アメリカのブランド

南北戦争といわれる内戦が終わった後、アメリカは疲弊していた。しかしながら産業革命がなされ工業化がなされたこともあり、その後急速に都市化が広まった。大都市にある工場で市民は働くようになり、農業や畜産業で牧歌的に暮らしている時代は終わった。

大都市に市民が集まるようになると、食糧問題が発生した。農家が作った野菜や、牧場から出てきた食肉を、都市まで運んで市民に売るという流通の問題が発生した。19世紀中盤から後半にかけてのフォードが車を大量生産する前で、さらに鉄道整備もこれからという時代において、物流が整っていなかったのである。

昨晩見たアメリカの巨大食品企業、というドラマによると、当時販売されてた食品ははっきり言ってどんなものか得体のしれないもので、腐っていたり、危険な化学物質に浸透されていたり、今日の基準でいうと毒のようなものを食べさせられていたようだ。アメリカ人にとって胃痛というのが国民病だったらしい。

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当時はFDAもなく、食品安全基本法のようなものもなく、賞味期限や、禁止化学物質、こういったものを取り締まる法律もないわけで、今の基準で議論するのはよろしくないが、今の基準でいうと想像できないくらい質の悪い食品が流通していたのだと思われる。

そんな中生まれてきたのが、Heinzのケチャップであったり、Cocacolaであったり、ケロッグのコーンフレーク、Hersey`sのミルクバーであったり、というのが生み出されてきた、そしてその発明には色々なドラマがあり、困難があった、というのがこのドラマの本質のところであり、なかなか興味深いものであった。

コカ・コーラは、モルヒネの代用として、コカの葉とコーラの実、カフェイン、ハーブ、いろいろなものを調合して、最終的には薬用炭酸水を混ぜてみたら、美味しかったし、当時はコカインの成分を取り除いていなかったから、興奮作用もあったようで、かなり怪しい飲料だったようだ。ただ、禁酒法的な流れが発生したときに、このSoft drinkという概念が時代にもマッチしたようで、アルコールがないが、爽やかになれ、高揚感が得られるこういった飲み物が売れていったようだ。

また、コーンフレークも、最初は医療用に消化のいいものを提供するために、細かく砕いたグラノーラを提供していたところ、院内で相当の人気になり、さらに潰してフレーク状にすると触感もよく、その後市販するためには砂糖を大量に投入するといいだろうということで、現在の形に近いものになりケロッグさんが販売したものである。砂糖を大量投入する時点で医療用の物から遠ざかるのだが、味が良いので売れたようだ。

当時のアメリカ人は金もうけのためなら何でも許される状況だったようで、コカ・コーラにしてもケロッグにしてもエピソードはドロドロである。産業スパイがいたり、人の弱みに付け込んで金を駆使して権利を買ったり、ロビー活動で自分に有利なように法律を制定したり、たった100-150年前の出来事であるが、隔世の感を感じる。

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ゴールドラッシュ時代、南北戦争、二度の大戦、冷戦、その後の一極支配、とアメリカ人は基本的には強欲ではある。常に争いながら、トップに君臨すべく生きている。これはイギリスから移住してきた時から変わっておらず、強欲で夢見がち、この本質は数百年経っても変わらないのだ、と思った次第である。

人間とスポーツ

大谷選手や松山選手の活躍がアメリカでも日本でも注目を読んでいる。二人とも20代で世界一線で活躍している事が非常に喜ばしい。特に松山選手のマスターズ制覇は今週のホットトピックであったし、米国人の友達からも祝福のコメントがあった。

野球であったり、ゴルフ、テニス、卓球と球体のボールを何かで打つという競技、スポーツが一定程度の注目を集めているが、このボールを駆使するというのはどういう欲求からきてて競技スポーツとして発展し、どのような人間の欲求を満たすから感染スポーツとして発展したのだろうか。

例えば野球でいうと、生身の肉体を使ってピッチャーがバッターに対して「一番打ちづらいと思う球」を投げる。それをバッターはできるだけ遠くにバットを使って飛ばす、単純化するとこういった競技であると換言できる。投げるという行為は、やり投げにも通じるものがあり、狩りを行っていた人類は投げる行為が上手であれば、槍を上手に扱えたはずで、生存競争に有利と言える。

これは狩猟時代には非常に大事な能力であったはずであり、生存競争に強いことを示すための協議としてやり投げが発展したのだと思われるし、その流れを汲んで投げる行為を競うことは理解できる。狩猟がない季節でもそういった事を競い合って、勝者が勝ちに浸り、それを誇ることを競う、これはある種お祭りの起源の一つである可能性もあるし、そういって人間は余暇を楽しむ発想を広げていった。

