人口増加

人口増加

人類の人口は19世紀以降急拡大し、現在は70億とも80億人とも言われる。筆者が子供の事は50億人とか言っていたので、ここ30-40年で見てもまだ増加ペースは衰えていない。日本にいると人口減少社会に突入してきたので実感が少ないが、世界の人口は急速に増えている。

食物連鎖という観点や、人口密度という観点から考えても、人口は無限に増やせるわけではなく、食糧や、生活するスペースの問題があり、地球の地表面積は限られているという事から考えて、限界が来るのは間違いない。6400万年前の恐竜等の大型生物の絶滅は、大型の隕石の衝突による数年の気温の低下によって引き起こされたと言われているが、恐竜類が大きな気候変動に対応できなかったことも一因であろう。何故なら、小型の哺乳類等は生き延びているからである。ゴキブリなんかもその当時から生息しており、生存力は非常に高いと言われている。人間の祖先も当時は小型の哺乳類というのに分類されていたはずであり、厳しい環境の中を生き残った部類と考えられる。

ホモサピエンスは20万年前に誕生したともそれ以前とも言われているが、その当時も種を継続させるには多くの困難があった。天敵と呼ばれる肉食哺乳類生物もアフリカの大地には多くいたし、農耕など知る由もなかった人類が食べられる食物には限りがあった。

その中で中規模集団を作って助け合いながら生きる道を選択し生き延びた。そういう状況から考えると1万年ほど前に奇跡とも呼べる、農耕が始まるのである。この変革に並ぶようなインパクトを残した変革は思いつかないくらい、生物種にとっての奇跡かと思う。地球のサイズが今ほどになり、太陽と月の重力と釣り合った点が現在の太陽との距離の点である、という奇跡に匹敵するのかもしれない。

ただ、太陽との距離については、結果論的な奇跡であり、丁度いい点で釣り合った結果が生命の発展に寄与したが、丁度いい距離では無かったら生命は発生していなかったので、我々は地球がちょうどいい距離ではなかったという、想定は不可能である。話を戻すと、現代のわれわれの視点から見ると、1万年ほど前に農耕生活を始めた事は大きな転機であり、その後の歴史を大きく変えたと言っても過言ではない。

その後、人類は世界中に散らばるようになり、大きく人口を増やしていく事が出来た。また、農耕の発達は富の集約を起こし、余暇を生み出し、文明を発生させた。結果として、知識人や知識の集約を起こすようになり、今の世につながるような科学技術の発展に寄与していくのである。人口という観点でも農耕生活は大きなブーストになった。生活にリズムが生まれる事、余剰資産が生まれる事、余暇が生まれる事、これらが子育てにも大きな影響を与える事になったのである。

この1万年間続いた人口増加はどこで限界を迎えるのだろうか。種としての限界なのか、文明としての限界なのか。先進国では人口が頭打ちになり、減少に転じている。これは既に種の保存という本来の生命としての趣旨よりも、個体、個人、現在、これらを重要視する事が文化として上回ってしまっている事の一つの表れではないだろうか。もちろん、子育て環境、避妊技術、色々なものが複合的であるし、例えば個々人を見ると事情は違うのだが、国家の単位で見た時に人口減少社会になっているというのは、例えば、水槽の魚の数が減っているのをみたら、その水槽の中では異変が起こっていると思うのと一緒で、既に生物種、もしくはその集団の中では異常な事が起きていると認識せざるを得ない。これは勿論マクロで見た時である。種としては地球環境に大きな影響を与えるまでに数が増えており、こちらの観点からも限界を迎えているように見える。こういった状況で今後の人口動態を考えた時に、我々人類はどのような方向性に向かっていくのだろうか。

海と海洋国家

海と海洋国家

生命というのが地球に誕生したのは海であるし、海があるからこそ、水があるからこそ地球は生態系を維持して、今日に至っているというおおまかな主張には恐らく間違いがないだろう。そういう主張から始まる本を読み始めたところだが、見出しを見ると、歴史時代以降については海洋国家が世界の覇権を握ってきており、今後もその傾向は続くだろうと書いてある。海洋性国家である日本としても面白い論点であり、今後の展開を期待せずにはいられない。

そもそも海というか水の性質が特異であり、酸素原子と水素原子二個が水分子を形成しており、水素結合というユニークな結合を作り出して水となっている。分かりやすいところでユニークな性質としては、水は液体の時の方が個体の時よりも体積が小さくなる。小学生で習う事実であるが、これは水に特徴的な性質であり、水素結合という特殊な結合がそうさせている。

宇宙の始まりで最初に発生した元素は水素であり、一つの陽子と一つの電子からなる原子である。それに時間を経て生成された水素原子がくっつくと水分子になるのだが、ここで特別な関係がそれ以降続くことが決定されたわけである。その後太陽系生成時に水分子が生成されていき、太陽系の惑星には地球のみならず、氷が存在していたり、その痕跡が見られる惑星がある。人間の体の6割とも7割とも言われる部分は水分と言われているし、水が無ければ生物は存在しえないという事から考えても、その貴重で尊い存在であることが推し量れる。

さて、まだ本を読む前ではあるが、海洋性国家と大陸性国家の違いは何なのだろうか。元寇で攻めてきたモンゴル帝国は大陸性国家の最たるものであり、朝鮮半島にあった国の援助を得て日本へ攻めてきたと言われているが、やはりモンゴル帝国にとって海戦は苦手だったのだろう、二度とも日本側が勝利したと言われている。

