民主主義の成立条件

アフガニスタンが再びタリバンによって掌握されたというニュースが多く報道されており、一部の市民は撤退する米軍の軍用機にしがみついて脱出を図り、無くなってしまったというニュースが報道されている。空港には無数の市民が集まり、民主主義社会から、以前の宗教的に厳しいどちらかと言えば伝統的な政府に戻る状態から、命を懸けて逃げようとしている。

映像としては衝撃的なものであり、それを見ながら思ったのは自分があの立場であったら同じ行動をしたのだろうか、ということだ。例えば今の知識、経験、判断力をもってすれば、軍用機にしがみついて逃げようとはしないが、「例えば自分があの立場だったら」という言葉のとらえ方次第、つまり例えば、自分がアフガニスタン人だったら、例えば自分がアフガニスタンの一般的な家庭に生まれた若者だったら、そういう仮定であれば、同じ行動をとっていなかったとは断言できず、同じ行動をとっていた可能性もゼロではないだろうな、と思うに至った次第だ。

そう考えてみると、自分とあの軍用機にしがみついた人々を分けたものは何なのかという思いに至る。一つは逃げようと思う国家体制であるかそうではないか。日本は一応米国に押し付けられたものではあるが、民主主義国家であり、それなりの自由を得られているという違いがある。もう一つは先ほどの「自分があの立場だったら」と考えたときに生まれた違いの根本であると思われる教育水準の違いがあるのかと思う。

自分個人が高い教育を受けたかどうかはさておき、日本国民が受けられる教育の平均レベルは非常に高い。識字率は言うまでもないが、高等教育を受ける割合なんかも高いレベルであり、これは先進国に総じて言えることだろう。民主主義の根幹は、国民が政策決定を行うということである。職業政治家に牛耳られている印象を持つ場合も多いが、結局は選挙の結果で政策決定がなされる仕組みであり、国民が政策決定を行うのが民主主義であるというのは大きな視点から言うと正しいはずである。

政策決定を行うには、知識、経験、思考能力、認知能力、倫理観、それらすべてのものが高いレベルで備わっている必要がある。様々な選択肢、多くの優先順位付け、そういったものから正しい選択が必要であり、それには一定程度の知識が必要となる。また、どうしても物事に優先順位をつける必要があり、政策にも優先順位を付けざるを得ないが、付けた優先順位によっては特定の人間が不当に利益を得やすくなる可能性があり、それの一線を越えないような倫理観も必要になる。これらを律するものは教育であり、国民すべてが一定の教育を受けていないと民主主義は成り立たない、こういうことが言えるのではないだろうか。

米国は占領した土地において民主主義を根付かせて、米国と同じ価値観の国を増やすということを大義名分に混乱地域の占領を行う。第二次大戦後の日本では成功した。同じことを韓国でも行い成功した。近年でいうとイラクやアフガニスタンはどうだろうか。米国内部では日本でうまくいったものが、他でも上手く行くはずなのになんでだろう、という疑問を持つ人もいると聞く。これはひとえに教育レベルの差ではないだろうか。もちろん、文化的に、宗教的に教育インフラを整えていなかったという事は言えるので、根本は文化的な背景の違いともいえるのだが、その中でも教育レベルの違いが民主主義の定着の違いとなって表れてくる可能性はあり、上述のように考察するとどうやら正しいのではないだろうか。

民主主義とは何なのか (文春新書)

NBA Final

米国のバスケットボールリーグであるNBAのFinalが佳境を迎えている。ヤニス・アデトクンポがいるMilwakeeがリードしており、このまま初のタイトルを取って欲しいという気持ちがある。破壊的な力を持っており、高さ、強さ、スピードの全てを兼ね備えたスーパースターである。

ただ、個人的なものなのかもしれないが昨年のような盛り上がりが出てこない。レブロン・ジェームスや、ステファン・カリーがいないのが、直接的な原因な感じがする。特にキングレブロンがいないことは、大きな落胆であり、Lakersがいないことを残念がるのはオールドファンなのであろうか。

