのが、今回のポイントなのだが、これは人類進化の歴史とも関係しているのでは、というのが筆者の考えである。人類は数万年前に出アフリカをして、恐らく3万年前くらいには日本列島にも到達したと言われているが、その過程で中東、インド、東南アジア、東アジアと海沿いに進出してきた一団が源流だろうと言われている。これらの移住は数万年かけて行われたわけであるが、この集団は人口密度の高まりを受けて、争いを避けることができる人間が生き残るように淘汰されていったと考えている。

ちょっと論理が飛躍しているようだが、人口密度が高いと些細なことで隣人とのトラブルになりやすい。そこで戦争や暴力に走るのか、和解の道を選ぶのか、という選択肢があるが、和解の道を選べる人間の方がとくに国家や法制度がない時代においては生存率が高かったであろう。その傾向が何になって東アジア人、日本人に残っているのかというと、「大人にならない」という傾向である。精神的には大人になるのだが、外見の印象が東アジア人はどこに行っても子供っぽい。これは今でも言われる話であるが、何故かと紐解くと、一見すると争いを避ける子供のように見えるように適応していった結果ではないだろうか。これは一応学説的にも示されている見解のようで、東アジア人は肉体的に子供らしさを残して成長していく傾向が高い。

これが現代でも傾向として残っており、日本でも韓国でも男性アイドルは子供のような存在が重宝されているように感じる。ガリガリの体を細マッチョと褒め囃すのもそういう歴史があるからかもしれない。細マッチョという言葉ほど意味が分からない言葉はないが、そういうのを見て彼らより年上の女性が喜ぶわけである。そういった未成年のアイドルが男女ともにもてはやされるのは、理想的な「こどもおとな」をそこに見出しているからではないだろうか。

そういう背景があるからかわからないが、攻撃的に見える筋力の増強というのはスポーツ界においてもあまり支持を得られていないのが日本の現状ではないだろうか。特に古い考えをする人に多い感じもするが、それにしても特にサッカーの世界で未だに筋力をつけることが好ましくないと思う専門家がいることには驚きを禁じ得ない。ラグビーを見ても、大谷翔平選手を見ても、筋力は適切に付けることでスピードも殺さないし、一瞬のキレも犠牲にしない。その事を競技を超えて確認して、筋力向上を目指していかないと、サッカーにおいては一番重要であるシュートという場面で差が出てしまうのである。これを決定力不足というなんかよくわからない言葉で納得してしまっているような気がしてならない、そういう気持ちである。