民主主義と選挙権

2020年8月14日の日記より

民主主義と選挙権

民衆による選挙によって国会議員を選出、政治の中心とする政治形態が日本では明治時代から導入され、民主主義と言うように呼ばれている。その後、選挙権を持つ人間の対象が徐々に拡大され、今や20歳以上の人間であれば、基本的には誰でも選挙権を持つようになった。この150年間の歴史は、良いほうに変わっていった、選挙権の拡大は民主化の進歩であるというのが、一般的な考えのように言われているし、筆者が小学生、中学生の時の先生もそのように当たり前に教えていたと思う。

果たしてこれは、合理的なのだろうか。この事実ですら扇動された結果ではないのだろうか。それこそ、これは誰か特定の人間にとってのみ、都合が良い事なのではないだろうか。

国と言うものが存在する意味と言うのは、文化的な意味合いもあるのだが、一人では実行できないことを集団で実行して、個人の生活の平穏を守るために存在しているものだと筆者は考えている。例えば安全保障であり、例えば治安維持であり、例えば人権などの権利の維持であり、これらは個人単位では実行できない面が強いので、個人から税金を徴収して、国なり自治体なりの社会的組織が実行するのである。

原始的な社会においては、恐らく優先順位の一番は安全保障であったと思われる。ムラという次元から、国家と言う次元まで考えても、生存競争と言う生死を左右する戦いの中で、隣国を襲って食糧の確保であったり、富の簒奪というのが生活の重要なファクターであったからだ。その後、弱者救済的な政策のためであったり、快適な生活を保障するためのインフラ整備、そういったものを集団で行うために税金を徴収する、そういった社会に変貌していった。要は統治、政治、というのは、税金の使い道を議論するための機構であり、民衆が生産する限られた成果物の中から出し合った税金の使い道と優先順位を決めるのが、重要なファクターなわけである。

安全保障にも、治安維持にも、インフラ整備にも、弱者救済にも、なんにでも無限に税金が使えるなんてことはあり得ない。民衆が生産する成果物には限りがあるからであり、これはいつの時代、どこの場所でも変わらない真実である。だからこそ優先順位が重要になってくる。

次に重要なファクターは、時系列と言う事になる。1,2年の期間での成果を求めるのか、10,20年の成果を求めるのか、これも議論を呼ぶポイントになるし、場合によっては利益が相反するポイントでもある。

このように政策となり得る争点は恐らくかなりの数があり、それに時間軸を付けて、優先順位を付ける、これらの作業があってこそ、税金の使い道が決まってくるのだが、これを一国民が判断するのは非常に難しい。結局、自分に関係のある事、これに偏った判断になってしまう。それを多数決を持って決める、という暴力的なシステムが現在の民主主義だと言えるだろう。

何故暴力的かと言うと、非常に短期的な足元の社会情勢と、人口動態、これによって政策が決められてしまうからである。景気が悪い時は税収が少なく、失業者が増える。こういう時は直情的に安全保障、インフラへの予算が削られる。この流れはまだ論理的でありやむを得ないのだが、景気が悪いというのが時に客観性がないまま議論されてしまう所に問題がある。まさに今の日本の社会がそのままそうであるが、我々日本人は戦後から今まで大きく経済成長してきた歴史があり、それをバックボーンに持っている人間が、恐らく国民の半分程度いる。40代以上の人間と言う意味だ。この人間にとって0%成長と言うのは心情的に理解が出来ないのである。今日より明日の生活はよくなっているはずだし、今年より来年の生活はよくなっていると、どこかでそう捉えてしまっており、0%成長の社会において、生活に不満を持つ人間の割合は、どんどんそれこそ日に日に増えて行ってしまうのである。言葉を変えると、日に日にわがままになって、自分は満ち足りていないと思う人間の割合が増える。そうなると、弱者救済である社会保障への支出を増やそうという方向になり、人口動態から半数以上が40代以上であり、異常に社会保障への要求が強まってしまう。一方、ざっくりいえば30台、20台は0%成長にも慣れた世代であり、今の生活が維持できれば、それほど不満は無いと考えがちであり、もっと税金を将来への投資に向けようという気持ちになる。もちろん子育て世代であることもあるが、そういう意味で、若い世代の方が我慢が出来る世代になっているのである。

