宗教と科学

宗教と科学

この古くて新しいテーマについての対立は17世紀、18世紀よりは落ち着いているようにも見える。ガリレオやダーウィンが活躍した時代に比べたら、現代の科学者は新発見について誇りを持てるようになっているだろう。これは宗教側が譲歩しているとか、科学に適応しようとしているわけではなく、科学の発見が宗教の論理を凌駕しているからだと思われる。

宗教側の姿勢というのはそれほど変わっていないように見えるからである。例えば米国ではいまだに進化論を教える事が出来ない州があると言われている。我々日本人からすると異様な光景にも感じる。これは民度とか学力の問題では無く、宗教勢力が一定の力という名の権力を持ち、州政府、連邦政府にロビイングという圧力をかけているからである。ロビイングを行うロビイストは金だけあれば何でもする人たちであり、中国のためにロビイングを行うコンサルもワシントンDCにはたくさんいる。

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なのでロビイストの存在は問題では無く、そこに金を掛けられる団体がある事がポイントであり、宗教家、ここでは主にカトリック系と言う事になるのだろうが、これらの団体が資金力を持ち、影響力を行使しているという事の示唆である。これが良いとか悪いとかいう話ではなく、日本は宗教勢力の権力への介入というのは創価学会と公明党の繋がりでしか現れず、宗教色の強い政策が反映されることがないが、世界の国々では宗教というのは一定の政治的発言力を持っていると言う事が言えるのだろう。

一方科学者の存在も政策に影響を与える事はある。例えば地球温暖化問題で政策に沿った論文を出す科学者はいるし、そういった例はある。ただこれらはどちらかというと科学者が政治利用されている例であり、科学者としての政治思想は脱宗教的な発想とは言えるが、何か大きなバックボーンがあるわけではなく、政治における立場では、宗教が圧倒的に有利ではあるのだろう。というか科学者陣営は積極的に対立をしたり、対抗的な発言をしているわけではない。

そのように考えると宗教と科学の対立というのは、モラルであったり、人生観、哲学、そういった分野での人類、生物としての根源的な事に対する問いについての回答における対立であり、もっと個人に対しての影響が強いとも言え、これが一つの対立軸である。ヒトが「分からないものを知りたい」とする好奇心からくる欲求と、「分からない事は不安。だから、早急に回答を受け取りたい」と求める不安、分からないことに対してのアプローチの違いともいえるのだろう。どちらもまっとうな思考回路であるが、人類が歩んできた道を考えると、少なくともホモサピエンスの20万年の歴史で言えば、好奇心が切り開いてきた道という面が大きいだろう。

もちろん困難に直面した時に不安要素を最小化するという能力も生き延びてきた要因の一つではあるが、人類が現在のような技術力を身に着けたのは、好奇心が全ての源ではないかというのが、筆者の考えだ。出アフリカから始まり、ベーリング海峡を超えるという生物分布の拡大の歩みは、もともと住んでいたところの食糧が足りなくなったから、東へ東へと進出したという側面も勿論あるが、その移住に際しては力は弱かったかもしれないが、好奇心旺盛な集団がいて、移住を決断していった。そういった連鎖のもと、最終的に現在の南アメリカ大陸に到達した人類は、好奇心やクリエイティブな発想を身に着けていったのだろうと想像できるのである。

そういった意味で「分からないことをもっと知りたい」という欲求にこたえる科学や科学者というのは重要な存在であり、人類存亡の根幹をなすものである、そこまで強く筆者は支持するのである。科学の歩みを止めてしまう事は、人類の歩みを止めてしまう事にもなりかねない。

6500万年前に圧倒的な最強の生物類となった恐竜は、隕石の衝突でほろんだが、例えば進化の方向性、生物種の選択的進化が少しでも別の方向に行っていたら隕石の衝突があったとしても絶滅しなかったのかもしれない。そこには油断や慢心が無かったのであろうか。そういった意味で科学の進行を止めるとか減速させるような動きがあると、人類全体の繁栄という観点からも悲しい気持ちになってしまう。

