生命の起源

生命の起源

これもまた興味深いテーマであり、宇宙の誕生には神の手が加えられて、初めに揺らぎあれ、というのが、初めに光あれ、になったのかもしれない。出発点というものが見えないし、再現方法についても途方もない努力が必要なように感じる。

一方で、地球誕生が45億年前程度で、たくさんの隕石がぶつかり合って誕生し、初期地球はドロドロのマグマの海と高温の大気で覆われ、太陽との距離感がちょうどよかったことから徐々に冷まされて、最初は液体の恐らく硫酸か塩酸の雨が降り続き、カルシウムやナトリウムと中和されて、徐々に現在の姿に近づいて行ったのだろう。

その後、海水が真水に近い塩水になっていき、大気には二酸化炭素が満ちてくるようになった。その中でまずは圧力、温度、化学成分濃度が最適になったところで、アミノ酸が形成されて、タンパク質となり、タンパク質が効率的に成長する仕組みとして、単純な化学反応としての二酸化炭素の分解、炭素成分の取り込み、酸素の排出という仕組みが出来上がっていった。化学反応の仕組みを効率的に行えるタンパク質が結果的に増加する事が出来、効率的なたんぱく質の一つが、タンパク質の内部構造としてRNAのような、次世代へ自分の仕組みを受け継ぐ要素を体内に持ち始めて、それが世代を超えた生存戦略に繋がっていく事になる。

これが高度化していくと、DNAになり、分裂による子孫繁栄につながり、そこで子孫を残すことが生存環境を拡大するという戦略にとっての目的となり、その目的を達成するために、タンパク質間で競争が始まったところから、生物の進化が始まっていく。その後、生物が複雑化していくに従い、様々な突然変異、自然淘汰が行われていくわけだが、タンパク質間の生存競争の過程というか延長線上に、知能を持つという選択も、描けないわけではない。脳の複雑な機能については分からないことが多く、人類の誕生からの自我や、死後の世界への探求という部分は生物の生存競争という面からは飛躍し過ぎている気もするが、これは脳という機関を持ってしまい、そもそもの目的以上の機関になってしまい、生存競争の側面を超えてしまったゆえだろう。

タンパク質の存在範囲の拡張、という元々の地球が進化する初期の営みの延長線上に現在までの人類の進化、生命の進化の理由というのは描けないわけでは無いと、上記のように考えることは出来る。一方で、タンパク質の存在範囲の拡張というのは、何故行われたのか。これは一種の化学的平衡を作り出すための、例えば熱い空気が冷たい空気と対流するような自然現象として、ありえるのだろうか。恐らく、科学的には、生の酸素、水素や、イオン化した元素が多数存在する状態よりも、元素が重合している状態の方がエネルギー的に安定となるのだろう。そういう意味では、炭素単体、酸素単体、が存在する状態よりも、タンパク質として重合した状態の方が安定的と言え、これらの動きは地球が誕生した時点から考えると、灼熱のマグマ地球が安定化していくためのプロセスであったと言えなくはない。大気の状態や、海水の状態、地球の気温という点からも、全ては安定化の方向性に進むベクトルなのである。

初期地球において安定化の方向性に進むために生物が発生し、初期の生物進化が無しえてきたことはどうやらなんとなく説明可能な感じはするが、その後、進化というのが暴走しだしているともいえるのかもしれない。あまりに生物種が増え過ぎた事もあり、地球環境としては安定化とは呼べない方向に進んでいるような感じもする。ただ、現在の状態が1億年前と比べて、安定化しているのか、不安定化しているのか、この点は、もう少し広い視野で見る必要があり、全体としては45億年前から一貫して安定化しているのかもしれない。このことを考える事が、今後1億年の地球、生命、人類を考える事に繋がると考えると、思考実験は面白いものである。ただ、人類は1億年後には間違いなくいないだろう。

政策決定速度

2020年10月5日の日記より

政策決定速度

経営の講座なんかでも、迅速な意思決定、意思決定速度、こういった言葉が聞かれるくらい、企業経営にとって、意思決定速度は重要なファクターではある。先行者利益を得るために、他社よりも早くアクションを起こしたり、変化を起こして新たな領域にいち早く取り組むためにも、迅速な意思決定が必要な場面は多い。特に旧来の日本組織のヒエラルキーというものは、トップの意思決定に至るまでに時間がかかる事もあり、意思決定に時間がかかり、特に現代のような変化のスピードが速い時代には、組織の形態として不利だと言われることもある。確かに、課長がいて、部長がいて、その上にいくつか階層があって意思決定がなされる日本式の組織の弊害もあるだろう。

