原子力発電と再生可能エネルギー

2020年11月19日の日記より

原子力発電と再生可能エネルギー

日本政府も2050年までの実質CO2排出量のゼロを目指すという方針を表明したが、足元の現状は、日本の再生エネルギーによる電源比率は18%にとどまるらしい。欧州主要国は40%前後と言われ、太陽光、風力発電が一定程度普及している。日本は国土が狭い、という考え方をする人がいるが、欧州の国々と比べたら、フランスやスペインと比べても2割少ない程度で、ドイツよりも国家面積は大きい。

この日本は小さな国とか、国土が狭いという先入観は困ったもので、米国や中国、ロシアという日本を取り囲む国と比べると小さいだけで、世界には180か国とも200か国とも言われる国々がある中で、小さい国と言えるのかというとそうでは無いと思う。ともあれ、そういった国家面積が近い国々と比べても再生エネルギーの活用割合は小さい。気象条件が違うとかいろいろあるのかもしれないが、一番大きな違いは、政府主導で取り組んできたのかどうか、という点だろう。

太陽光発電により発電された電力の買い取り制度など、スペインやドイツが先行して、日本は模倣をしてきた。太陽光発電の発電効率を上げるのに成功した、という日本企業や大学の研究室の発表をみる事があり、そういった分野では日本は優れた成果を上げているかもしれないが、いかんせんコストという観点から言うと、完全自由経済の下では再生可能エネルギーの普及への壁が高く、コストが高いのである。

優れたものを作る事と、世の中にそのものが普及するかどうか、これらの点が重なる部分もあれば、重ならない部分もあるという所について理解が進んでいないというのが、旧来から言われる日本企業のガラパゴス的発想なのかもしれない。ガラパゴス諸島というのは文字通り島であり、他の地域と断絶されていたからゆえに、ガラパゴス島の動植物は独自の進化を遂げた。それを使った例えとしてガラパゴス化という言葉が使われるが、日本という国家はそういう意味で江戸時代の鎖国の時の影響をいまだに抱えているのかもしれない。

それは言語的な意味で外国語の浸透が少なかったりもしたし、文化的な意味でもそうであろう。さらにもっとも重要なのは精神的な部分なのかもしれない。国内の閉鎖体系に存在する事が居心地が良い、こういった発想は依然として我々の精神のどこかに残っており、外国の事は外国の事、こういった整理をしてしまうのかもしれない。

話を戻して、再生可能エネルギーの普及については、石炭火力と比べてコスト競争力が無い再生可能エネルギーを活用するには、国民の負担が必要であることは間違いなく、税金を活用した普及の後押しが不可欠である。それらを実践できたのが欧州のしかもドイツ、フランス、スペイン、イタリアと言う事になるのだと思う。これが出来るためには、国民的な議論と、国民のリテラシーの向上が必要になる。

それらを活性化させるのは政治家と言われる人たちの仕事なのかもしれないが、本質は民主主義国家である限り国民の議論であり、国民の意識が重要になってくる。環境はどうでも良くて金儲けが重要、そう考える国民が多いと議論は進まず、再生可能エネルギーの活用も進まない。電源構成比率についての戦略を示す、そこまでは経済産業省と政治家の議論が必要であるが、それにどこまで税金を費やすのか、ここを本質的に動かすためには、国民の意識が上がる必要がある。

その点を突き詰めた時に、筆者自身が大きく日本と欧州で異なると感じるのは教育であり、教育も現状を切り取っただけの話ではなく、例えばここ50年の教育の積み重ねではないだろうか。例えば70歳前後の女性の教育レベル、というので比較すると、50年ほど前の話になるが、客観的に見て高等教育機関の充実は欧州の方が早かったであろうことや、戦後の復興期の日本を考えると、現在の高齢者と呼ばれる人たちの教育レベルが違うのではないか、という所に行き当たる。日本は65歳以上の人口が35%以上と言われ、選挙権を持つ人口比で言ったらさらに高くなるだろうし、世代別投票率を考えると、恐らく65歳以上の人が選挙に投票する人の50%を超えるのではないだろうか、とすら思われる。

そういった層の環境に対する考え方が変わらない限り、この議論は進まない。これは働き方改革とか、子育て支援とかにも通じる話であるが、日本の選挙は半分前後が高齢者によって行われていると見積もれる現状から言うと、高齢者の好きな政策に傾きやすい。

