政治家と国民

政治家と国民

政治家と国民というのは対立軸として描かれがちであるが、そもそもは民主的な選挙が行われている日本のような国では、選挙が行われ国民の多数の指示を受けて政治家として例えば国会議員、地方議会議員に選出され、行政や立法業務にあたる、そういったものであり、特権階級でもないし、一国民でしかない。

二世議員に対する批判や、緊急事態宣言中にスナックに行ってた議員の批判が出るが、それらの議員も正当な選挙によって選出されており、下手をすると不祥事を起こしても、地元では禊が済んだとか言って、再選されている議員も数多くいる。そこには一般的な国民といわれる全国一般の考え方とは違い、地元の理屈が働くわけであり、例えば大空港を作ってくれた、高速道路を建設してくれた、そういった成果が地方ではことさら強調されることもあるのだろう。

それは間違ったことではなく、もちろん地方の活性化に役立つことは地方の論点、地方の価値観で語ることが大事であり、国政選挙についてもそういった設計になっている。

民主主義とは何なのか (文春新書)

先日アルゼンチンの保険相がコネを使ってワクチンを接種させていた事実が発覚して辞任したが、これは勿論ルールに従っていないケースであり批判されてしかるべきなのだが、これを見てて思うのは、「そういう国民性なんだろうな」、というちょっと乱暴ではあるが、そういう認識である。二世議員であっても、ちょっとコネを使って悪いことをしてしまいそうな人でも、国民がそれを良しとして選出している、これが事実であり、そこに至る投票行動を持つ人がいるのである。二世議員の弊害を語る人がいるが、二世議員の利点を感じている人がいるわけで、コネを使って怪しい行政を行う人がいる弊害もあるが、ぎりぎりの橋を渡ってでも強引に政策実行を行うという意味で、支持されるケースもあるわけである。

物事の二面性を意識することの重要性を再認識させられる。一方にとって良いことが、一方にとって悪いことにすぐ転換されてしまう。絶対的な真理というものは、こういった俗世の中には存在せず、言い過ぎかもしれないが多くのことで常にプラスに受け取る人とマイナスに受け取る人はいるはずであり、一人の論理で正しいと結論付けるのは危険をはらむ。以前にも述べたが、軍備増強、この政策一つとっても判断は非常に難しい。安全保障という観点、隣国との関係性という観点、国家予算という観点、様々な要素が絡むのであるから、なおさら善し悪しの判断が難しい。問題は難しい判断を迫られる問題に簡単な解釈を与えることではなく、難しい問題には様々な論点があり、人のよって優先順位が違うから論争になり、政策決定が難しいのである、という意識というか、認識を多くの人が持つことである。この認識を深めたうえで議論を行えば、意見の違う人を尊重しながら議論を行うことができるし、それによって納得感が得やすくなる。

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選挙というところに戻るが、特に政策論争のところで、一つの問題を簡単な解釈で善悪論にもっていこうとする向きが非常に多い。それが故に議員候補者の本質的な部分はよく見られず、聞こえの良い政策に簡単な解釈を付けて訴える人に票が集まりやすくなっている。これは何の問題なのかと考えると、結局は有権者の教育レベルの問題なのではないか、教育レベルが高ければ、簡単な解釈について疑問を持つことができるわけであり、もっと本質的なことについての優先順位が高まるわけであり、民主主義の根幹を支えるのは、教育である、そう結論付けられるわけである。

アメリカンドリーム

アメリカンドリーム

アメリカでは4大とも5大とも言われるプロスポーツが有名であり、フットボール、バスケ、野球、ホッケー、サッカーと色とりどりだ。それぞれに競技においてカレッジもすそ野が広く、カレッジフットボール、カレッジのバスケットボールは異常な盛り上がりがあり、お金もかなりの金額がスポンサー等々から動いている。プロスポーツのトップ選手の年俸は数十億円にもなり、広告露出も多く100億を稼ぐような選手もいる。ゴルフもトッププロが大金を稼ぐ競技であり、とにかくスポーツで成功を収めるというのは、アメリカンドリームの一つとして挙げられており、子供たちはそれを夢見て小さなころから生活する。