当方はアメリカ人ではないが、レブロンのような生粋のアメリカ人が活躍して、米国が盛り上がる姿を見たいということなのかもしれない。アデトクンポはギリシャ人であり、もちろん活躍は素晴らしいし、選手としての才能は計り知れないものがあるのだが、Milwakeeの人でないと、なかなか感情移入ができないのかもしれない。

このことは野球にも言えることで、デレック・ジーターやケン・グリフィーJr、バリー・ボンズのような超がつくほどのスーパースターは米国人な気がする。もちろん、米国のスポーツにおいてという意味であり、サッカーやテニスでも同じような感覚が当てはまるわけではない。

何を言いたいのかというと、米国の4大スポーツは米国のスポーツであり、国際化が進んでいるとはいえ、米国民が盛り上がることでスターが作られていくわけであり、国民的な盛り上がりは必須条件になってくるのではないかということだ。国際化が進んでいることは競技としては有意義なことであるが、米国民は米国人のヒーローを望んでいるわけである。

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これは八村塁選手を見ても同様なことが言える。日本人はNBAで活躍する八村選手を見て興奮するが、米国人にとっては単に若手のスキルフルな選手であり、スターと呼べるほどにもなっていない。これは、自国民へのバイアスがあるということなのであるが、当然のことであり、4大スポーツにおいて米国人がスーパーヒーローになりがちなのも、当然のことなのである。

アデトクンポ選手がギリシャ人だから盛り上がらない、という言い方をすると、昨今では差別的にすら聞こえてしまう。しかしながら、誰しも少なからずアイデンティティを持っており、そのアイデンティティが自国民の活躍を願うわけであり、そこから言うと米国のスポーツリーグで米国人がメインキャストでなければ盛り上がらないというのは、当然である。逆に言うと過剰な差別退避意識というのは、アイデンティティを消し去る方向に繋がっていく。

こうやって見ていくと、オリンピックに反対する勢力というものの特徴が分かってくる。例えば東京五輪であれば、反対勢力は、日本という国に反対する勢力、日本という国が盛り上がること、日本という国にアイデンティティを持つ人が盛り上がることを反対する勢力なわけであり、これは戦後の歴史ではちょくちょく出てくる例の集団である。1950年代、1960年代に教育を受けた世代に多いわけであるが、この人たちが早く退場してくれないと、普通の国としての国の誇りとか、国民意識、そういったものを醸成する議論は開始されて行かないのだろう。それでも、そういった集団は年齢を重ねて勢力は衰えつつある。1980年代、1990年代は君が代問題とか、歴史教育問題とかうるさかったが、今はあまり聞かなくなってきている。

オリンピックを開催するにあたり、国とか国民とか、そういったものとの距離感を測るいい機会に感じた次第である。

管理職と子育て

女性の社会進出が特にこの10年間で進み、人々のライフスタイルについても多様性を認めようという社会的風潮がある。もちろん、それは良いことであり、筆者としても支持したい傾向ではある。多様なライフスタイルをとる人がいることで、長期的には例えば日本とか、地域とかで見たときのそのコミュニティーの柔軟性が増す結果になるし、環境変化に耐えやすくなる効果があるだろう。これは会社という組織にも言えることで、多様な人材を求めるというダイバーシティーの考え方はそこからきている。

ダイバーシティーを進めるというのは、多様な価値観を持つ人を会社の中に抱えることで、会社の柔軟性や革新性を高めようという試みである。これは人材面で性の多様性、人種の多様性、宗教の多様性、国籍の多様性という意味合いが強いが、ライフスタイルの多様性というのも一つの要素になってくるだろう。

一方で昔の人の格言もある。例えば、韓国であるコンサルタントと会食をしたときに、そのコンサルタントが「韓国では、結婚して係長、子供ができて課長、子供が中学に入って部長、子供が大学に入ったら役員、子供が就職できれば社長になれる」というような感じの格言があるということを話していた。

