21年以降の経済

2020年12月2日の日記より

21年以降の経済

バイデン政権の勝利がかなり確実なものとなってきており、組閣人事が発表されるようになってきた。本日の報道によるとジャネットイエレン氏の就任はほぼほぼ確定のようだがそれ以外の財政担当関係も案として挙がってきている。バーニーサンダースの政策よりの左派的な人事に傾く傾向が強いとの日経新聞の報道であった。バイデン氏は積極的な財政出動、大きな政府を標榜しており、それと引き換えに富裕層への増税と国債の乱発がなされる事となるのだろう。

富裕層への増税は一見再分配のシステムとして機能するように感じるが、これは万能なのだろうか。万能というのは理論的には税金を高めて、北欧諸国のような再分配を行えば低所得者のセーフティーネットは拡充される、というのが一般的な理屈なのだろうが、アメリカ経済やアメリカの文化的背景から、果たして成功するのだろうか。

まず先進諸国での税率の引き下げ競争というのが特に法人税では言われており、法人税増税に動く場合は、例えばイギリスなど法人税率が低い国への企業の移転が促進されてしまうかもしれない。それも止むを得ずという判断になってくるのかもしれないし、それが左派的な大きな政府の真骨頂なのかもしれないが、その点も含めて、アメリカ経済の強力なけん引役は、一部のテック企業のような大規模に稼げる企業と、その周辺と金融関係等の強力な富裕層である点が、他国とは大きく違うかもしれないという前提があり、成功には疑問符が付くと言わざるを得ない。

アメリカ社会は富裕層の資産割合がどんどん増えて分断が進んでいると言われるが、その富裕層の消費が、経済を動かしていたのも事実であり、さらにはアメリカンドリームという舞台装置が低所得層の不満を押さえていた面がある。アメリカのテレビではセレブの私生活を映し出すのが本当に多い。スポーツ選手にも言える事だが、セレブは身近な存在であることを示し、アメリカンドリームは誰にでも起こり得るという刷り込みのようにも見える。

そもそもアメリカという国はピルグリムの移住のころから、夢を追って建国して、西へ西へと夢を追い続けている民族であり、その幻想を下支えに驚異的な成長を遂げてきたという国である。これが400年という短くはあるが濃密な歴史のバックボーンとなっている。だからこそ西海岸のテック企業が世界的な成功を収めるわけで、大きな原動力は、夢を追う事をリスペクトする環境や、個人は個人というような文化であったり、多様性を受け入れるというような全体主義とは反対の思想であったと思う。

しかしながら危機の時には、反動が起こるものであり、今回のバイデン陣営の勝利はまさにそういう事だろう。そんな中、財政運営が左寄りになるというのは、他国が行う以上に危険をはらんでいると思われる。成長の大いなる原動力であった富裕層に負荷をかける事は、大企業の行く末だけでなく、低所得者層への悪影響も出てくるだろう。

富裕層が購買するサービスの担い手の低所得者層の所得も減るというのは、アメリカでは特に速度が速く影響してくるとみられる。これらの仕組み、400年の歴史のバックボーン、こういう事を加味して共産党的な考えを毛嫌いしてきたのが戦後のアメリカの歴史でもある。しかしながら今、移民が増え過ぎた結果なのかもしれないが、左に大きく舵を切ろうとしているようにも見える。

大衆迎合的な政策を取り過ぎるとバイデン氏ではコントロールが効かなくなり、どんどん左巻きに行かざるを得ない負のスパイラルになり、アメリカの共産主義化の流れが出来、財政出動が止められない、国債金利が上昇する、抑え込みのためにFRB金利引き下げ、金融緩和の拡大、これらが起こる結果、日本の失われた20年以上のデフレ圧力が高まる可能性もある。ドル経済圏の代表格であるアメリカでデフレが発生するとこれは日本で過去に起こったような影響度ではなく、全世界が影響を被る事になる。モノの価格が下がっていき、現金の価値が相対的に上がる、そうなると預金比率も増えて行って消費が冷える。コロナで消費が冷えている処に、さらに世界的なデフレが発生するようだと資本主義経済というもの時代の寿命を迎えてしまうのかもしれない。もちろん、グリーンニューディール的な政策が需要を喚起して経済の持ち直しに貢献する可能性も大いにあるが、どちらかに転ぶというような、不安定な状況であることは言えるのではないだろうか。

強さと生存力

2020年12月8日の日記より

強さと生存力

現在ジャックアタリ氏の著書を読んでいるが、新たな発見という訳ではないが、先日読んだ文章に、6万年ほど前まではヒト属というのだろうか、ホモサピエンスと同じくヒトと分類される種類の生物がいくつか生存していた。ホモサピエンスも含めて、それぞれ100万人程度の人口であったようだが、代表的なのはネアンデルタール人、デニソア人、そういったヒト属の生物種が存在していた。その中でホモサピエンスだけが現代にも生存しており、繁栄している。ネアンデルタール人、デニソア人、といったほかのヒト属は絶滅してしまった。頭蓋骨の解析や、体躯の骨の解析などを通して、最近言われているのは、ネアンデルタール人はホモサピエンスよりも脳の容積は大きく、体躯も大きく力も強かったであろうという事である。このように強くて賢いネアンデルタール人が絶滅し、相対的には弱くて脳も小さなホモサピエンスが生き残り、今や繁栄しているのである。