もちろん映画俳優、歌手、これらもアメリカンドリームを体現する存在であり、子供たちはこれらに対してもあこがれを抱き、自分もいつかはそういう存在になるということを夢見て生活するのである。

ファンタジーランド 【合本版】―狂気と幻想のアメリカ500年史

これは実は厳しい学歴社会の裏返しであるというように、筆者は思っている。アメリカほど学歴の差を覆すのは難しく、家庭環境が学歴に与える影響が大きい社会はないのではないだろうか。例えば、大学に一人通わせるのに数千万円かかるのはざらであり、有名大学であればもっと費用が掛かる。日本でも私大の学費は高いといわれるが、アメリカの場合、大学進学の費用を賄えるのは一定の富裕層であり、それ以外は学生ローンという方法もあるが、基本的には富裕層の子女が大学進学のほとんどを占める。有名大学を卒業すると就職先は数多あり、一定以上のレベルの収入を得ることができる。

大学に行かせられない層には、TVやメディアを使ってアメリカンドリームの存在をあおる。スポーツ選手の自宅紹介や、日常密着映像を見て、そういった層に対してアメリカンドリームは身近な存在であり、だれに対しても開かれているんだよ、そういったメッセージをTVを使って発信するのである。アメリカンドリームをつかんだ人間のストーリーなんかを紹介するが、親が貧しくて、努力して、みたいな誰にでも起こりうる点を強調するが、実際には天賦の才が導いた側面が強く、誰でもなれるかというと、その夢が破れた一般の人間のほうが圧倒的に多い。その夢破れた人に対しても「アメリカンドリームを本当に夢見れたではないか」というのが慰めになり、不満は爆発には至らない。これが貧困層を押さえつけてきたからくりの一つではないだろうか。ショービジネスを切り貼りして身近な存在と演出することは、富裕層が世代によって入れ替わらない社会を作っていることを、富裕層自身が免罪符としているのかもしれない。

民主主義とは

2020年8月5日の日記より

民主主義とは

そもそも民主主義とは民というのは民衆の意味であり、民衆が物事の中心となり意思決定をしていくという仕組みである。日本で言うと、議会の選挙があり、民衆の中から代議員という代表者が選出され、彼ら民衆の代表者である代議員が行政の長である総理大臣を選出する。行政の長は組閣権を持ち、行政府の長を選出するという仕組みになっており、立法、行政においては確実に民主主義と言う仕組みで実行されているのは間違いない。

民主主義とは何なのか (文春新書)

長谷川氏の著書によると、民主主義と言うのは、寡頭制政治のような形態、独裁制のような形態、これらがシステム不良を起こして循環していく中での統治の一形態である、という位置付けであった。寡頭制政治というのは少数ながら複数の識者や賢者と呼ばれる人間が、現状把握、将来の見通しを考えて意思決定を行っていくシステムである。日本で言うと江戸時代の老中のシステムは近いところがあるかもしれない。しかしながら、例えば飢饉、天災等の国家経営に関わる重大事故が発生した時には、しばしば少人数の老中の間でも意見の対立が起こる。これは現代の政治でも言える事だが対立における根本的な問題は、優先順位と時系列の見方の問題であり、これが対立軸になるのだが、双方の立場においては論理的に正しい主張となるので、結論が出ないと言う事がしばしばおこる。優先順位と言うのは、例えば財政規律と、困窮者の支援、どちらを優先するかという問題で、基本的にはどちらも正しいが、相対する方向性である。また、時間軸で言うと、20,30年後の巨大地震のために税金を投入してインフラ整備を行うか、2,3年後の需要急増のために物流インフラを充実させるのか、これらも予算配分において対立に陥りやすい。そういった対立状況に陥った時に決定を行うのは、先の江戸時代の話で言うと、大老か将軍と言う事になる。

