勝てば官軍

勝てば官軍

現代の日本人は坂本龍馬ファンが多い。明治維新をけん引したイメージからなのか、好きな人が多い感じがする。坂本龍馬だけならず、西郷隆盛なども人気であり、現代日本人の明治維新好きが伺える。明治維新というのは、250年続いた江戸幕府を終わらせた一連の流れであり、12世紀末から続いた武家政権を終わらせる、征夷大将軍という名の武家の棟梁が政治を執り行うというのを止めさせた、偉業と言えば偉業であるが、実際にはそれまで室町時代、戦国時代、江戸時代初期にも結局行われていた、薩長同盟による江戸幕府に対するクーデターであり、それに天皇が上手いこと使われた、と考えるのが正当な評価だろう。

もちろん、その後廃藩置県を行った政策的なところは評価されるべきであるが、これとて薩長軍+土佐、肥後の軍事力が相当なものであり、他の藩が手を出せなかったこそ、そこに至ったともいえる。参勤交代を押し付けられたように、軍事力によって飲まざるを得なかった、というのが事実になってくるだろう。そういう意味で言うと、その後の政権、軍部の人事を見ても明らかであるが、薩長同盟による天下取り、というだけであった。それに折からの産業革命による兵器の急速な近代化、鎖国の停止による滝のように流入する西洋文明、これらが合いまった事で、日本の近代化が起き、なんとなく現代から見ると、文明開化=明治維新、という印象があり、日本が一気に華やいだ、そういった印象を与えているのだろう。

しかしながらこのクーデターが、その後の太平洋戦争を招き、深刻な数の犠牲者につながったともいえる。薩長軍のクーデターは、テロ、嘘、そういったものにまみれていたと言われている。筆者が参考にしているのは半藤氏の「幕末史」であるが、かなり強硬的な手段で徳川家、老中を押さえにかかり、金と策略で天皇を引き込み、世の中を恐怖に陥れながら、政権奪取を行った印象である。

もちろんそれくらいやらないと250年続いた江戸幕府を終わらせて近代化が出来なかったであろう、と言う事も大いに推測される事ではあるが、望む望まないにかかわらず、かなり強硬策を持って明治新政府を立ち上げた印象である。そこには大久保利通や木戸、板垣などの働きがあったが、強硬な思想を持った人間が、時代背景、欧米列強の脅威なども相まって、成功体験を得てしまったのである。

必要不可欠の成功だったかもしれないが、冷静な分析ができる機関であったり、人物であったりが、口を挟める余地がどんどんなくなって行った。勝った西軍がすべてを牛耳ってしまう世界なのである。その中で明治維新から60年、70年経っていくと、特に陸軍の暴走を止められなくなっていった。これが大戦によって多くの犠牲者を出した一因であると思われるのである。

一方で、単純に鎌倉、室町、江戸、薩長とこれは東西東西の繰り返しであることが面白い。1000年単位の歴史で東西の繰り返しが行われている歴史なのである。関が原で負けた西軍とくに長州では毛利の殿様が正月に毎年、敗戦の恨みについて家臣に語るという習慣があったと聞くが、この恨みが明治新政府につながったと言えなくもない。その後、太平洋戦争による深刻な敗戦を経て現在に至っているが、明治新政府以降に大きな政権交代が行われたと言える状況ではないので、明治維新好きという世の中が変わっていないのかもしれない。ただ、一応民主国家と呼ばれるようになり、国民皆投票権を持つ議会を通しての政治になっている。政治的な東西は無くなっているが、歴史家、マスコミ、官僚機構、そういったところでは明治、薩長史観というのがまだ色濃く残っているのかもしれない。

気候変動の歴史

気候変動の歴史

この頃は特に地球温暖化、気候変動による異常気象などが言われている。多くの人の主張は、産業革命以降の二酸化炭素排出量の増加による、二酸化炭素の温室化効果によって温暖化が起きているというものだ。

今のところ、二つの疑問点がある。1800年代から徐々に工業生産が増えて、右肩上がりで一本調子で二酸化炭素排出量が増えているはずではあるが、1960年近辺に正確には記憶していないが、20-30年間平均気温が低下している時期がある。よく見るグラフで見られる傾向だが、これについて合理的な説明が出来ていない。もう一つは、二酸化炭素濃度なんていうものは、増えたと言っても二酸化炭素の濃度変化というのは数百PPMレベルの変化であり、これが地球の大気組成の変化として、また温室効果として妥当なのだろうか。

それこそ金星の様な天体が異常に高濃度の二酸化炭素で覆われており、温室効果が働いているという状況と同列に議論できるものなのだろうか。これは、科学の難しいところであり、地球環境というのはN数が1であるとも言え、同一条件での比較が困難である。また、地球の気候の仕組み、地球自体の仕組みについても、科学は理解しているのだろうか。文明の発達の歴史と言う事を考えると、現代人は今までの文明の頂点にいる気になっており、多くの事、それこそ古代には神の領域と思われていた事すら科学で説明できる分野が出てきており、神様気取りなのかもしれない。