我々はどこから来たか?我々は何者?我々はどこに向かうのか?我々の存在意義は?―現代人類学の人間観―

そういう発想でいうと、バットを使って球をできるだけ遠くに飛ばすというのも、武器を使って狩りをするのか、戦いの中で使う武器の扱いのうまさを競う、そういった発想が根底にあるのかもしれない。例えば、頭で思い描いた太刀筋と実際の肉体をリンクさせるには、鍛錬や筋力が必要であり、その能力を磨いた上に、武器使いの上達があり、そこを競うことは、これは狩猟時代よりも現代に近い時代の権力争いの中での話になるかもしれないが、生存競争に有利であり、現代風に言うと異性にもてるわけである。

究極的にはスポーツというのも、「もてる」かどうか、を競うものなのかもしれない。足の速さを競ったり、泳ぐ速さを競うことも、逃げ足の速さや、狩りでの優位性、これらを担保するものであり、現代では感じずらいことであるが、これらを鍛錬することで、生存確率を上げることに繋がる。そういった最高に生存確率を上げ切った競技人を見ることで我々は感動するし、その人々の生存能力の高さに興奮するのである。

生存競争というのは人類の根底に刻まれているファクターであり、すべてそこに結び付く。食欲、性欲、睡眠欲、と言われるものもそうであるが、我々が何気なく見ているスポーツであったり、その祭典であるオリンピックにしても、この生存競争の疑似競争という側面があり、人類の根底にある興味がひきつけられるのではないか、ということを思う次第である。

人類とアルコール

人類は10000年前前後から、大麦を発酵させたり、ブドウのしぼり汁を発酵させたりして、アルコールを接種していた。意図的な醸造所の遺跡も見つかっているので、宗教儀式に必要なのか、それとも余暇としてなのか、いづれにせよ10000年ほどアルコールを接種している。

アルコールは基本的には肝臓で分解されるものであり、人体にとってはどちらかというと有害である。酵素による加水分解で分解して排出するものであり、人体に不可欠な栄養素ではない。ただ、衛生面においては、昨今毎日接している通り、アルコールは除菌、殺菌効果があるとはいえるので、あると便利で、現代社会では工業用アルコールが大いに生産されている。

宗教との関係でいうとモハンマドは部族内、宗教内での争いを防ぐために、イスラムの教えにおいてはアルコールの接種を禁じていた。これが現代でもイスラム社会では基本的にアルコールを接種しない所以である。実際、中東の国やインドネシアでもイスラム教の方々は飲酒をしないのが基本となっているし、公共空間ではイスラム教以外の人間も飲酒を避けるように、というのがマナーになっている。

食の歴史――人類はこれまで何を食べてきたのか

イスラム教というのは砂漠で発生した宗教なので、まず生活の基盤において水分を欲しているというのがある。礼拝ごとに顔や手を水で洗うのもその歴史的な背景が影響しているだろうし、アルコールも、他の地域以上に民が酔っ払いやすかった可能性もある。それが争いに発展しやすいということなのかもしれないが、地理的な背景もあるのだろう。

アルコールは脳を麻痺というか、俗にいう酔っ払う状況に導く作用がある。これは初期のころは恐らくは宗教儀式上重要な意味を持っていたのではないかと思われる。アルコールが脳を麻痺させるから酔っ払うという科学的な知識がない中で、大麦を発酵させたものやブドウ汁を発酵させたものを飲むと、人によってはトランス状態になる、というのは宗教家を興奮させたはずだ。

古代の宗教というのは一つに麻薬的な成分によるトランス状態や、飲酒によるトランス状態を起こし、その中で例えばまっとうな感覚を持つ人間がコントロールしたり、トランス状態を見せつけるなどして、人智を超えた存在を見せつける、というのも一つの統治形態であっただろう。その辺りが、ビールやワインの醸造所が作られた期限ではないかと思う。権力維持のために醸造した始めたものが、大衆にも広がっていた、そう見るのが妥当ではないか。

日常的にビールを飲む生活を日本でも享受できているが、アルコールには色々な面がある。そもそも人体には毒であること、殺菌作用は重要であること、宗教によっては禁忌品であり、宗教によってはその統治に活用されたであろうこと、非常に単純な化学式であらわされる化合物であるが、その奥深さに驚かされる。なぜそもそもアルコールは脳に麻痺症状を起こさせるようになったのか、これも恐らく生物の進化と関係しているのであろう。この部分をもう少し掘り下げたいとは思っている。