天才と認知力の個人差

アインシュタインの脳が平均と呼ばれる1350㏄よりもサイズ的には小さかったというのはよく言われる話であり、アインシュタインの脳は研究対象としても有名である。まずサイズから言えることは、天才と言われるような異常なレベルの思考力も脳のサイズとは無関係であるということである。もちろん、統計的にIQと脳サイズの相関を取ったら関連性、相関性が出てくるのかもしれないが、アインシュタインで考えると相関はないということだ。

人類の脳はチンパンジーに比べるとサイズでいうと4倍ともいわれる。これは知能の差を表していると言っても良いだろう。この程度の差になると大きな違いが表れるのだが、ホモサピエンスの中でのくくりでいうと、サイズはそれほど重要なファクターではないのかもしれない。

というのも、ここで言われるアインシュタインの知能、IQ、これらは人間的な論理性や認知力という観点、思考力という観点での比較であり、人間であることがベースになっているからかもしれない。

人類進化の700万年 (講談社現代新書)

いづれにせよ、アインシュタインが鏡を持ちながら光の速さで走り続ける思考実験を行って相対性理論を導いたことは人類にとって偉業であり、そこまで思考を巡らせた彼の知能の高さは称賛されるべきであろう。

これはパブロピカソについて話すところと似たところがあるが、もちろん、時代がそういう時期に至っていたということはある。科学技術の進歩により様々な測定ができるようになった時代であること、計算機の進歩、アインシュタインの前の時代までの様々な発見、これらが土台となってはいる。パブロピカソについても、いきなり彼がすべてを導き出したわけではなく、まずは中世的なサロンの世界からの決別というところで、彼の先に尽力した人間たちがおり、その時代的な背景があって天才的な才能が開花するという意味では似ているところがある。

思考力、認知力の個体差は何なのか、という点に戻るのだが、この二人の業績、エピソードを考えてみると、如何に他の人が考えないことを考えるか、これが大きな差となっているのではないだろうか。言葉を変えてみると、思考の中での好奇心というか、もちろん行動における好奇心もそうなのであるが、例えばアインシュタインであれば、光の速度で走り続けたら鏡に自分の像が光として到達しないから鏡には自分が写らないのではないか、この仮定が、突き抜けていたというか、他を凌駕していたともいえる。

ここには他者に染まらない、自分を貫く信念、そういったものを強く感じる。パブロピカソがアヴィニヨンの娘たちを発表したときも、他人のちっぽけな批判には全く与せず、自分を貫いた。その結果でもあるし、貫いて出した作品自体でもあるのだが、両面から彼は偉業を成し遂げたといえ、後世に名前が残るほどの天才なのである。思考力の個人差というのは、好奇心の差ではないだろうか。固定概念を払えない人というのは世の中に数多といるが、逆説的に言うと思考力が相対的に低いことの裏返しなのかもしれない。天才と言われる人は、短期的な他者の評価に左右されず、自分を貫いて、自分が興味を持つことをとことん突き詰めるところがある。これは好奇心という言葉がなせることではないだろうか。好奇心という言葉はそれほど重みをもっていないが、もしかするととてつもなく重要なファクターなのかもしれない。

芸術の本質

岡本太郎が言う芸術の本質は今日の芸術という著書にあり、当方は非常に共感しているという話を以前に書いた。これは哲学的なところがあるのだが、彼曰く、芸術は美しくあってはならない。これは芸術というのを哲学的にとらえて人間活動の精神の発露として芸術を追求していった結果、小手先の技術ではなく、物事の本質を表現することこそ芸術だ、という感覚であり、かなり抽象的にはなってしまうが、そういう面で見たときにパブロピカソの芸術作品に当方は非常に惹かれるのは事実である。

ゲルニカやアヴィニヨンの娘たち、これらは衝撃的であった。岡本太郎の作品でいうと太陽の塔や明日の神話、これらも見てると感動してくるのは事実である。

一方で、色彩や構図、被写体自身、これらの美しさを切り取る、という面での芸術活動というのももちろんあると思う。この活動を含めて岡本太郎は言っているのかもしれないが、当方の視点ではやや別物である。

日常の美しさを切り取る、これは写真家にも通じるものがあるかもしれないが、根源的に美しく感じるものは存在してるわけで、これはそれぞれの文化的な背景もあるかもしれないが、例えば夕日に染まる海岸線を見ると、これも美しさで感動を覚えることがある。この一瞬のとらえ方に秀でた人間というのも存在しており、アンリマティスを題材にしたフィクション小説を読んでて、彼はそうであったのか、と認識するに至った。