話を選挙に戻すと、逆ピラミッドの人口動態において、昨今議論されて、優先されている政策と言うのは非常に短期的な課題解決への傾倒が強いように感じる。国家100年の計なんて言おうもんなら笑われそうな勢いである。インフラ整備、安全保障、治安維持、そういった事よりも社会保障の話題が多く、民主主義の行き詰まりを感じる昨今である。

上記のように制度疲労を起こしつつある民主主義だが、その歪が近年大きく出てきていると感じるのは私だけだろうか。安全保障面で言うと、もちろん中国が台頭していると言う事はあるが、領有権問題が大きくクローズアップされている。そんな中、国防費用には大きく予算を付けるべきだと思うし、もっと本格的な議論を行うべきだろうが、わがままな老人たちは、「戦争反対、社会保障を!」これだけだ。今後ますます中国の台頭を許すことになり、20,30年後に領土を侵略されているかもしれない。老人たちはこの世にいないので関係ないのかもしれないが。インフラ整備にしても、昨今洪水が多く感じるのは、異常気象のせいなのだろうか。洪水対策に重要なのは、ダムの建設、堤防の建設もあるが、意外と見落とされがちなのは浚渫工事である。川には土砂が溜まるので、断面を見た時の底面はどんどん上がってくる。堤防の高さが変わらなければ洪水が起きやすくなるのは自明の理である。どこかの政党が「コンクリートから人へ」と高らかに謳っていたが、コンクリートも重要ではないのだろうか。また、80歳の方への高額医療の補助と、浚渫工事を行って洪水を避ける事、日本としてどちらに優先順位を置くべきなのか、そういう議論は必要ないのだろうか。

そういう議論を先導していくべきマスメディアが「アベノマスクはいらない」とか「桜を見る会がどうした」とか、そんな話ばかりして、鬼の首を取ったようにふるまっているが、そんなことはどうでも良いから、安全保障の話をして欲しい。ただ、マスメディアは自社の利益のために動いており、そういうアベノマスクや桜を見る会の報道を求めている視聴者がいるからやるわけで、そうった国家100年の計など考えた事も無いような視聴者が選挙権を持っていること自体がどうなんだろう、そこの点をもっと掘り下げてみたい。

白人主義、白人覇権という時代

2020年8月17日の日記より

白人主義、白人覇権という時代

初めに言っておきたいが人種差別というのは、知識や知能が低い人間が行うもので、人種の違いをステレオタイプに語る事で、そこには存在しない優位性を誇った気になって、優越感に浸る行為であり、虐げられてきた人間や、自己肯定間のない人間が行う低俗な行為だとは思う。

現在読んでいる本に、「Paperの語源はパピルス紙である、という幻想は白人が作り上げた歴史観である」という記載があるが、まずパピルス紙なんて言い方が間違っており、パピルスは紙ではない。どちらかというと竹を張り合わせたようなものであり、紙を発明したのは中国文明というのが定説である。ただ、メソポタミア、エジプトで紙が発明された、としておくと、自分たちが優越感に浸れると考えて、宣伝した集団がいるのである。こういった先入観を植え付ける行為は、特に17、18,19世紀の欧州で盛んだったようで、今では信じられないような話だが、彼らは、人類は黒人→黄色人種(現在はこんな言い方しないが)→白人と進化をしてきて、白人が一番進化した人類だと本気で信じていたし、こういう思想が奴隷貿易の正当化にも寄与したのだと思われる。

ファンタジーランド 【合本版】―狂気と幻想のアメリカ500年史

たしかに現代の統計学、文化人類学によると、人種間の能力の差というのはあるような分析結果もある。橘玲氏の著作に色々書かれているので参考にして頂きたいが、実感としても例えば黒人の人は音楽的な才能や、アスレチックな才能という意味では非常に高く、例えばオリンピックの100M競争の決勝は8人とか9人とかがほとんど黒人の選手と言う事が多い。一方で身体的な頑丈さは白人が持っている特徴であり、我々モンゴロイドは著者の考えでは好奇心と知能の高さを持っていると考えている。