しかしながら、一般的な謙虚な科学者はそうは思っていないはずであり、そういうSilent majority的な科学者は、わざわざ気候変動についての薄ぺっらく、お金の匂いのする議論からは逃げているのではないだろうか。科学者として本質的な議論がなされているとは感じられない議題だからである。

そもそも地球の気温に影響を与える要素は、当然のことながら、太陽活動が一番大きな要素であり、太陽からのエネルギーを跳ね返したりする役割もある、地軸、地球磁場これらも大きな要素となっているだろう。そういった要素と、光として降り注ぐエネルギーを跳ね返すのか、否か、これも大きな要素となるはずである。これにプラスしたうえで、大気組成の話は出るはずであり、そんなに単純な話ではない。

地球は何度も氷河期を経験して今に至っており、特に我々の人生のような100年単位で物事は動いていない。また、温暖化が進むと異常気象が増えるという理屈が全く気に入らない。まず、地球の歴史を紐解いた場合、温暖な気候の方が生命の存在には有利であることは間違いない。生存できる空間が増える事で食物連鎖が広がり、生物相に広がりが生まれる。

人類の文明史を見ても、ルネサンス期の温暖期がいい例だが、温暖な時期の方が作物の生育が良く、人間は幸せな時間を過ごせるのである。こういった事から、まず言える事は、温暖化自体は悪い事ではなく、ツバルが沈む映像をことさら強調する放送局があるが、石炭火力発電所の代替発電所を世界中に整備する費用を掛けられるなら、ツバル一国を救う事は恐らく予算的には誤差の範囲だろう。また、沿岸部に住む人の生活が危うくなるというが、海外線の上昇にしたって、津波のようにある日突然来るわけではなく、護岸工事や、移住をすれば問題ないし、今までの歴史においても対応してきている事である。北極の氷だって溶ければ北極海航路を使用しやすくなり、物流費用が下がるし、南極の一部に人類が住めるようになれば、人口密度が減るか、人口を無理なく増やすためには好都合である。

大型台風が増えたとか、猛暑、極寒が増えたと言う事を、二酸化炭素排出量の増加→地球温暖化→そういう異常気象が増えた、という論調で言う向きがあるが、こんなことは誰かが証明したのだろうか。もちろん、温暖化により、大洋例えば太平洋の海水温が上がり、熱帯性の低気圧が発生しやすくなっているというのかもしれないが、本当だろうか。

気圧の差というのは、温度差で生まれるのではないだろうか。地球が等しく温度が上がっており、太平洋の海水温も同じように温度が上がっていれば、その上の領域(北の領域)も等しく温度が上がっているわけであり、大型の台風が増えるのだろうか。もちろん、海水の温度と気温を等しく比べられないが、海水温の方が温度上昇は小さいのではないだろうか。熱を保持できるから、温度上昇は同じでも、台風を巨大化させやすいのだろうか。

もちろん、二酸化炭素排出量の増加が大きな原因になっている可能性もあるが、今聞いている話や読んでいる本の内容によると、整合性のある説明がなされているとは到底思えない。無理やり二酸化炭素の排出量を押さえていきたい勢力があり、その人たちの偽善的な主張に皆が反論できなくなっているだけではないだろうか。

例えば、「戦争反対。人類みな兄弟。人殺しは悪。」的な主張があるが、これはまったくもって正論であり正しいようにも思える。この意見に対して、真正面からの反論は難しい。しかしながら、欲がある人間であるなら、個人の間では日常的に目に見える形、見えない形を問わず争いはある。例えば、仕事における競合との競争もそうである。そういったものが発展した形態が戦争であり、人間というものが存在する限りにおいては避けられない。いや、これは人間以外の動物であっても避けられない、根本的な本性であり、生きるという事や、種を保存すると言う事は争うと言う事が本質なのだろう。

そういう観点から言うと、戦争は反対であるが、守るべきものを守る時には戦争は必要なのである。Political correctnessではないが、偽善的な主張というのは、時として反論が難しい時がある。二酸化炭素の排出増についても、減らさないより減らした方が良さそうだ、という感じの人が多いのだろう。それによって、既存の秩序が壊れる事はいいのかもしれないが、過剰に意識しすぎる事によって、本来の活動が阻害されるとなると如何なものだろうか。

一神教と多神教

一神教と多神教

ローマカトリック教会というかヴァチカン市国には、全世界のキリスト教徒の頂点に立つ教皇という存在があり、コンクラーベと呼ばれる枢機卿による選挙によって選出されていると聞く。世界にキリスト教徒が何人いるのか分からないが、何億人といる中の頂点を小数人による選挙で決めているのである。もちろん、仏教にも偉いお坊さんなるものはいるが、このカトリックの教皇という存在、権力というのは独特な仕組みであると言えるだろう。そもそもその宗教が出来た時からの癖のようなものかもしれないが、キリスト教はヒエラルキーを築きたがる傾向があるのではないか、というのが筆者の印象であり、一般市民には等しく隣人を愛せよ、という割には権力者とそれ以外という構図が明確な方ではないか。