見ようによっては、早く子供を作って、子供をエスカレーターに乗せて、独立をさせるというメジャーではあるが一つの考え方を皆に押し付けるような考え方にも見える。ただ、これにはある意味での真理も含まれているのではとも思う次第である。この言葉をどこかで矛盾とか後進的だと感じてしまうところが、現在のダイバーシティー議論の正解からのずれを表しているのかもしれない。多様な考えは必要だが、普遍的なものもあるということだ。

世界を変えた14の密約

子育てをしているとこの言葉の意味するところが分かるような気がする。まず子供に対して、曲がりなりにも親は規範になろうとする。この時点で子供がいなかった時点と比べると意識が変わる。もちろん完璧な人間になるわけではないが、この意識の変化が人を変えるもので、規範意識が高まる。子供が大きくなってくると、子供の持つコミュニティーと親が持つコミュニティーの重なりの部分が徐々に減ってくる。話題や価値観が徐々にずれていくのである。もちろん共通の話題もあるが、日常的に顔を合わせる相手との価値観が徐々にずれていくことによって、ぶつかることが多くなってくる。これは思春期と呼ばれる時期の反抗期にも重なってくるのかもしれないが、そういう子供に対して根気強く、また相手との価値観の違いを認識しながら話をしていく必要に気づかされるわけである。

子供が高校、大学になってくると今度は金銭的な規範意識やマネージメントが重要になってくる。しかも、規範意識を高めて、価値観のずれとも戦いながらということになる。さらには、子供のキャリアというか将来についてともにビジョンを描くという中長期的な展望を持つことも重要になってくる。目先の学費だけではなく、将来にわたって幸福を得るために何が正しいチョイスなのかを、社会情勢や今後のトレンドを予測して決定を下していくわけである。

これはすべて子育ての話を書いているわけであるが、かなりの部分で管理職の仕事に通じてくる。管理職には規範意識が重要であり、内外問わず価値観がずれている相手との折衝が必要になる。さらに上級の管理職になってくると中長期のビジョンや、社会情勢や今後のトレンドに対する読みも重要になってくる。もちろん、係長にも長期のビジョンは必要であるが、相対的にこういう傾向があるのが所謂企業の管理職ではないだろうか。

バブル世代と言われる世代から子育てをしない人々が増えたのでないかというのは周りを見てて感じるところである。それこそ人権意識の高まり、家族より個人の価値観を優先する傾向、それらが始まった時代と重なり、リベラルな思想がそういう方向を選んだのだろう。また、子供を望んでも持てない人々がいることも事実であり、全ての人が子育てができるわけではないということも認識しなければならないのも認識している。ただ、子育てをしない人が少し増えたことが組織の健全性をもしかしたら弱めているのかもしれない。

そんな中、女性が管理職で活躍し始めたのは偶然ではないだろう。女性は今も今までも子育ての大部分を担っており、管理職的スキルがもともと高いのかもしれない。

もちろん、子育てをして管理職になるというのがすべてではないし、逆に規範意識を高めて、価値観のずれに対応するような八方美人的になると、起業家というのは生まれずらいのかもしれない。スティーブジョブスのような自分の信念を貫くタイプは企業で管理職としてやっていくのには向いていないかもしれないが、Appleのような企業を創業するのには向いている。どちらを目指すのかは個人の選択であるが、そういう反対の側面を持つことは注意が必要ではある。

しかしながら、管理職の業務と子育ては似ており、どちらが先かは人によるだろうが、子育ては管理職の、管理職は子育ての、良い練習となっているのだろうと思う次第。後輩を見てみても、子育てをすると人は変わっていく。責任感や規範意識が高まっていく。ちょっと古臭い考え方のようだが、昔からの格言に審理が埋まっていることも、これまた事実だろう。