特に科学の発展にも莫大なお金がかかる昨今ではあるが、お金は極限まで効率的に運用するというトレンドが出来上がりつつある。これは目の前の利益を最大化するという聞こえの良い方策ではあるが、遊びの予算で科学振興を行う事を減らしていくと、1000年、2000年単位で見た時に、人類の科学発展の基盤がくじかれることになる。もしかするとそういった視点から資本主義を批判的にみる事が出来る科学者の意見団体が必要なのかもしれないと思う次第である。

気候変動の歴史

気候変動の歴史

この頃は特に地球温暖化、気候変動による異常気象などが言われている。多くの人の主張は、産業革命以降の二酸化炭素排出量の増加による、二酸化炭素の温室化効果によって温暖化が起きているというものだ。

今のところ、二つの疑問点がある。1800年代から徐々に工業生産が増えて、右肩上がりで一本調子で二酸化炭素排出量が増えているはずではあるが、1960年近辺に正確には記憶していないが、20-30年間平均気温が低下している時期がある。よく見るグラフで見られる傾向だが、これについて合理的な説明が出来ていない。もう一つは、二酸化炭素濃度なんていうものは、増えたと言っても二酸化炭素の濃度変化というのは数百PPMレベルの変化であり、これが地球の大気組成の変化として、また温室効果として妥当なのだろうか。

それこそ金星の様な天体が異常に高濃度の二酸化炭素で覆われており、温室効果が働いているという状況と同列に議論できるものなのだろうか。これは、科学の難しいところであり、地球環境というのはN数が1であるとも言え、同一条件での比較が困難である。また、地球の気候の仕組み、地球自体の仕組みについても、科学は理解しているのだろうか。文明の発達の歴史と言う事を考えると、現代人は今までの文明の頂点にいる気になっており、多くの事、それこそ古代には神の領域と思われていた事すら科学で説明できる分野が出てきており、神様気取りなのかもしれない。

しかしながら、一般的な謙虚な科学者はそうは思っていないはずであり、そういうSilent majority的な科学者は、わざわざ気候変動についての薄ぺっらく、お金の匂いのする議論からは逃げているのではないだろうか。科学者として本質的な議論がなされているとは感じられない議題だからである。

そもそも地球の気温に影響を与える要素は、当然のことながら、太陽活動が一番大きな要素であり、太陽からのエネルギーを跳ね返したりする役割もある、地軸、地球磁場これらも大きな要素となっているだろう。そういった要素と、光として降り注ぐエネルギーを跳ね返すのか、否か、これも大きな要素となるはずである。これにプラスしたうえで、大気組成の話は出るはずであり、そんなに単純な話ではない。

地球は何度も氷河期を経験して今に至っており、特に我々の人生のような100年単位で物事は動いていない。また、温暖化が進むと異常気象が増えるという理屈が全く気に入らない。まず、地球の歴史を紐解いた場合、温暖な気候の方が生命の存在には有利であることは間違いない。生存できる空間が増える事で食物連鎖が広がり、生物相に広がりが生まれる。

人類の文明史を見ても、ルネサンス期の温暖期がいい例だが、温暖な時期の方が作物の生育が良く、人間は幸せな時間を過ごせるのである。こういった事から、まず言える事は、温暖化自体は悪い事ではなく、ツバルが沈む映像をことさら強調する放送局があるが、石炭火力発電所の代替発電所を世界中に整備する費用を掛けられるなら、ツバル一国を救う事は恐らく予算的には誤差の範囲だろう。また、沿岸部に住む人の生活が危うくなるというが、海外線の上昇にしたって、津波のようにある日突然来るわけではなく、護岸工事や、移住をすれば問題ないし、今までの歴史においても対応してきている事である。北極の氷だって溶ければ北極海航路を使用しやすくなり、物流費用が下がるし、南極の一部に人類が住めるようになれば、人口密度が減るか、人口を無理なく増やすためには好都合である。

