EVに関する考察

EVに関する考察

ESG投資が強く叫ばれるようになり、恐らくはこれからEVの普及というのは拡大していくだろう。米国のCaliforniaでは特に強く叫ばれており、確かに西海岸ではテスラをよく見る。今後全世界的にさらに増えていくだろう。その割には、実感として充電インフラが増えているとの実感は少ない。確かに米国ではオフィスビル、ショッピングモールで充電ステーションを見る機会は多いが、例えば、Interstateのハイウェイで見るかというと、あまり見た記憶はない。

多くのEVの所有者は充電を自宅かオフィスで行うというのが米国の調査結果らしい。恐らくは日本でも充電は自宅で行うというケースが大半なのだろう。問題になるのは充電に要する時間だというのは間違いない。ガソリンエンジン車との決定的な違いはエネルギーを充填する速度である。

日常生活において、自宅とオフィスというのは間違いなく長時間車を止めておくことができる場所である。5時間でも6時間でも充電する時間が日常的にある。この間に充電をしておくというのはリーズナブルであるが、今後のEVの拡大にはロードサイドの充電が要になってくるし、筆者としてEVを買うとしたらロードサイドでの充電の安心が無いと、特に日常的に通勤で使用するわけではない日本においては、なかなか触手が動かない。

基本的には車の使用は休暇時期であり、街乗りもあるが長距離の比率がどうしても多いからである。これは米国で生活して分かる事であるが、筆者が現在住んでいる東京都内と、米国で日常的に自動車で通勤する生活を比べた場合に、自動車の長距離利用の比率は圧倒的に東京の方が高いだろう。自動車はレジャーに使うものという比率が高いのである。もちろん、これは東京だからという話もあるが、日本は人口密度、都市への人口集中度は高い。この観点から言うと、本来ロードサイドの充電施設が充実しなければEVが普及しないという点においては、日本の方がその通りなのである。また、住宅、職場の面積が相対的に狭く、充電施設を設置しづらいという面もあるだろう。だからこそハイブリットが普及したというのは非常に整合性が取れる話であり、恐らくはこういった理由からだろう。

それでは今後の社会はどうなっていくのか。ESGや政策的な環境規制が無ければ、ゆっくりと二分化していくだろう。Californiaのように自動車の日常使いが多いところではEV化が進み、自動車のレジャー遣いが多いところはそれほど進まない。これのブレークスルーは、積極的な政策による環境規制と、ロードサイドでの充電施設の拡充、充電速度の向上が必要だ。

充電施設の設置自体は、今家庭で使われるような簡易的な充電施設であれば、恐らくはガソリンスタンドのような高度な保安基準を要求される施設に比べれば費用はそれほどでもないだろう。しかしながら充電速度は課題となる。急速充電で30分とか言われても、はっきり言って使いたくない。やはり3-5分程度で終わってもらう必要がある。

こうなってくるとかなりの電圧が必要になってくるはずで、保安基準、取り扱いの資格、蓄電施設、電圧のコントロール、こういった技術的にも費用的にも大きな改善が必要な項目が続々と出てくる。これらをすべて整備して、Californiaは2030年にガソリン車の販売を禁止できるのだろうか。小さな変電所をいたる所に建設するようなものであり、保安基準をかなり高めなければいけない。この点は一つの壁になってくるだろう。現状は恐らく、日常乗りを前提にした議論が先行している段階であり、これに無理やり日本の消費者が追随するのは難しいと思われる。

それであれば、燃料電池車に理があると考える。こちらは水素のインフラが必要だと言われるが、水素の製造というか水電解さえできる設備が海岸沿いにでもできれば、あとはガソリンと同じくトラックで運搬すればいいので、日本の場合は輸送インフラはそれほど大きな問題では無い。貯蔵についても水素吸蔵合金や、高圧水素ボンベの開発はかなり進んでいる。充てん作業のところが問題になってくるが、同じ揮発性が高い燃料であるガソリンが一つの指針となるので、比較的取り組みやすいだろう。

水素の場合の問題点は、製造コストになってくる。こちらのブレークスルーが必要であり、マスベース、現在の生産量とはけた違いの数字を達成する事が出来るのか、この点の技術革新は必要なので、本格普及には時間がかかる。もう一つは、米国のような国土が広大な国のロードサイドでの水素ステーションの普及には時間がかかるだろう。水素の揮発性は非常に高く、運搬中のロスが多量に発生する懸念がある。もちろん、高性能バルブや、水素吸蔵合金で解決できる面もあるだろうが、広大な国土の隅々まで水素を至らせるというのは、ロードサイドの急速充電基設置と同じくらい難易度が高いのかもしれない。

ただ、それらを総合すると日本が燃料電池向き、米国がEV向きという感じはしなくもなく、現在の業界地図を示しているともいえる。今後はどうなるかというと、こういった国々の特徴によって普及の壁が異なっており、安易にEVや燃料電池に舵を切りずらい膠着状態が続くのではないだろうか。これらを考えるとガソリン車のインフラが整っているからこその優位性というのは引き続き残っており、思ったよりもガソリン車は生き残っていくだろう、というのが正直な実感とはなっている。