こういった危機における政治では、問題点が続発する事になる事もあり、対立軸が多くでき、意思決定のために、政治が専制化しやすい。意思決定がなければ生活困窮によって死んでしまう人間が出てくるからである。そういう過程を経て独裁的な政治に移行していく。これは独裁者が「独裁をしたい」という意思を持って始まる政治と言うよりは、恐らく先に述べたように独裁的な意思決定が必要となるから生まれる統治機構なのだと思われる。独裁政治においては、迅速な意思決定により目先の問題を解決しやすくなり、短期的には非常に良好な政治運営を行える可能性がある。しかしながら、中長期的には権力の固定化により、富の固定化や、ねじ曲がった意思決定を監視する機構の弱体化、という問題が発生してくる。特に後者について、政治における問題と言うのは前述の通り相反する対立軸のどちらかを選択するという意思決定が必要であるが、独裁者の志向により偏った意思決定の数が増えていく可能性があり、統治されている国民すべてもしくは過半数が納得する意思決定を常に行えるわけではなく、国民側から独裁者に対する批判の目が増えてくる。特に、独裁政治に移行した直ぐ後は迅速な意思決定によって、目の前の問題を迅速に解決していた姿を目の当たりにするので、こういった国民からの批判が出てくるのはある意味では避けがたく、さらに時間的にも比較的早く不満は充満していくのであろう。フランスの市民革命なども良い例である。

そういう状況が起こると、国民の多くもしくは過半数が「自分たちで意思決定したほうが良いだろう」という考えを持ち出す。これがまさに市民革命であり近代的な民主主義の始まりである。我々現代を生きる人間にとっては、民主主義と言うのはごく当然の「正しい」価値観として捉えられているが、こういった流れの中での統治の一つのシステムである。一見すると、みんなの意思を確認して多数派の意思決定を受け入れるという平等な制度に見えるが、政治と言うものの本質を考えた時には非常に怪しいシステムでもある。

問題点は二つあり、一つ目は、意思決定を行う人間の知識、経験、能力の問題である。中国では昔、科挙と言う試験を行い優秀な人材を行政官として活用していたが、行政を行う人間と言うのは、知識、経験、能力が必要であり、誰でもできるわけではない。国の意思決定においても同じであり、国家100年の計を決める人間が、行政の仕組みや、過去の統治機構を知らずに、意思決定を行うことは出来ない。江戸幕府で言えば、老中や官僚となる武士たちは、小さなころから国民とは別のレベルの教育を受けて、意思決定を行う身分となって行った。しかし現代の民主主義と言うのはこれとは違い、日本で言えば年齢が20歳になれば、教育が有ろうとなかろうと意思決定に等しく参加する事が出来、これを集計して民意として、民意で意思決定を行うシステムなのである。多数決をしておけば、正しい意思決定が行えるという前提に立っているのかもしれないが、これがそもそも非常に怪しく、国家として正しい意思決定を出来ているのか、特に21世紀に入ってからの民主義国における意思決定については大いに疑問が出るところだろう。

もう一つの問題は、民衆というマスの人数が意思決定を行うには、投票、選挙と言う仕組みが不可欠であるが、そうなってくると扇動家というのが必ず出てくるという事である。これは現代の職業政治家と意味的にはほぼイコールであるが、知識、経験、能力が乏しい民衆を扇動して、自身の都合が良い意見に導こうとする人間の事である。これを行う人間は非常に巧みに行い、人心を惑わして、都合よく意思決定に導く。さらにこれがエスカレートしていくと扇動家同士の争いになり、ここで大衆迎合的な政治が生まれていく。今まさに米国では大衆迎合的な選挙戦の最中であるが、人気がある扇動家が権力を握る事になり、そういう人間は知識、経験、能力に乏しい人を引き付けるために、短期的な利益につながる政策を中心にこなすことになる。そうなると中期、長期的な政策がないがしろにされる事になり、恐らくは中期的に破たんの道に進まざるを得ないのだろう。

こうして新たな危機が生まれて、民主主義が否定され、また識者、賢者による統治に移行せざるを得ない状況になっていくのだろうが、次回は大衆迎合政治が生み出すジレンマについて、話を進めて行きたい。