武力で優れているモンゴル帝国も環境の変化に打ち勝てないというのを奇しくも証明してしまっている感もある。海洋性国家と大陸性国家という対立軸があるわけではないかもしれないが、海と陸での違いを考えていくと、どちらも畏怖すべき存在なのかもしれないが、例えば旅をする立場、狩りをする立場で比べた場合、環境の変化が激しいのは海の方だろう。

こんな簡単な言葉では説明しつくせないものであるが、海の方が不確定性は高く感じる。その中での知恵の出しあい、生存への工夫、これらがあってこそなのかもしれない。自分が日本国出身で海洋性国家に身を置いているからのひいき目はあるかもしれないが、こういった要素が歴史を分けてきた可能性はある。

身近な例で言うと、日本の中でも北海道は大陸的な感覚があると言われることがある。その性格は、穏やかでのんびりしたものであるが、経済的な成功という観点からはあまり好ましいものでは無いというのが現代の価値観だろう。アイヌ民族が近代史以降追いやられてしまっている事なんかも考えても、海を操るような国家、民族に対しては、なかなか勝てないというのが、もしかすると背景にあるのかもしれない。

もちろん、そういった対立に勝利する事だけが人生の勝ちではなく、共生を目指すような考え方に理想を感じるのは間違いないが、現代社会という枠組みというか価値観の中では、勝者は経済的な勝者であることは疑いようがなく、そうなる為には圧倒的な収奪力がカギになってくる。その戦いに勝利したものが経済的な成功を得られるわけであり、その為にはそういった対立に勝利する事が求められる、というのが気持ちよくはないが現代社会の価値観なのであろう。

強さと生存力

2020年12月8日の日記より

強さと生存力

現在ジャックアタリ氏の著書を読んでいるが、新たな発見という訳ではないが、先日読んだ文章に、6万年ほど前まではヒト属というのだろうか、ホモサピエンスと同じくヒトと分類される種類の生物がいくつか生存していた。ホモサピエンスも含めて、それぞれ100万人程度の人口であったようだが、代表的なのはネアンデルタール人、デニソア人、そういったヒト属の生物種が存在していた。その中でホモサピエンスだけが現代にも生存しており、繁栄している。ネアンデルタール人、デニソア人、といったほかのヒト属は絶滅してしまった。頭蓋骨の解析や、体躯の骨の解析などを通して、最近言われているのは、ネアンデルタール人はホモサピエンスよりも脳の容積は大きく、体躯も大きく力も強かったであろうという事である。このように強くて賢いネアンデルタール人が絶滅し、相対的には弱くて脳も小さなホモサピエンスが生き残り、今や繁栄しているのである。

何が言えるのかというと、種の生存競争に脳の大きさと力の強さは影響するものの絶対的な因子では無いという事だろう。例えばゴキブリは数億年前から生存しているとも言われるし、恐竜は6400万年前に絶滅している。ネアンデルタール人の絶滅の理由については当方はよくわかっていないが、恐らく6万年前とかに来た氷河期というか寒冷の時期の影響が大きかったのではないだろうか。マンモスとかと同時期を過ごしていたのがネアンデルタール人であるが、寒冷期に絶滅の道を歩み始めたという説明がしっくりくる。

ネアンデルタール人はそもそも現在のレバノンとかトルコ、そこから欧州に向かって広がっていったように、ホモサピエンスと比べると比較的高緯度に広がって行った可能性がよく言われる。外敵が少ないところに生活範囲を広げていったのであろう。それは生活をしやすくする上では重要な事である。

しかしながら、外敵が少ないのには理由があり、そもそも長い期間で見た場合に、生存に厳しいからと言う事があったのだろう。短中期でネアンデルタール人は外敵の少ない環境での生活を選択していったが、まさに彼らというかそこにすむ生物にとってのリスクであった寒冷期が来たことで絶滅の道を歩んだ、そういう見方も出来るのではないだろうかと思える。ホモサピエンスは外敵が多い環境の中で、海を渡ったり海岸線を歩いて移住する事はあったようだが、どちらかというと広く浅く生活圏を広げていった。どの土地に行ってもメジャーな存在にはなり得なかったのだろう。その事が色々な知恵を生み出し、様々な環境で生活する同種の存在を生み出し、どこかで集団の消滅があっても全体として生き残る事が出来た。それが今日のホモサピエンスとネアンデルタール人を分けた違いなのかもしれない。

これは今日の企業活動についても言えるのかもしれない、とふと思った。技術力があるからと言って外敵が少ないところで、環境変化のリスクを後回しにして生きていると、絶滅の危機が迫る。環境変化のリスクというのは、技術力があっても、対処する方策を考えていないと回避できない。ガラパゴスと言われた日本国内で競争していた家電メーカーや、携帯電話製造会社、そういった会社がグローバル経済に飲み込まれていった姿に重なる所がある。一部の企業は環境変化に適応できず消滅していった。これはネアンデルタール人の絶滅にも通じるものがある。もちろん、ネアンデルタール人のDNAが現代のホモサピエンスには一定程度含まれており、交雑があり、痕跡が消えたわけではないが、それもハイアールの家電事業のようなもので、痕跡はあるが元の種としての存在は無くなったと言っても言い過ぎではないのである。