切り取った場面を独特の色彩や構図にとらえなおして、芸術作品に落とし込む。これについても特に技法を競うわけではなく、真に美しい、誰から見ても美しいものを作り上げる、そういった気概でいる芸術家も存在しており、それが達成されると感動を生み出す。

ここにも認知能力の差というものが影響しており、ケーキを切れない非行少年という本ではないが、個人による認知能力の差というのは、我々が普段認識しているよりも、人間の中での個体差が大きい。一言で乱暴に言うと繊細さということで表現されるのかもしれないが、芸術家というのはナイーブな反面、認知能力が高く、色々なものに敏感であり、美しい瞬間を見つけ出すことに秀でている人がいるのである。ナイーブだからこそヴァンゴッホのように自殺にまで行ってしまうこともあり、話は飛ぶようであるが、三島由紀夫なんかもそういう世界の人間のように思う。ナイーブだからこそ、美しい瞬間を切り取りそれを表現することに長けていた。

現代でいうと色んなものに過剰に反応しすぎる人は、一応病名がつくらしいが、それくらいこれは恐らく遺伝的に細かいものに反応する特性が生き残っている。集団の中にそういう人間がいると、外敵から逃れるのに役に立ったのだと思う。そういう遺伝的な傾向が極限まで触れるとヴァンゴッホや三島由紀夫のように美しい瞬間を切り取る行為に長けた人間になっていくのかもしれない。芸術家というのはそういう意味では大変な職業であるし、この観点から言った場合の芸術家は選ばれし人間であり、だからこそ岡本太郎の論点とはちょっと別のところから考えるべきだろう、と思う次第である。

太陽の塔

先日、太陽の塔の制作の舞台裏を描いたドキュメンタリー映画を見た。岡本太郎の世界観を詳らかにする映画であったが、関係者の証言が興味深い、良い映画であった。

太陽の塔は1970年の大阪万博のために作られたものであり、今でも大阪市内の公園に現存する。当時、高度経済成長をし、合理性や先進性が重要視されていた日本において、全く逆を行く、原始性、生命の摂理を表現するような巨大なモニュメントを制作することは、想像もできないような大きなチャレンジであっただろう。

中でも気になったのは、塔自体の制作である。今でこそ大きなモニュメントがそこにあるので、製作が可能であるというか、可能であったことは理解できるが、当時は岡本太郎の思想を反映したあんなにでかいものを作ることは、相当大変であったようで、製作指揮者の方は戸惑いを今でも浮かべていた。確か100分の一スケールの物だか50分の一スケールの物を岡本太郎が制作して、それをパーツに落とし込んで制作していったのだが、岡本太郎ができるだけ自然な風合いというか、表面のタッチを追求したこともあり、難易度が高かった。

パーツをくみ上げていって、丹下健三が作った屋根を突き破るように製作が完了したときには大きな感動が得られたであろう。しかも内部展示は、生命の起源を感じさせるような展示になっており、そのスケール間には脱帽するばかりである。

この辺は岡本太郎の世界観もあるのだが、当時の日本の勢いも表しているのだと思う。少し前の中国のように、結局できないことは何もない、と開き直る感じというか、そこに岡本太郎の世界観があるなら、きれいに表現してやろうではないか、そういう気概があったのだと思う。いまだと予算がとか、コンプライアンスがとか、安全性がとか、色々言う人がいるが、そういうのを無視して進められる勢いがあったのだろう。

その勢いは経済成長と戦後復興があればこそであり、それが日本に自信を取り戻す中で、勢いを生み出していったのだが、太陽の塔と同時期の制作で、一体で世界観を表現したとも言われる明日の神話が表現するところが、アンチ経済発展、アンチ文明、的なニュアンスであるところが、岡本太郎が秀逸なところであろう。芸術表現もさることながらその哲学と、哲学を表現しきるところが、岡本太郎なのである。

純粋な芸術表現という意味での、人間の精神の発露という観点はピカソの表現力には岡本太郎は及ばないと思うのだが、世界観というか自身の哲学をその時代の社会性に対する攻撃として表現するという意味では、そこの思考力は秀逸であり、これは若い時代にパリに行っていたこと、その時代の哲学者や文学者を含むような当時最先端であった欧州の芸術家との交流があったことが大きいのであろう。

先進地域で、先進的なアイデア、思考にもまれることは重要であり、それがあるからこそ社会に対する論評や分析ができるようになる。内に籠って、評論家になる事の危うさが、総合的に示されていると思う。外に出て、多様な感性に触れることでこそ、国内というか内部の批判ができてくるものであり、岡本太郎の精神性、日本文化、世界文明へのアンチテーゼと言えるような作品のドキュメンタリーを見て、この点を再認識するのである。