移民とイノベーション

2020年12月24日の日記より

移民とイノベーション

トランプ政権の4年間は移民を冷遇する4年間ではあった。国境に壁を作り、ビザ取得のハードルを上げて、治安対策という名目で移民を受け入れない体制を整えていった。

もちろん、治安対策という意味では、外国人や移民は所得が低くなりがちで、犯罪率が高いという全世界共通の課題があり、その視点からは必然性があった政策であったのだろう。移民というのはそもそも自国での生活が厳しいからこそ、他国で稼ぎたいという動機で来るものであり、米国などの先進国においては最低限の所得の職に就くのがまずは目標で当然と言えば当然であり、そういった状況になりがちだ。

しかしながら、米国の成り立ち、そもそも移民が広げた国家であるというイデオロギーに立ち戻り、バイデン政権はトランプ政権の政策の揺り戻しを行うようだ。国境の壁の建設は中止し、移民受け入れ枠も大きく増加させるということである。これは治安維持という観点だけから見た場合には、マイナスな政策であることは間違いない。上述のように最低レベルの賃金で働く移民の犯罪率は高いから当然と言えば当然である。

しかしながら、アメリカのイノベーションという観点で言うと、再び活力を取り戻す可能性がある。5,10年後の活力である。イノベーションの源泉は何なのだろうかという疑問に行きつく。シリコンバレーでイノベーションが生まれて、そのイノベーションが新たなイノベーションを呼び込む、そのようなプラスのスパイラルが働き、シリコンバレーは世界で一番イノベーションが生まれる場所になって行ったが、そこにあるのは多様性とその刺激、さらには開拓者精神だろうと思う。

そもそも米国西海岸というのは開拓者が一番最後に到達し、ゴールドラッシュと呼ばれるブームを作り上げた、開拓者精神の塊みたいな土地であり、その環境においてMicrosoft、Apple、スターバックスなども操業していくわけである。ハリウッドの映画産業も同じような経路で語られる存在だと思われる。そのような初期のイノベーションが世界中から人材を呼び込む原動力となった。世界中のイノベーターがあこがれて集結する事で、イノベーターレベルのピラミッドの中で頂点の標高が上がっていくのである。そのようにして形成されていったイノベーションのパワーは強大で、これからもプラスのスパイラルが働くだろう。成功していった企業による税金対策の移転はTeslaのように活発になるのかもしれないが、イノベーションの芽を摘み取るほどでは無いと思われる。

いづれにしても、この観点から言うと、長期的な視野に立ち、米国のイノベーションを止めないで、さらにプラスのスパイラルをはたらかせるには、移民の流入は不可欠であろうというのが当方の考えだ。翻ってみて我が国であるが、実際にベトナム人による犯罪が増加傾向にあり、ベトナム人に対する差別が起きつつあるという記事を読んだ。もちろんベトナム人にも立派な人と犯罪に走る人がそれぞれおり、これは日本人自身と全く変わりがないはずだが、ベトナム人による犯罪のニュースに触れる機会が増えている感覚はある。

ただ、上記のような観点から考えると、ここで治安対策を名目にした移民の受け入れを下火にするような政策をとると、日本はいつまでたってもイノベーションと呼べるような領域に行くことは出来ないだろう。お金はあるが何も革新的な事業が生まれないのである。日本は国の成り立ちから2000年間、中国のコピーをしながら繁栄してきたと言っても過言では無い歴史がある。当方は保守的な考え方に近いとは思うが、中国のコピーをしてきたという所は官僚制度であり、漢字であり、儒教であり、仏教であり、これは否めない事実である。そもそも米国西海岸を開拓した人間とはバックグラウンドが違うし、土地にある文化が大きく違う。そういった土地からイノベーションが起こるためには、少なくとも多様性の確保は重要であるはずであり、治安を軽視するわけではないが、優先順位としては移民を拡大するような方向性に行かないと、柔軟な国家運営のためのイノベーションはいつまでたっても生まれないだろう。

千差万別

2021年1月5日の日記より

千差万別

最近特に感じる事に、100人いたら100人の受け取り方があるという事であり、それは良い面でもあり悪い面でもある。100人いた時に、全く同じコメント、スピーチを聞いたとしても、100人それぞれの受け取り方があり、受け取り方だけではなく、聞き取っている内容にも違いがあるというレベルで、異なっている。これは聞く事、読むことだけでもなく、我々日常的な感覚であれば、例えば横に並んで二人で同じ風景を見ていれば、同じように見えているだろうと考えるのが普通かと思うが、それすらかなり怪しいのだろう、というのが最近の実感だ。

もちろん、視力の違いや、色彩感覚、コントラストを捉える感覚という物理的な違いもあるが、視野の広さ、物事を眺めるときの前提となる過去の経験、これらについても個人差は必ずある。特に視野の広さというのは例えば子供と大人を比べると明らかに違いがあるもので、他人の視野との比較というのをしたことが無いから実感がないが、これも明確に差異が存在しているモノであろう。また、視野についてはIQとの関連性も論じられることもあり、視野が広いとIQが高いのか、IQが高いと視野が広いのか分からないが、これも何となく連関がありそうなのは、実感されるところだろう。