これは二つの要素の掛け合わせなのだが、モンゴロイドの特徴の大きな原因は、ホモサピエンスの出アフリカからの進出の過程にあると思っている。アフリカで発生したホモサピエンスという現生人類の種は、その後メソポタミアに進出し、二手に分かれるようにヨーロッパに進出した集団と、沿岸部を東に東に進んでいった集団とに分かれる。最新の研究によると、その過程で、他の人の種であるネアンデルタール人と主に欧州で、これまた他の人の種であるデミタス原人とかジャワ原人とアジア地域で接触があった。ネアンデルタール人との混血は確かなようで、アジア地域の他の人の種との交配は不確かな状況ではあるが、メソポタミア地域から移動していく過程で、もちろん力が弱い集団が外へ外へ追いやられていく事で土地を移動したというのが、移動をしていった理由の一つなので狩りをする能力は低かった集団が移動を重ねたのだろう。そういう意味で、力というよりは恐らく俊敏性などの身体能力が生存に重要だったので、アフリカに残った集団、メソポタミアくらいまでは身体能力が高い集団が残って行ったのだと考えられる。また、恐らく音楽的な才能というかリズム感はそこでの種の繁栄に欠かせない要素だったのだろう、と言う事も考えられる。

一方、アフリカで反映する事が出来なかった身体能力の低い集団のなかで、恐らく好奇心の強い集団というのがあり、それが移動を先導していく立場になったのだと思われる。そこでまずは、生物相の違いにも遭遇するわけだし、天候や土地の違いもあるだろう。また、これは恐らくはだが、他の人の種との交流もしくは交配もあったかもしれない。これから得られるのは多様性であり、もっと言えば環境適応能力が高くないと生存していけないのである。ここで試されるのは、工夫をする力であり、困難に対応する力である。そういったところから、好奇心や知能という面では東へ東へ進んでいった集団内で高まっていく、逆に言うと知能が低い集団は移動の過程で環境適応が出来ずに、生存できなかったのではというのが著者の仮説である。

この話は結果としてアジア地域で一番東に到達した日本人が知能が高いと言いたいのではなく、続きがある。そこからベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に進出、さらにどんどん南下を重ねて、現在の南アメリカ大陸まで進出している一団があるのである。恐らくマチュピチュを作ったような集団は、もっとも好奇心が強く、知能が高い集団だったのではないだろうか。アメリカインディアンと言われる、白人が進出する前に住んでいたネイティブアメリカンと呼ばれる人々も文化的にも、知識的にも高かったと思われる。

これらが覆ったのは文明というものが起こってからであり、文明というものは大きな権力を生み出し、大きな戦争を生み出した。戦争の発展は人類の技術の進歩を飛躍的に即した面があるのだと思う。恐らく5000年前頃までは、やんわりとした集団が、自分の集団だけが生存できるだけの食料を確保して、自分の集団の生存だけを目的に生きていいたのだろう。他の動物種が行っているような生活スタイルだ。しかしながら、5000年前頃に、記録装置(骨、石板、パピルス等)の発明なのか、青銅器の発明なのか、穀物収穫の手段なのか、どれなのかはわからないが、集団の食糧確保の量が飛躍的に高まる大きな発明があったのだろう。その中でも記録装置というのは、例えば、毎年、この年はこういう方法で農業を行ったら収量がどうだった、というのを何十年でも正確に記録できるわけで、食糧確保の効率を飛躍的に高める事ができる。そういったまさにイノベーションが起きたのが恐らく5000年前頃であり、そこから文明が始まり、富と権力の集中化が起こり、戦争が頻繁に起こるようになった。

戦争が起こるようになってからの技術革新の速度は恐らく飛躍的に速度が高まる。それまでの人類20万年の歴史での進歩とは比較にならないような技術の進歩が生まれだす。なかでも戦争が多かったのが地中海沿岸地域であり、エジプト、メソポタミア文明、これらが距離的にも近かったことも原因ではないだろうか。その後、戦争の歴史が始まり現代にも続くわけだが、戦争の歴史による技術の進歩は12,13世紀までは地中海沿岸地域と中国地域で盛んだったと思われるが、大航海時代を開いた欧州の国々が先を行く事になった。そこでの開発により得た利益が現在でも格差として残っている、というのが現実で、そこでの開発により得た利益によって、5000年前以前の歴史の書き換え、宣伝工作を行っているのも、そういった国々の人々である。恐らくは戦争というものが続く限り、戦争で得た技術革新が優位性の担保になっている国々の優位性は変わらないだろう。こういった時代がいつまで続くのかはわからないが、戦争がなくなる時代は恐らく来ると思う。これは、単純な反戦運動による戦争のない未来の実現という意味ではなく、富や欲望を簒奪しあわなくてよくなる時代が来るのかもしれないという事である。映画マトリックスの世界ではないが、仮想現実の世界が、実際現実の世界よりも主流な世界になれば、どんな物欲も支配欲、性欲、金銭欲、こういった人間の煩悩と言われるものが仮想現実の中で、個人単位で解決できる日が来るのかもしれない。その時点でどういう人種、国が優位的な立場にあるのか、という議論は意味が無いものになりそうではあるが、欲による闘争がなくなれば、現在に残る戦争で築き上げた白人が優位な社会というものは無くなっていくのかもしれない。