大型台風が増えたとか、猛暑、極寒が増えたと言う事を、二酸化炭素排出量の増加→地球温暖化→そういう異常気象が増えた、という論調で言う向きがあるが、こんなことは誰かが証明したのだろうか。もちろん、温暖化により、大洋例えば太平洋の海水温が上がり、熱帯性の低気圧が発生しやすくなっているというのかもしれないが、本当だろうか。

気圧の差というのは、温度差で生まれるのではないだろうか。地球が等しく温度が上がっており、太平洋の海水温も同じように温度が上がっていれば、その上の領域(北の領域)も等しく温度が上がっているわけであり、大型の台風が増えるのだろうか。もちろん、海水の温度と気温を等しく比べられないが、海水温の方が温度上昇は小さいのではないだろうか。熱を保持できるから、温度上昇は同じでも、台風を巨大化させやすいのだろうか。

もちろん、二酸化炭素排出量の増加が大きな原因になっている可能性もあるが、今聞いている話や読んでいる本の内容によると、整合性のある説明がなされているとは到底思えない。無理やり二酸化炭素の排出量を押さえていきたい勢力があり、その人たちの偽善的な主張に皆が反論できなくなっているだけではないだろうか。

例えば、「戦争反対。人類みな兄弟。人殺しは悪。」的な主張があるが、これはまったくもって正論であり正しいようにも思える。この意見に対して、真正面からの反論は難しい。しかしながら、欲がある人間であるなら、個人の間では日常的に目に見える形、見えない形を問わず争いはある。例えば、仕事における競合との競争もそうである。そういったものが発展した形態が戦争であり、人間というものが存在する限りにおいては避けられない。いや、これは人間以外の動物であっても避けられない、根本的な本性であり、生きるという事や、種を保存すると言う事は争うと言う事が本質なのだろう。

そういう観点から言うと、戦争は反対であるが、守るべきものを守る時には戦争は必要なのである。Political correctnessではないが、偽善的な主張というのは、時として反論が難しい時がある。二酸化炭素の排出増についても、減らさないより減らした方が良さそうだ、という感じの人が多いのだろう。それによって、既存の秩序が壊れる事はいいのかもしれないが、過剰に意識しすぎる事によって、本来の活動が阻害されるとなると如何なものだろうか。

一神教と多神教

一神教と多神教

ローマカトリック教会というかヴァチカン市国には、全世界のキリスト教徒の頂点に立つ教皇という存在があり、コンクラーベと呼ばれる枢機卿による選挙によって選出されていると聞く。世界にキリスト教徒が何人いるのか分からないが、何億人といる中の頂点を小数人による選挙で決めているのである。もちろん、仏教にも偉いお坊さんなるものはいるが、このカトリックの教皇という存在、権力というのは独特な仕組みであると言えるだろう。そもそもその宗教が出来た時からの癖のようなものかもしれないが、キリスト教はヒエラルキーを築きたがる傾向があるのではないか、というのが筆者の印象であり、一般市民には等しく隣人を愛せよ、という割には権力者とそれ以外という構図が明確な方ではないか。

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だからという訳ではないが、これはよく言われる事ではあるが、一神教は硬直的で、多神教はもう少し大らかというか柔軟性がある様に思われる。多神教というのは、前歴史時代の人類が持っていた自然崇拝的なところから来ており、万物に宿る神様に感謝、畏敬の念を持ちなさいというのがどちらかというと考え方で、絶対的な神を持たず、自然全般に生かされている事を感謝しつつ、例えば豊作を祈ろうという、日本の神道的な考え方がある。

それに革命を与えたのが一神教と呼ばれる世界で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、それぞれ派生形がたくさんあるものの、どれも基本的には一般的には一神教と言われる。一神教の何が革命的かというと、まず熱狂的な信者を作りやすい事がある。一人の神が全てを見ているとなると、その神にのみ祈りをささげればいいし、例えば奇跡と呼ばれる事柄が起きても、その一人の神が起こしたことだといえば、分かりやすいのである。