そういう事を考えると、全く同じ方向を見て、同じ景色を見たとしても、認識される情報というのは、明らかに個人差が生まれているはずであり、これが個人間の誤解を生むことにもつながるのだろう。この見ている景色は千差万別であるという事実に対して、感覚では恐らく同じものが見えているはずだ、という先入観を持ってしまう事があり、Generation gapなんかもそうかもしれないが、色々な認識のずれを生み出していくのだと思う。

これは見るもの、聞くもの、読むもの、それぞれで当てはまるズレであり、例えば同じ新聞を読んでも捉え方は100人が100人違うのである。これは実感として持ちづらく、恐らく一般的な感覚ではそうではなく、だからこそ特に昨今は様々な不満が渦巻いているのでは、とすら感じる。ある個人が考えている事、例えば最近だと「Go to キャンペーンは中止して欲しい」と考える人には、周りに100人いたらみんな中止して欲しいと思っているはずだという先入観が強く働き過ぎており、そうでは無いと考える人の思考回路が理解できないという状況になっているのではないだろうか。

これは最近よく言われることだが、自分の都合の良いニュースやコメントしか吸収しなくなっている事と関係しているのだろう。昔は情報ソースはニュース番組と新聞だけであったが、今や纏めニュースで情報ソースは多様化している。その中で好ましいニュースしか見無くなり、多様な意見を受け入れる素地が減って行っている。自分と他人の違いを感じづらくなり、他人の考え、意見、感覚を想像する力が失われている。こういった個人の思考回路の多様性の欠如、これが様々な社会問題を生み出しており、このコロナ禍がそれらをあぶりだしている様ですらある。

対立の世紀、対立の増長、これらが米国選挙でも言われたが、これは世界的な流れとなっている。なぜ起こるかというと、異なる意見を排除し過ぎる風潮があるからと言う事は明白であり、それを助長しているのは無限に級数的に増加している情報量のせいなのかもしれない。情報が増える事で、個人のフィルターがかかり、多様な情報が届かなくなる、こういった矛盾を解消していかなければ、隣人とすら上手くやっていく事は難しくなるのだろう。

行動規範と感染症対策

欧米での新型コロナウィルスの拡大具合と東アジア地域である中国、韓国、台湾、日本での拡大具合には大きな差がある様に感じられる。もちろん、人種による遺伝子の違い、免疫の違い、体質の違いのようなものも影響しているのかもしれないが、興味深い要素に集団行動が得意かどうか、という面がある。人間は危機に瀕した時に集団で危機を乗り越える事がある。その為には集団の統制というものが重要であり、特に軍隊などではヒエラルキーによる指揮命令系統の徹底、集団での統制を取れた行動が、行動規範となっており、これはこと軍隊に関しては世界共通の価値観であろう。文化的背景が違う中でも軍隊という集団の中ではこういった行動規範が徹底されるのは、普段から統制を徹底していれば危機の時に統制のとれた行動につながるからであり、軍隊が直面する危機というのは統制が取れた行動が勝敗を分けるカギになる。

だからと言って日常生活、特に今日の経済活動において統制が取れた行動が全ての勝者に結びつくわけでは無いというのが面白いところであり、現在のようなVUCAの時代と言われ、過去の成功体験が現代に適応しずらい潮目の時には統制が取れていない、自由な組織の自由な意見、自由な個人のヒトとは違った発想が勝利を導く。GAFAはまさにそういった例の代表でありTESLAも該当するであろう。TESLAがカリフォルニアにあの工場を作った時はみんな鼻で笑っていた。要は統制が取れた行動が良いか悪いか、というのはその組織や集団が置かれた立場次第である。しかしながら、感染症の拡大阻止という観点においては、集団で外出を自粛したり、マスクを付けたり、皆が同じレベルの予防策を講じられることがもしかすると大きな違いになっているのかもしれないし、今回の感染拡大具合において、見逃されがちな大きなファクターかもしれない。

そもそも古来の宗教儀式なども例えばお祭りなんかは、皆が同じ行動をとる事で、何かの成果を得るための行動になっていたり、共同体の所属意識を高める事で他人への迷惑が掛からないように自制を行う、そういった一面もあるのかもしれず、そういった宗教儀式も行動の統制という意味で使われていた可能性がある。また、それらがどういう成果を求めたかというと、古来においては、脅威というのは凶作と自然災害、疫病が大きな問題であり、その中での疫病への対処方法として宗教儀式も発展してきた可能性がある。

冒頭の東アジアと欧米の比較という意味では、個人主義と、その反対という対立項に当てはめると、感染症拡大具合も見えてくるのかもしれない。その対比ではないが、そういう意味では東アジアの国はどちらかというとイノベーション的ではなく、先頭集団について二番手として生きていく、経済においてもそういった位置取りになってしまうのかもしれない。日本、韓国、中国、台湾の国々を見ているとそう思わざるを得ない。感染拡大を止める集団統制と、経済発展を則すイノベーションを生み出す個人主義、どちらがいいのかは分からないが、国民性、文化的背景からそういった区別になるのかもしれない。