DXを拒む世代

デジタルトランスフォーメーションを拒む世代

デジタル機器に対する理解度、活用度、これらが世代格差を持っている事は明らかであり、恐らく過去に高校生にポケベルが流行ったくらいから、見られていた事だろう。そういったデジタル機器の普及が本格的に進んだのは2000年代以降で、携帯電話やパソコン、これらの個人所有が進んだ。2000年代以降は特にパソコンは仕事においても中心を占めるようになり、2010年代以降は携帯電話、タブレットなども仕事の分野に進出してきた。

コロナウィルスの感染拡大により遠隔での仕事が増えるようになり、一気にデジタル機器の仕事という観点での進化が進んだように感じる。これは一過性ではなく、あるべき未来への進化、というか前進が早く起きるきっかけになったという見方が出来ると思われる。

科学の世界でも物事の発明、発見というのは、一過性ではなく、そこから次のミライへ向けた進化を増幅させる機能を持つ事が多く、ノーベルのダイナマイトにしても、エジソンの白熱電球、なんかもそうであるし、例えばスティーブジョブスのMacにしてもIphoneにしてもそういった意味合いを持つ。コロナでの遠隔の仕事と、偉大な発明は違う意味合いを持つのは間違いないが、何かがブレークスルーする瞬間という感じでは似ており、それは継続的なイノベーションを則す土壌となるのだろう。

勿論、産業というのは各種あり、農業部門、工業部門は生産において人の介在がゼロで行われると言う事は今のところないので地理的な制約があるし、サービス産業や運輸部門なんかも地理的な制約に追われる分野ではある。しかしながらそういう分野であっても、また通常オフィスワークと呼ばれる分野ではなおさら、業務のデジタル化、遠隔化、これらは進展せざるを得ない状況になってきている。

社会がそういう変革を行っている中で、働き方改革と同じ現象が起こっているのが世代間格差であり、俗にいうバブル世代という抵抗勢力が見られる。良く言われる事ではあるが、この世代は幻想に覆われている。高度経済成長で成功した親世代の背中を追っており、このまま右肩上がり幻想が強い。それは社会が実現してくれる右肩上がりであり、自分たちが積極的に当事者になる必要性を感じておらず、今まで通り同調していれば、右肩上がりになっていくという幻想である。

同調圧力が強く、バブル世代という言葉とは逆説的であるが、以降の世代と比べると、当事者意識が弱く、自主性に欠ける。00年頃にSMAPの「世界に一つだけの花」という楽曲がブームとなったが、バブル世代の次のロスジェネ世代は、「世界に一つだけの花」世代とも言え、Only oneを目指しましょう、というのが世の中的にも強調された世代であり、これは同調のバブル時代の反動だと筆者は思っている。同調圧力なんか無視して、自分のやりたい方向に進みなさい、という社会運動に近いものである。これによって変わった文化の代表は、ヤンキー文化だろう。同調性が強く要求される社会環境において反動勢力としてのヤンキー文化があった。80,90年代というのはヤンキー文化が強かった時代であり、色んなヤンキー漫画、映画があった。これは同調を強制すればするほど、はみ出したくなるのが、思春期のサガであるからである。一方で、00年代以降はヤンキーは死語になりつつあるし、社会情勢からも、同調性を強制されず、多様性が認められてしまっているので、未知から外れる存在、というのが何か特別なものではなくなってしまっている事の表れなのだろうと思う。

この文化の揺り戻しというか、大きな偏重というのは戦後行動経済成長を担った官中心の日本社会においては、ある程度仕方のない事であって、そういった歪は出てしまう。軟着陸できないのである。その揺り戻しが世代間ギャップを大きくしてしまっており、昨今の働き方改革でありDXでありを拒んでいる。言い方を変えるとそういった変革を拒む世代の強力さを生み出している。このギャップは意外と協力で、大きな断絶を生んでいるが、世代間ギャップなので、何時終焉するかはもう見えており、5年もすればバブル世代の主力は企業の主力から外れる時期が来るので、そこから社会の変革速度は大きく向上するだろう。