少子化が改善されない事、働き方改革が進まない事、再生可能エネルギーの割合が増えない事、これらをすべて一色淡にするのは乱暴ではあるが、政策決定が高齢者寄りになってしまうのが、現在の日本の社会であり、政治であるとは言えるのではないだろうか。今の70歳は戦後生まれであり、復興とともに育った世代である。20年後の団塊Jr世代が70歳になる頃は、すでにバブルとともに育った世代が高齢者になる。この世代は平均的な教育レベルは高くなるだろうが、個人主義的な思考が強いので、どちらかというとアメリカ的になっていきそうな気がする。もちろん人口動態上、団塊の世代が退場していくと、高齢者人口の比率が下がるであろうから、その頃には70歳前後の人々の思想を議論すること自体が、重要性を失っていくのかもしれないが。

金融緩和と財政政策

2020年11月30日の日記より

金融緩和と財政政策

財政規律という言葉を聞かなくなってきたと感じる。国家予算のプライマリーバランスをゼロにするというのは景気が良いと良きに予算の締め付けの理屈として出てくるが、現在のようなコロナ禍は緊急事態と捉えられている節がある。緊急事態であれば財政規律を気にしなくて良いというのも無理やりな理屈であるが、そうであっても時限的にやるとかをしないと今までの話との矛盾を感じざるを得ない。

そもそも財政規律というのはどういった議論なんだろうか。よく言われる議論であるが、家庭の借金というのは多くなりすぎると自己破産をせざるを得なくなるから借金は少ないほうがよく、国家の借金も累計債務が何百兆円で国民一人当たりの借金は何百万円だから、将来世代に重荷を残す、これが財政規律派の理屈になっていたのだと思う。一見もっともな話のようだが、一般家庭にしたって、将来の稼ぎを見込んで借金をして、自己の資産を増やすという住宅ローンを組んでいる人は少なくない。富裕層よりも一般的な所得層でも大きく用いられる手法である。住宅ローンを組むことで、生活の基盤を安定させて、しかしながら何千万円という借金を将来の収入で返すという姿にして、現在の収入以上の生活を行う、これは現代的な資本主義経済の下で生活している人間にとって、ごく一般的な手法である。

国家の借金も理屈は同じであり、将来の稼ぎはインフレ率も考慮したうえで、現在の稼ぎよりも大きくなるから積極的に借金をして、現在の稼ぎよりも大きなレバレッジを効かせて経済を大きく成長させる、その成長がさらに将来の稼ぎの拡大につながるので、将来に返済できる規模であれば、財政出動を積極的に行い、現在の稼ぎを大きくさせるというのが赤字国債発行の大義名分になるのだろう。

ここで問題になるのは、過剰なインフレを引き起こす可能性があるリスクであったが、日本という国で見るとむしろデフレの方が問題になっている。デフレ状態になると、現在時点よりも将来の稼ぎが小さくなるので、相対的に借金を返す力が無くなって行ってしまう。

今問題となっているのはこの部分であり、日銀にしても政府にしても物価引き上げに必死になっている。赤字国債の問題と連動しているが、赤字国債そのものよりも物価が上がらないことが本質的な問題となっている。赤字国債多発による信用喪失、ハイパーインフレというシナリオも過去には言う人はいたが、これはほとんど日本円においてはリスクとは言えないだろう。最近は誰も言う人がいなくなったが、何故ハイパーインフレが起きないか、デフレが進行してしまうのか、問題の本質となる現象があり、これはひとえにグローバル化の影響と言える。

お金を刷っても国内だけの話ではなく、その資金は海外の資産に流出していく。これが国内の資産との対比においての、お金の価値の低下に直結するという以前のようなクローズドの市場ではなくなっている。いくら一国がお金を緩和して印刷しまくっても、それを使って投資する対象資産というのは、世界中で見ると莫大になるので、日本円を刷りまくっても、紙幣の価値という意味では薄まり方はほぼゼロに等しかった。これはデフレという観点でもそうで、結局国内で緩和を行い、競争力がある製品を作ろうとしても、海外から安いものがいくらでも入ってくるし、国内企業についても世界で戦うために海外工場で生産したものを日本で売ろうとしている。

これらが引き起こしているのがデフレであり、さらにはこれは海外の低賃金の国の労働力で生産しているので、国内の賃金上昇につながらず、ますますデフレのスパイラルは加速していく。このデフレスパイラルは国内の需給環境で語られることが特に15年前くらいは多かったが、グローバル化によるところの方が多いだろう。不動産の価値が右肩上がりな事と、葉物野菜の値上げの話をよく聞くのは偶然では無いと思われる。これらは国外から持って来づらいものであり、というか不動産は持って来ようがないが、これらは日銀の金融政策によるインフレの恩恵を受けているのである。ここにだけ、クローズドの国内的な考え方が起きており、今後はハイパーインフレ的になってくるのかもしれない。しかしながら大多数の物については、グローバル化の理屈の中でインフレを起こせずにいるというのが実態であった。