しかしながら、政策決定という観点において、今回のコロナという状況下で、住民へのアピールのために、政策決定を焦った、もしくは稚拙な判断で色々決めてしまったと感じられるのが、ニューヨーク市のデブラシオ市長だろう。感染拡大防止のために迅速にロックダウンを行った。これが圧倒的に評価を受けて、3月4月はNYは良いよな、的な世論になったが、結果論とは言えこれは拙速だったと言えるだろう。ロックダウンによる封じ込めが成功しているのかというと、一時的な感染者数の増加の歯止めにはなっているが、その後に感染者数をゼロにもっていくことは出来ないし、ロックダウンをしてしまうと、緩和した時に結局感染者数が増えるのが、インド、欧州の例からも明らかになっている。NYではいまだに新規のPCR検査の陽性率が上昇するとロックダウンを行うというルールを持っており、再びロックダウンが行われそうな状況になっている。

一方、感染拡大の初期には日本やスウェーデンのようなロックダウンを行わない国について、批判的な見方もあった。日本は緊急事態宣言を行ったがこれは不要だっただろう。政策決定者にもう少し胆力や度胸があったら避けられたのではないかと思っている。その点、スウェーデンは自分たちの信念のもとやり切った印象がある。危機の時に試されるのは、信念を持つ事であり短期の結果を求めず、中長期の視野に立って物事を見れるのか、それに尽きる。

あの時点で学者と言われる人は、「こうなったら、危機的状況になる。」「もしこっちの傾向が強く出たら、パニックになる」、こういった可能性は低いのだが、インパクトが大きい事についてやたらと強調するものであり、90%の可能性のシナリオを信じられなくなってくるもので、10%のシナリオのリスクを回避する事に全力を挙げてしまう。

これは勿論、そこを煽るマスコミがいるからであり、マスコミは「この1%の可能性のシナリオに行った場合、国民の20%が死亡する計算が成り立つ」とか例えばこうやって煽る人種なのである。このマスコミに振り回されたのがNYだとみることは出来るだろう。NYは恐らく世界でも有数のマスコミ都市であり、リベラルであり、市民の力が強い市である。その市長は、マスコミの挑発的なWorst case scenario報道に対して、断固とした対応を取らざるを得ない、これは市長自らが支持を得るためには、仕方がない事でもある。

翻って、日本においては緊急事態宣言は似たような意識を持つ東京都知事にとっては必須の政策であった。東京のマスコミは一刻も早いロックダウンを要求するようにエスカレートしたであろう。しかしながらここで国がある程度中心となり緊急事態宣言を行うに至った。国としては最後の最後までやりたくない、やる必要が無いという意識だったと思うが、マスコミとリベラルな人々に押されて踏み切った。

当時の感染例から見ても、マスクと手洗いでかなりの部分の感染拡大は阻止できるという見込みはあったのだと思う。コロナウイルスについては煽る報道が多いが結局は風邪のウイルスとそれほど大差があるわけではない。しかも国全体で見た時にそこまで危機的ではないという判断のもと、国は緊急事態宣言を行わないという選択肢も相当程度持っていたのだと思う。マスコミが煽らなければ、していなかったかもしれない。

これはまさにリベラルというものの政策決定に対する悪影響、ようするにリベラルというのは個人主義であり、自己中心主義でありコミュニティーで阻止していこう、という発想がないのである。これが支配するようになると恐らくは自治というか国家というか、組織が破たんしていくのだろう。究極的な弱肉強食の世界になってしまう。

また、昨今のマスコミ中心の民主主義というものの危うさも示しており、NYはいまだにロックダウンの呪縛から逃れられていない。リスクを許容しないと宣言してロックダウンしてしまうと、状況が変わった時に許容するような結論に至れない。一旦許容しなかったリスクを取る事に対しては、最初の議論よりも抵抗が激しくなってしまう。そこから何が言えるかというと、稚拙な状況決定は、特に明確な白黒つけるような判断であればあるほど、後戻りが出来なくなってしまうという教訓かと思う。

特に新たな脅威とか、先々に何が起こるか分からない状況下において、稚拙な判断というのは自分の首を絞める可能性を持っている。そういった状況において、色々な観点からの意見を取り込み、時間をかけて意思決定を行うという日本的な組織の在り方というのも捨てたものでは無いとも思う訳である。特に国の意思決定においては、日本は間接民主主義という名の、国会議員を選出したうえで、国会議員の投票によって首相を選ぶ仕組みがあり、国会議員の入れ替えは大いにあるが、首相、内閣というのは直接的に国民投票で選ばれていないので、足元のリベラルな人たちの意見、マスコミの報道というのをそこまで意識せずに意思決定が出来、これは本質的な判断を出来る事に繋がるので、この間接民主主義というものは今の時代にはむしろ適している。米国のように権限が異常に多い大統領を一回の選挙でしかも4年間固定してしまうというのは、もちろん民主主義という観点からは、もっとも民主主義を体現した制度ではあるのだが、大衆迎合、マスコミ迎合、リベラルな個人個人の意見迎合、的になってしまい、大局観を持った人間を選出するのが難しくなってしまう。その場その場をしのげるような、それでいて演説上手な人間がトップに立つようになる。それの最悪の例がヒトラーだったとも言えるだろう。