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だからという訳ではないが、これはよく言われる事ではあるが、一神教は硬直的で、多神教はもう少し大らかというか柔軟性がある様に思われる。多神教というのは、前歴史時代の人類が持っていた自然崇拝的なところから来ており、万物に宿る神様に感謝、畏敬の念を持ちなさいというのがどちらかというと考え方で、絶対的な神を持たず、自然全般に生かされている事を感謝しつつ、例えば豊作を祈ろうという、日本の神道的な考え方がある。

それに革命を与えたのが一神教と呼ばれる世界で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、それぞれ派生形がたくさんあるものの、どれも基本的には一般的には一神教と言われる。一神教の何が革命的かというと、まず熱狂的な信者を作りやすい事がある。一人の神が全てを見ているとなると、その神にのみ祈りをささげればいいし、例えば奇跡と呼ばれる事柄が起きても、その一人の神が起こしたことだといえば、分かりやすいのである。

実在の人物にしてしまえば、イメージもしやすいし、何より分かりやすく、布教活動において効力を発揮したと言えるのだろう。そこから派生した影響として、領土的に侵略した時に布教活動がやりやすいという利点があるのだろう。特に歴史においてみられるのは、キリスト教とイスラム教の国々が戦争で領土を拡張して、その土地の宗教も染めていくという歴史である。もちろん、意に反して改宗していった人も多くいるとは思うが、侵略した土地を自分の宗教で染めていく。これも一つの信仰対象に限定されるからこそできる技であり、侵略にも適していると言える。

そもそも侵略に適した宗教だからこそ世界中に布教する事が出来たという側面もあるわけで、日本にも戦国時代に宣教師が来日しているが、一部の藩では熱狂的な信者を生み出し、その後の鎖国につながったというのが定説ではある。徳川家もこのキリスト教という宗教の先進性というか、強力な浸透性に危機感を抱いたのだろう。それほど一神教というものは、とくに困窮している人間や、悩みを抱えている人間には容易に浸透しやすいと言えるだろう。

一方で、その権力はピラミッド構造となっており、頂点のヴァチカンには絶大な権力と、資金が集中する。それが大航海時代を切り開くことになり、ますます全世界的な布教につながったのだが、一方で、その世界から一歩距離を開けようとしたのが、マルティンルターによる宗教改革であり、ヴァチカンに反発するという意味でプロテスタントと呼ばれるようになったのである。プロテスタントも勿論キリスト教ではあるが、免罪符による利益に溺れたりした、当時堕落に走っていたカトリックと距離を開け、真面目に素朴に生きましょう、これがプロテスタントを生んだと言っても良いのかもしれない。その延長線上に産業革命が起き、資本主義、資本家というのが宗教家に変わって、世の中の中心になって行ったというのが、資本主義の19,20世紀なのかもしれない。

しかしながら、宗教戦争というものは継続しており、中東を中心としてイスラム教内部抗争、イスラムとキリストの対決、これらは20世紀にも大いにみられていた。一神教信者は、自分の神以外を信ずるものの事が恐らく理解しづらいのだろうと思う。

ただ21世紀になり、情報革命というか、人間が日々入手できる情報の量が飛躍的に増加して、今までの人類が体験したことが無い量の情報量に溺れる時代がやってきた。宗教改革が活版印刷技術の登場で達成されたように、情報量が飛躍的に増える時代には新たな権力であったり、宗教であったりが進化するチャンスではある。情報が増えて色々な化学情報にも触れられるような世の中になると、例えば、イスラム教徒は、何故豚肉を食べないのだろうと、自問した場合に、容易に過去の経緯や、宗教的に禁止されるようになった背景を検索して知る事が出来るようになるかもしれない。

キリスト教徒であっても、例えば地動説なんて有名な理論も勿論だが、宗教による非科学的な教えに対して、子供のころから自分で調べて、反証する事が出来るようになってしまう。科学の急速な進歩もあるが、それ以上に情報量の増大、アクセスのしやすさにより、宗教対科学という論争においては、科学が優位になってくるだろう。熱心な信者というのは薄まってくるのかもしれない。

ただ、科学の倫理というのをどうやって保つのかという問いに対して、宗教以外の物が答えを与えてくれないのも事実であり、科学が発展すればするほど宗教的な支えが必要なのも事実であり、このジレンマの中で、今後30,50年では、恐らく科学に対する倫理を与えるという宗教が勃興していくのではないだろうか。それは一人の神を想定するものではなく、人類の道徳、倫理を規定するものとなるだろうが、どのように一般市民の理解を得るのか、これはかなり難しい問題となるのだろう。思考がぐるぐる回ってしまうが、そういう意味でも、一神教の分かりやすさというのは強烈であり、それこそが、世界中に伝播させることができた理由なのだろう、と思うに至るのである。