ガソリン税

ガソリン税

アメリカに住んでいたころ、カリフォルニアやテキサスにしょっちゅう出張に行っていた。現地ではレンタカーを借りて移動を行い、この二つの地域で違っていることは文化で合ったり、言葉であったり色々あるのだが、大きな違いはガソリン価格にもあったと記憶している。もちろん、オイルの価格、ガスの価格に左右されるので一概には言えないが、感覚的にはカリフォルニアで買うガソリンはテキサスの倍以上の値段がしていた印象だ。カリフォルニアは中西部地域と比べても異常に高い。

テキサスはメキシコ湾もあり、シェールガスの供給力も近く、エネルギーの州であり、伝統的にガソリンが安いといわれる。州内を走る車のピックアップ比率も体感として高いし、大きなことは良いことだ、というテキサスの気風が走っている車にも表れている。ガソリン価格が安いこともあり、消費者が燃費を気にしていない。

一方カリフォルニアといえば今やTESLAが有名であるが、ハイウェイを走っていてもTESLAの車をよく見るし、なによりレンタカーを借りるにしてもガソリン代が高いから、コンパクトカーなり燃費のいい車をレンタカーですら、選ぼうという気になる。

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前置きが長くなったが、もちろん両地域の違いはガソリン精製場所からの地理的な制約もあるのだが、ガソリン税が違っている。環境先進国のカリフォルニアはガソリン税が高いのである。それが結果としてEVの販売増につながり、市民に燃費という考え方を植え付けている。とにかく自由経済の申し子のような米国でも政府主導で環境対策を打っており、自動車は分かりやすい例ではあるが、家庭用の暖房機や他の様々なものにエネルギー効率のスコアを付けて、場合によっては補助金を投入している。

日本の場合はどうであろうか。ガソリン車の販売を2030年までに止めるとかそういう議論があるが、何より始めるべきはガソリン税を上げることではないだろうか。民間主導でEVシフトを目指すというのは虫が良い話であり、既存のガソリン車製造メーカーにとっては既存設備の活用がしづらいので抵抗するに決まっている。本気で議論をしたいのであれば、政策主導になるのが正しい姿ではないだろうか。
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実は日本の行政というのは高度経済成長期の護送船団方式のように弱いものを拾い上げることは行うのだが、戦前の軍部の暴走を許してしまったトラウマなのか、自ら政策を主導して民間を引っ張っていくというのが苦手なのかもしれない。官僚がリーダーシップをもって、批判の多い政策を実現していくという姿があまり想像できない。もちろん政治のリーダーシップがあればこそではあるので、政治のリーダーシップがないことが遠因なのかもしれない。EVへのシフトを本気で進めるのであれば、どこかで批判は受けるし、大手自動車メーカーを敵に回す覚悟も必要かもしれない。その覚悟無しに、2030年にガソリン車の販売停止といっても、どこか本気に見えず、どうせ私は2030年に首長ではないだろうから、大衆受けのいいことを言っておけ、くらいにしか考えてないのではないだろうか、と某知事を見てると思えてくるのである。

高齢社会

死亡者数の減少をどう読むのか

昨日のニュース記事に2020年1-9月の死亡者数が減少したという記事があった。9年ぶりの水準ということで、コロナウィルス感染拡大により、他の感染症の拡大を抑えることができたという何とも皮肉な結果である。外出が減って事故が減ったことによる影響もあるようで、コロナウイルスの感染拡大にも良い面があったともいえる。

一方で出生数は減少が続いているという記事もある。2019年は令和婚があった影響で一時的に増加するかもしれないが、全体の傾向としては出生数は減っている。

死亡者数が減ると平均寿命が上がるはずであり、高齢者比率の増加につながり、医療費の増加につながる。この点はよく議論されなければならない点であり、社会保障費の増加が止まらないのは、我が国の大きな論点の一つである。今回一人当たり10万円の給付金に10兆円が使われ、雇用調整金やその他のコロナ対策として異常な量の財政投入がなされている。もちろん、企業の業績の下支えとなり、20年度の税収増加に効果があったが数十兆円を賄えるものではない。2011年の東日本大震災でもかなりの復興支援がなされたが、これは確か我々が追加で所得税として25年間2.1%払い続けなければならない復興税として家計、国民に転嫁されている。もちろん、税金の使い方として復興支援はやむを得ないところがあり、日本という国に住んでいる日本国民である以上、福島を中心に被災した人たちのために、お金を持ち寄って支援しようということなので、復興税はやむを得ないところがある。しかしながら、今回のコロナショックを和らげるために使われた給付金はどうなんだろうか。家電や一部の業界へのお小遣いになっていないだろうか。国民が等しく痛みを受けたわけであり、そんな中強制的に借金を背負わされたような感覚にもなる。