カトリックとプロテスタント

カトリックとプロテスタント

マルティンルターがカトリック教会の免罪符販売など、金稼ぎのための宗教利用について反発して、宗教改革に走り、カトリック教会に対する反発者という意味でプロテスタントという存在が世に広まっていき、どちらかというと欧州を北に行くとドイツなどのプロテスタント寄りの国が多く、南にはイタリアを筆頭に、スペイン、フランスとカトリック系が多いとは言われている。プロテスタントは実務的で勤労を美徳としており、カソリックはより宗教的で信仰と人類愛、家族愛これらが生活の基盤となっている印象である。

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食べ物はカトリック系の国が圧倒的においしいと言われる。スペイン、イタリア、フランスのような国の食文化と比べた時に、ドイツの食文化のなんと貧弱な事か。どちらかというと労働者が栄養源としてのみを考えて、食事を摂取するという感じだ。カナダに行っても、モントリオールがあるケベック州は食文化がある。それはフランス文化圏だからであり、他の地域とは一線を画している。一国の中で文化圏が違う例であり、これは非常に分かりやすい対比となっている。

海の歴史

しかしながら経済界で現時点で成功していると言えるのは、ドイツ、英国、また英国の起源を有する米国であると言えるだろう。ここに宗教改革の本質が表れているともいえる。怠惰で宗教に傾倒し過ぎたカトリックに対するアンチテーゼだったわけだから、勤勉で現実主義なプロテスタント系が資本主義というからくりに会っているというのは勿論当然の事だろう。2008年以降の欧州債務危機でも主役はスペイン、ポルトガル、ギリシャ、イタリアだった。南ヨーロッパの国々である。

そのように考えると、現代社会において経済発展を則す一つの原理は脱宗教と言う事になるのかもしれない。国として宗教色が強いところは、中東やインド、インドネシア、エジプトなんかも言えるし、先ほどの南ヨーロッパ、についても言える事であるが、残念ながら国民の関心が宗教的な事に向かってしまい、経済振興に振りきれないのかもしれない。

20世紀は米国、日本、ドイツというそういう意味では宗教感の弱い国々が対立する世紀だったが、21世紀はどうなるのだろうか。中国の台頭は21世紀に入ってからであり、同じく宗教色は弱い国とは言えるだろう。米国の現状はどうだろうか。分断が鮮明となり、保守とリベラルの溝は深まっている。そんな中経済を引っ張っているのは明らかに西海岸にいるリベラルな思想を持った人たちである。

一方、ラストベルトとか伝統的な白人中間層は以前よりも、恐らく70年代、80年代は必死に働き、経済的な恩恵を享受していたが、一生懸命働く事で稼げる仕組みが無くなってきている今、結果として宗教的な活動へ傾倒している人間が増えているように感じる。これはメキシコからの移民が増えていた事にも影響されるのかもしれないがカトリック的な保守的な宗教観が強まっているのではないだろうか。

稼げなくなってくるから宗教的な色合いを強めるのか、宗教的な色合いが強まるから稼げなくなるのか、因果が逆になっている話を書いているようになるので、どちらが原因で結果なのか、両方ともいえる気もするが、今後米国はますます分断を深めていくだろう。貧困で宗教にすがる勢力、一方無宗教的で金を稼ぐ勢力、これらの分断は深刻になるだろう。今後恐らく、社会保障コストは増えていくと思われ、そういった中でリベラル、無宗教、富裕層、のアメリカ人はどうふるまっていくのだろうか。同じアメリカ人だけど、宗教観が違い、勤勉ではない人たちの救済に回るのだろうか。それよりもリベラルな人だと、もっとグローバルな貧困の救済に走ろう、となるのだろうか。そうなると米国内での分断、貧富の差はますます広がり、米国を一つにしていたアイデンティティの崩壊さえ招きかねない。今回の米国大統領選挙では分断というキーワードが盛んに言われていたが、本当に終わりの始まりになりかねない。戦争でも無いと挙国一致で融和を行おうとならないだろう。それくらい思想的には真逆な人間が明確に分かれてきている状況であり、もともと移民の国であるので、歴史的アイデンティティが弱く、もしかすると砂上の楼閣なのかもしれない。

気候変動の歴史

気候変動の歴史

この頃は特に地球温暖化、気候変動による異常気象などが言われている。多くの人の主張は、産業革命以降の二酸化炭素排出量の増加による、二酸化炭素の温室化効果によって温暖化が起きているというものだ。

今のところ、二つの疑問点がある。1800年代から徐々に工業生産が増えて、右肩上がりで一本調子で二酸化炭素排出量が増えているはずではあるが、1960年近辺に正確には記憶していないが、20-30年間平均気温が低下している時期がある。よく見るグラフで見られる傾向だが、これについて合理的な説明が出来ていない。もう一つは、二酸化炭素濃度なんていうものは、増えたと言っても二酸化炭素の濃度変化というのは数百PPMレベルの変化であり、これが地球の大気組成の変化として、また温室効果として妥当なのだろうか。