しかしながら、基軸通貨である米ドルが大きく緩和に舵を切ったのが今年のコロナである。欧州も追随している。さらに米国は民主党政権となった事で、さらに大きな政府を目指し、どんどん国債を発行していくだろう。

日本の例で国債の乱発はインフレを起こさないという前例があるからという話もあるかもしれないが、日本円と米ドルでは影響力が違い過ぎる。米ドルの信認が揺らぐことで、ドミノ的に信頼が揺らぐ通貨が乱発する恐れがある。民主党政権に移行した後に恐らくドル安にはなるだろうが、下手すると数か月から一年以内に大きなドル安、米国民の資産価値が相対的に大幅に切り下げられるような形が出てくるかもしれない。これは歴史的に見ても、米国の一人勝ちの終焉という大きな流れとも合致しているようであり、避けられないのかもしれない。そのためにバイデン大統領が選出された、ここは穏やかに米国主義の時代の終焉を見守ろう、そういった意思表示とも見れる気がするのである。

海と海洋国家

海と海洋国家

生命というのが地球に誕生したのは海であるし、海があるからこそ、水があるからこそ地球は生態系を維持して、今日に至っているというおおまかな主張には恐らく間違いがないだろう。そういう主張から始まる本を読み始めたところだが、見出しを見ると、歴史時代以降については海洋国家が世界の覇権を握ってきており、今後もその傾向は続くだろうと書いてある。海洋性国家である日本としても面白い論点であり、今後の展開を期待せずにはいられない。

そもそも海というか水の性質が特異であり、酸素原子と水素原子二個が水分子を形成しており、水素結合というユニークな結合を作り出して水となっている。分かりやすいところでユニークな性質としては、水は液体の時の方が個体の時よりも体積が小さくなる。小学生で習う事実であるが、これは水に特徴的な性質であり、水素結合という特殊な結合がそうさせている。

宇宙の始まりで最初に発生した元素は水素であり、一つの陽子と一つの電子からなる原子である。それに時間を経て生成された水素原子がくっつくと水分子になるのだが、ここで特別な関係がそれ以降続くことが決定されたわけである。その後太陽系生成時に水分子が生成されていき、太陽系の惑星には地球のみならず、氷が存在していたり、その痕跡が見られる惑星がある。人間の体の6割とも7割とも言われる部分は水分と言われているし、水が無ければ生物は存在しえないという事から考えても、その貴重で尊い存在であることが推し量れる。

さて、まだ本を読む前ではあるが、海洋性国家と大陸性国家の違いは何なのだろうか。元寇で攻めてきたモンゴル帝国は大陸性国家の最たるものであり、朝鮮半島にあった国の援助を得て日本へ攻めてきたと言われているが、やはりモンゴル帝国にとって海戦は苦手だったのだろう、二度とも日本側が勝利したと言われている。

武力で優れているモンゴル帝国も環境の変化に打ち勝てないというのを奇しくも証明してしまっている感もある。海洋性国家と大陸性国家という対立軸があるわけではないかもしれないが、海と陸での違いを考えていくと、どちらも畏怖すべき存在なのかもしれないが、例えば旅をする立場、狩りをする立場で比べた場合、環境の変化が激しいのは海の方だろう。

こんな簡単な言葉では説明しつくせないものであるが、海の方が不確定性は高く感じる。その中での知恵の出しあい、生存への工夫、これらがあってこそなのかもしれない。自分が日本国出身で海洋性国家に身を置いているからのひいき目はあるかもしれないが、こういった要素が歴史を分けてきた可能性はある。

身近な例で言うと、日本の中でも北海道は大陸的な感覚があると言われることがある。その性格は、穏やかでのんびりしたものであるが、経済的な成功という観点からはあまり好ましいものでは無いというのが現代の価値観だろう。アイヌ民族が近代史以降追いやられてしまっている事なんかも考えても、海を操るような国家、民族に対しては、なかなか勝てないというのが、もしかすると背景にあるのかもしれない。

もちろん、そういった対立に勝利する事だけが人生の勝ちではなく、共生を目指すような考え方に理想を感じるのは間違いないが、現代社会という枠組みというか価値観の中では、勝者は経済的な勝者であることは疑いようがなく、そうなる為には圧倒的な収奪力がカギになってくる。その戦いに勝利したものが経済的な成功を得られるわけであり、その為にはそういった対立に勝利する事が求められる、というのが気持ちよくはないが現代社会の価値観なのであろう。