税金はあくまで我々国民が支払った税金が源泉であり、当然のことながら財政政策で使われた資金の供給源は我々の稼ぎであったり資産である。例えば21年度は一人当たり1000万円の給付金を支払うという財政政策が決定されたとする。これを40年かけて返済するということになると誰が得をするのか考えてみる。世代でいうと、高齢者世代ということになるだろう。例えば平均寿命が80歳とすると、現在70歳の人は10年だけ返済すればいいということになる。一方で現在10歳の人は50歳まで満額返済する必要がある。これが将来世代への借金の押し付けといわれる所以であり、過剰な財政政策は若い世代ほどしわ寄せを受けることになる。高齢者寄りの政策決定がなされる人口構成の日本ではさほど議論がなく財政投入を決定していくが、そこは我慢ができないのか、という議論がなされるべきであり、若い世代が声を上げなければ、ただただ復興税のように、先々の稼ぎが減らされてしまう、という事態になってしまうのである。高齢化が進むということは平均寿命が延びているという良い面もあるのかもしれないが、政策決定においてどうしても高齢者寄りになってしまうという、今までの人類が経験していない問題を抱えてしまうのである。

Houstonの停電

Houstonでの停電

筆者も友人がテキサス州に住んでいるので、非常に気になるニュースであるが、何が重要かというとインフラ整備の重要性を感じるニュースであろう。とにかく、これはアメリカにも日本でもいえることであるが、インフラは老朽化している。もちろん、今回のHoustonの停電は寒波が襲ったことにより電力消費量が想定以上になったというところから始まってはいるが、その間接的な影響なのかどうかはわからないが、水道管の破裂が頻発して、水の確保に四苦八苦しているというニュースが印象的だ。

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日本は戦後しばらく恐らく70年代頃がインフラ整備のピークだったと思われる。アメリカはもう少し前だろう。そのころに水道管であったり、ダム、発電所、道路、橋梁、これらのものがどんどん整備されていった。筆者が米国に住んでいた時に感じたのは、インフラの州毎の整備の違いであり、税収の差が反映されるのだろうが、カリフォルニアやテキサスは比較的新しい高速道路の建設も行っていたし、新たなインフラ整備にお金をかけている印象であったが、中西部例えばオハイオ、ミシガン、その辺りは橋梁にしても渡っていいのか、と思うものも見受けられた。

米国でのインフラの老朽化、特に橋梁の老朽化は言われており、既に60,70年建設から経過してしまっている橋梁が全米に何十万とあり、すぐに補修が必要なものがそのうち何割も占めているという状況であった。これは米国に住んでいる橋梁のコンサルタントに聞いた話であるので間違いないが、米国では橋梁だけとってもインフラの老朽化は喫緊の課題なのである。日本はインフラが劇的に整備されたのが、米国よりも少し遅れているが、これから10年もすれば同じような状況になってくるのではないかと思われる。寒波が襲うと水道管の破裂による被害も出てくるだろうし、橋梁や道路の老朽化による災害が発生してくるのかもしれない。

そういう状況故、トランプ前政権もバイデン政権もインフラには投資をする、と掛け声が大きい。トランプ前大統領も当選したときは、10年で100兆円だったか、そんな話を言ってたと思う。しかしながら、財源問題にあたるのである。

税金を増やした上で、今後40年、50年の未来を見据えたインフラへの先行投資、というのは民主主義が進めば進むほど、予算として通過しなくなる。民衆は明日のパンを欲しがるのである。即効性のある政策を掲げる政治家が当選しやすいのが民主主義の問題点であるが、これが現在の米国ではもろに出ている。もっと象徴的なインフラによる事故なりが発生しないと、議論が盛り上がらないだろう。

これは日本でも警戒すべき状況である。世の中的には民主主義を進めることは良いことだという価値観があるようだが、これは中長期の国家戦略にはマイナス効果になりかねない。ノスタルジックではあるが、旧来の自民党はそういう長期的な戦略をある程度は描けていた気がするが、今は場当たり的で困ったら定額給付金、こんな発想しかない。政治が弱まったのか、民衆が短絡的になったのか、リベラルな思想が浸透しすぎたのか、分からないが、民主主義をこのまま進めていくと、個人主義、自由主義が過剰になり、インフラの崩壊、そこからの災害が多発する社会になるだろう。これは怖い未来であり、だれも望んでいないようであるが、今の自由主義というのが行き着く先はそんな社会であるような気がする。