実在の人物にしてしまえば、イメージもしやすいし、何より分かりやすく、布教活動において効力を発揮したと言えるのだろう。そこから派生した影響として、領土的に侵略した時に布教活動がやりやすいという利点があるのだろう。特に歴史においてみられるのは、キリスト教とイスラム教の国々が戦争で領土を拡張して、その土地の宗教も染めていくという歴史である。もちろん、意に反して改宗していった人も多くいるとは思うが、侵略した土地を自分の宗教で染めていく。これも一つの信仰対象に限定されるからこそできる技であり、侵略にも適していると言える。

そもそも侵略に適した宗教だからこそ世界中に布教する事が出来たという側面もあるわけで、日本にも戦国時代に宣教師が来日しているが、一部の藩では熱狂的な信者を生み出し、その後の鎖国につながったというのが定説ではある。徳川家もこのキリスト教という宗教の先進性というか、強力な浸透性に危機感を抱いたのだろう。それほど一神教というものは、とくに困窮している人間や、悩みを抱えている人間には容易に浸透しやすいと言えるだろう。

一方で、その権力はピラミッド構造となっており、頂点のヴァチカンには絶大な権力と、資金が集中する。それが大航海時代を切り開くことになり、ますます全世界的な布教につながったのだが、一方で、その世界から一歩距離を開けようとしたのが、マルティンルターによる宗教改革であり、ヴァチカンに反発するという意味でプロテスタントと呼ばれるようになったのである。プロテスタントも勿論キリスト教ではあるが、免罪符による利益に溺れたりした、当時堕落に走っていたカトリックと距離を開け、真面目に素朴に生きましょう、これがプロテスタントを生んだと言っても良いのかもしれない。その延長線上に産業革命が起き、資本主義、資本家というのが宗教家に変わって、世の中の中心になって行ったというのが、資本主義の19,20世紀なのかもしれない。

しかしながら、宗教戦争というものは継続しており、中東を中心としてイスラム教内部抗争、イスラムとキリストの対決、これらは20世紀にも大いにみられていた。一神教信者は、自分の神以外を信ずるものの事が恐らく理解しづらいのだろうと思う。

ただ21世紀になり、情報革命というか、人間が日々入手できる情報の量が飛躍的に増加して、今までの人類が体験したことが無い量の情報量に溺れる時代がやってきた。宗教改革が活版印刷技術の登場で達成されたように、情報量が飛躍的に増える時代には新たな権力であったり、宗教であったりが進化するチャンスではある。情報が増えて色々な化学情報にも触れられるような世の中になると、例えば、イスラム教徒は、何故豚肉を食べないのだろうと、自問した場合に、容易に過去の経緯や、宗教的に禁止されるようになった背景を検索して知る事が出来るようになるかもしれない。

キリスト教徒であっても、例えば地動説なんて有名な理論も勿論だが、宗教による非科学的な教えに対して、子供のころから自分で調べて、反証する事が出来るようになってしまう。科学の急速な進歩もあるが、それ以上に情報量の増大、アクセスのしやすさにより、宗教対科学という論争においては、科学が優位になってくるだろう。熱心な信者というのは薄まってくるのかもしれない。

ただ、科学の倫理というのをどうやって保つのかという問いに対して、宗教以外の物が答えを与えてくれないのも事実であり、科学が発展すればするほど宗教的な支えが必要なのも事実であり、このジレンマの中で、今後30,50年では、恐らく科学に対する倫理を与えるという宗教が勃興していくのではないだろうか。それは一人の神を想定するものではなく、人類の道徳、倫理を規定するものとなるだろうが、どのように一般市民の理解を得るのか、これはかなり難しい問題となるのだろう。思考がぐるぐる回ってしまうが、そういう意味でも、一神教の分かりやすさというのは強烈であり、それこそが、世界中に伝播させることができた理由なのだろう、と思うに至るのである。