それこそ金星の様な天体が異常に高濃度の二酸化炭素で覆われており、温室効果が働いているという状況と同列に議論できるものなのだろうか。これは、科学の難しいところであり、地球環境というのはN数が1であるとも言え、同一条件での比較が困難である。また、地球の気候の仕組み、地球自体の仕組みについても、科学は理解しているのだろうか。文明の発達の歴史と言う事を考えると、現代人は今までの文明の頂点にいる気になっており、多くの事、それこそ古代には神の領域と思われていた事すら科学で説明できる分野が出てきており、神様気取りなのかもしれない。

しかしながら、一般的な謙虚な科学者はそうは思っていないはずであり、そういうSilent majority的な科学者は、わざわざ気候変動についての薄ぺっらく、お金の匂いのする議論からは逃げているのではないだろうか。科学者として本質的な議論がなされているとは感じられない議題だからである。

そもそも地球の気温に影響を与える要素は、当然のことながら、太陽活動が一番大きな要素であり、太陽からのエネルギーを跳ね返したりする役割もある、地軸、地球磁場これらも大きな要素となっているだろう。そういった要素と、光として降り注ぐエネルギーを跳ね返すのか、否か、これも大きな要素となるはずである。これにプラスしたうえで、大気組成の話は出るはずであり、そんなに単純な話ではない。

地球は何度も氷河期を経験して今に至っており、特に我々の人生のような100年単位で物事は動いていない。また、温暖化が進むと異常気象が増えるという理屈が全く気に入らない。まず、地球の歴史を紐解いた場合、温暖な気候の方が生命の存在には有利であることは間違いない。生存できる空間が増える事で食物連鎖が広がり、生物相に広がりが生まれる。

人類の文明史を見ても、ルネサンス期の温暖期がいい例だが、温暖な時期の方が作物の生育が良く、人間は幸せな時間を過ごせるのである。こういった事から、まず言える事は、温暖化自体は悪い事ではなく、ツバルが沈む映像をことさら強調する放送局があるが、石炭火力発電所の代替発電所を世界中に整備する費用を掛けられるなら、ツバル一国を救う事は恐らく予算的には誤差の範囲だろう。また、沿岸部に住む人の生活が危うくなるというが、海外線の上昇にしたって、津波のようにある日突然来るわけではなく、護岸工事や、移住をすれば問題ないし、今までの歴史においても対応してきている事である。北極の氷だって溶ければ北極海航路を使用しやすくなり、物流費用が下がるし、南極の一部に人類が住めるようになれば、人口密度が減るか、人口を無理なく増やすためには好都合である。

大型台風が増えたとか、猛暑、極寒が増えたと言う事を、二酸化炭素排出量の増加→地球温暖化→そういう異常気象が増えた、という論調で言う向きがあるが、こんなことは誰かが証明したのだろうか。もちろん、温暖化により、大洋例えば太平洋の海水温が上がり、熱帯性の低気圧が発生しやすくなっているというのかもしれないが、本当だろうか。

気圧の差というのは、温度差で生まれるのではないだろうか。地球が等しく温度が上がっており、太平洋の海水温も同じように温度が上がっていれば、その上の領域(北の領域)も等しく温度が上がっているわけであり、大型の台風が増えるのだろうか。もちろん、海水の温度と気温を等しく比べられないが、海水温の方が温度上昇は小さいのではないだろうか。熱を保持できるから、温度上昇は同じでも、台風を巨大化させやすいのだろうか。

もちろん、二酸化炭素排出量の増加が大きな原因になっている可能性もあるが、今聞いている話や読んでいる本の内容によると、整合性のある説明がなされているとは到底思えない。無理やり二酸化炭素の排出量を押さえていきたい勢力があり、その人たちの偽善的な主張に皆が反論できなくなっているだけではないだろうか。

例えば、「戦争反対。人類みな兄弟。人殺しは悪。」的な主張があるが、これはまったくもって正論であり正しいようにも思える。この意見に対して、真正面からの反論は難しい。しかしながら、欲がある人間であるなら、個人の間では日常的に目に見える形、見えない形を問わず争いはある。例えば、仕事における競合との競争もそうである。そういったものが発展した形態が戦争であり、人間というものが存在する限りにおいては避けられない。いや、これは人間以外の動物であっても避けられない、根本的な本性であり、生きるという事や、種を保存すると言う事は争うと言う事が本質なのだろう。

そういう観点から言うと、戦争は反対であるが、守るべきものを守る時には戦争は必要なのである。Political correctnessではないが、偽善的な主張というのは、時として反論が難しい時がある。二酸化炭素の排出増についても、減らさないより減らした方が良さそうだ、という感じの人が多いのだろう。それによって、既存の秩序が壊れる事はいいのかもしれないが、過剰に意識しすぎる事によって、本来の活動が阻害されるとなると如何なものだろうか。