カトリックとプロテスタント

カトリックとプロテスタント

マルティンルターがカトリック教会の免罪符販売など、金稼ぎのための宗教利用について反発して、宗教改革に走り、カトリック教会に対する反発者という意味でプロテスタントという存在が世に広まっていき、どちらかというと欧州を北に行くとドイツなどのプロテスタント寄りの国が多く、南にはイタリアを筆頭に、スペイン、フランスとカトリック系が多いとは言われている。プロテスタントは実務的で勤労を美徳としており、カソリックはより宗教的で信仰と人類愛、家族愛これらが生活の基盤となっている印象である。

オリジン【角川文庫 上中下合本版】

食べ物はカトリック系の国が圧倒的においしいと言われる。スペイン、イタリア、フランスのような国の食文化と比べた時に、ドイツの食文化のなんと貧弱な事か。どちらかというと労働者が栄養源としてのみを考えて、食事を摂取するという感じだ。カナダに行っても、モントリオールがあるケベック州は食文化がある。それはフランス文化圏だからであり、他の地域とは一線を画している。一国の中で文化圏が違う例であり、これは非常に分かりやすい対比となっている。

海の歴史

しかしながら経済界で現時点で成功していると言えるのは、ドイツ、英国、また英国の起源を有する米国であると言えるだろう。ここに宗教改革の本質が表れているともいえる。怠惰で宗教に傾倒し過ぎたカトリックに対するアンチテーゼだったわけだから、勤勉で現実主義なプロテスタント系が資本主義というからくりに会っているというのは勿論当然の事だろう。2008年以降の欧州債務危機でも主役はスペイン、ポルトガル、ギリシャ、イタリアだった。南ヨーロッパの国々である。

そのように考えると、現代社会において経済発展を則す一つの原理は脱宗教と言う事になるのかもしれない。国として宗教色が強いところは、中東やインド、インドネシア、エジプトなんかも言えるし、先ほどの南ヨーロッパ、についても言える事であるが、残念ながら国民の関心が宗教的な事に向かってしまい、経済振興に振りきれないのかもしれない。

20世紀は米国、日本、ドイツというそういう意味では宗教感の弱い国々が対立する世紀だったが、21世紀はどうなるのだろうか。中国の台頭は21世紀に入ってからであり、同じく宗教色は弱い国とは言えるだろう。米国の現状はどうだろうか。分断が鮮明となり、保守とリベラルの溝は深まっている。そんな中経済を引っ張っているのは明らかに西海岸にいるリベラルな思想を持った人たちである。

一方、ラストベルトとか伝統的な白人中間層は以前よりも、恐らく70年代、80年代は必死に働き、経済的な恩恵を享受していたが、一生懸命働く事で稼げる仕組みが無くなってきている今、結果として宗教的な活動へ傾倒している人間が増えているように感じる。これはメキシコからの移民が増えていた事にも影響されるのかもしれないがカトリック的な保守的な宗教観が強まっているのではないだろうか。

稼げなくなってくるから宗教的な色合いを強めるのか、宗教的な色合いが強まるから稼げなくなるのか、因果が逆になっている話を書いているようになるので、どちらが原因で結果なのか、両方ともいえる気もするが、今後米国はますます分断を深めていくだろう。貧困で宗教にすがる勢力、一方無宗教的で金を稼ぐ勢力、これらの分断は深刻になるだろう。今後恐らく、社会保障コストは増えていくと思われ、そういった中でリベラル、無宗教、富裕層、のアメリカ人はどうふるまっていくのだろうか。同じアメリカ人だけど、宗教観が違い、勤勉ではない人たちの救済に回るのだろうか。それよりもリベラルな人だと、もっとグローバルな貧困の救済に走ろう、となるのだろうか。そうなると米国内での分断、貧富の差はますます広がり、米国を一つにしていたアイデンティティの崩壊さえ招きかねない。今回の米国大統領選挙では分断というキーワードが盛んに言われていたが、本当に終わりの始まりになりかねない。戦争でも無いと挙国一致で融和を行おうとならないだろう。それくらい思想的には真逆な人間が明確に分かれてきている状況であり、もともと移民の国であるので、歴史的アイデンティティが弱く、もしかすると砂上の楼閣なのかもしれない。