何が言えるのかというと、種の生存競争に脳の大きさと力の強さは影響するものの絶対的な因子では無いという事だろう。例えばゴキブリは数億年前から生存しているとも言われるし、恐竜は6400万年前に絶滅している。ネアンデルタール人の絶滅の理由については当方はよくわかっていないが、恐らく6万年前とかに来た氷河期というか寒冷の時期の影響が大きかったのではないだろうか。マンモスとかと同時期を過ごしていたのがネアンデルタール人であるが、寒冷期に絶滅の道を歩み始めたという説明がしっくりくる。

ネアンデルタール人はそもそも現在のレバノンとかトルコ、そこから欧州に向かって広がっていったように、ホモサピエンスと比べると比較的高緯度に広がって行った可能性がよく言われる。外敵が少ないところに生活範囲を広げていったのであろう。それは生活をしやすくする上では重要な事である。

しかしながら、外敵が少ないのには理由があり、そもそも長い期間で見た場合に、生存に厳しいからと言う事があったのだろう。短中期でネアンデルタール人は外敵の少ない環境での生活を選択していったが、まさに彼らというかそこにすむ生物にとってのリスクであった寒冷期が来たことで絶滅の道を歩んだ、そういう見方も出来るのではないだろうかと思える。ホモサピエンスは外敵が多い環境の中で、海を渡ったり海岸線を歩いて移住する事はあったようだが、どちらかというと広く浅く生活圏を広げていった。どの土地に行ってもメジャーな存在にはなり得なかったのだろう。その事が色々な知恵を生み出し、様々な環境で生活する同種の存在を生み出し、どこかで集団の消滅があっても全体として生き残る事が出来た。それが今日のホモサピエンスとネアンデルタール人を分けた違いなのかもしれない。

これは今日の企業活動についても言えるのかもしれない、とふと思った。技術力があるからと言って外敵が少ないところで、環境変化のリスクを後回しにして生きていると、絶滅の危機が迫る。環境変化のリスクというのは、技術力があっても、対処する方策を考えていないと回避できない。ガラパゴスと言われた日本国内で競争していた家電メーカーや、携帯電話製造会社、そういった会社がグローバル経済に飲み込まれていった姿に重なる所がある。一部の企業は環境変化に適応できず消滅していった。これはネアンデルタール人の絶滅にも通じるものがある。もちろん、ネアンデルタール人のDNAが現代のホモサピエンスには一定程度含まれており、交雑があり、痕跡が消えたわけではないが、それもハイアールの家電事業のようなもので、痕跡はあるが元の種としての存在は無くなったと言っても言い過ぎではないのである。

セーフティネット

2020年12月9日の日記より

セーフティーネット

コロナによる経済の落ち込みに対して財政で対応しようというのは全世界で検討されている。バイデン氏は4兆ドルだかを4年でグリーンニューディールにとか、日本も国家予算が既にいくらか分からないくらい、国債発行が100兆円とか言っている次元になっている。

感染症の日本史 (文春新書)

言うまでもなく、これらのお金は国民の税金もしくは国債という形で将来への借金というもので担われている。現役世代の豊かさを維持するために、将来世代の貯蓄を切り崩している、そういう見方も出来よう。しかしながら、経済というのは程よいインフレをしながら大きくなっていくものであり、例えば米国で言えば30年前の100万円の借金は今や大した額ではない。そういった発想で雪だるま式に成長していくのが資本主義経済であるそういう言い方もできる。ここ30年間で大きく変わった事はお金の価値も一つであるが、経済格差は深刻な問題と言えるだろう。

30年前と比べて、米国では上位1%の占める富の割合が14%から20%程度に上昇している。50年前は10%程度だったらしいから50年で倍になっている。これはまさに複利効果であり、資産を持っている人間が積み立ての効果で裕福になっていくという資本主義の金利ゲームを端的に表している。その次元から考えると、資本主義経済という経済システムが転換されない限り、裕福な人間はより裕福に、そうでない人間はより貧困に、こういった傾向は今後も進むことは間違いない。日本は比較的中流が多い国、一億総中流などと言われたことも過去にあり、まだ年寄り世代にはその幻影が残っているかもしれないが、既に富の格差は発生しており、今後ますます格差が広がっていくだろう。これは制度的にというか、システム的に避けられない事である。

そうすると何が起こるかというと民主主義的な政策決定とのギャップである。富める人間の数は限られており、多数決をすると不利になってくる。経済的に不満を抱えた人間が政策決定に影響を及ぼすようになる。そこで何を行うかというと資本主義の破壊であり、全体主義的な政策の導入を叫ぶようになる。全体主義は中長期的に経済成長を止めてしまう事はソ連の実験で明らかであるが、そこに先祖返りしてしまうのである。

そうなるとデッドロックであり、まさに新興国の罠のようなもので、経済成長も出来ず、国家の混乱も止められないという状況になってくる。この両輪の両立は非常に難しくどこの政府も苦心している処だと思うが、本日の日経新聞を見ててその事態を出来るだけ避ける事にセーフティーネットとしての全国民への最低レベルでの現金支給は有効なのだろうか、とふと考えた次第。

不満を持つ人たちが立ち上がる時のモチベーションは何だろうと考えた場合、恐らくは「富の格差」というのに不満を持っているだろうが、大きな声に繋がるのは「食うに食えない」という事態になる時だろう。江戸時代の百姓一揆もそうだし、殿様がご機嫌で農民が食べるものがあれば、殿様が贅沢を尽くしていてもそれほど大規模なデモには発展しないだろう。しかしながら、困窮が極まると政治的な混乱が避けられないほど不満が鬱積する。そういう中、資本主義による経済成長を邪魔させない程度の生活を保障する程度の現金支給というのは、生活保護という政策よりも真剣に議論しても良いのかもしれないと思うに至った次第。