人間とスポーツ

大谷選手や松山選手の活躍がアメリカでも日本でも注目を読んでいる。二人とも20代で世界一線で活躍している事が非常に喜ばしい。特に松山選手のマスターズ制覇は今週のホットトピックであったし、米国人の友達からも祝福のコメントがあった。

野球であったり、ゴルフ、テニス、卓球と球体のボールを何かで打つという競技、スポーツが一定程度の注目を集めているが、このボールを駆使するというのはどういう欲求からきてて競技スポーツとして発展し、どのような人間の欲求を満たすから感染スポーツとして発展したのだろうか。

例えば野球でいうと、生身の肉体を使ってピッチャーがバッターに対して「一番打ちづらいと思う球」を投げる。それをバッターはできるだけ遠くにバットを使って飛ばす、単純化するとこういった競技であると換言できる。投げるという行為は、やり投げにも通じるものがあり、狩りを行っていた人類は投げる行為が上手であれば、槍を上手に扱えたはずで、生存競争に有利と言える。

これは狩猟時代には非常に大事な能力であったはずであり、生存競争に強いことを示すための協議としてやり投げが発展したのだと思われるし、その流れを汲んで投げる行為を競うことは理解できる。狩猟がない季節でもそういった事を競い合って、勝者が勝ちに浸り、それを誇ることを競う、これはある種お祭りの起源の一つである可能性もあるし、そういって人間は余暇を楽しむ発想を広げていった。

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そういう発想でいうと、バットを使って球をできるだけ遠くに飛ばすというのも、武器を使って狩りをするのか、戦いの中で使う武器の扱いのうまさを競う、そういった発想が根底にあるのかもしれない。例えば、頭で思い描いた太刀筋と実際の肉体をリンクさせるには、鍛錬や筋力が必要であり、その能力を磨いた上に、武器使いの上達があり、そこを競うことは、これは狩猟時代よりも現代に近い時代の権力争いの中での話になるかもしれないが、生存競争に有利であり、現代風に言うと異性にもてるわけである。

究極的にはスポーツというのも、「もてる」かどうか、を競うものなのかもしれない。足の速さを競ったり、泳ぐ速さを競うことも、逃げ足の速さや、狩りでの優位性、これらを担保するものであり、現代では感じずらいことであるが、これらを鍛錬することで、生存確率を上げることに繋がる。そういった最高に生存確率を上げ切った競技人を見ることで我々は感動するし、その人々の生存能力の高さに興奮するのである。

生存競争というのは人類の根底に刻まれているファクターであり、すべてそこに結び付く。食欲、性欲、睡眠欲、と言われるものもそうであるが、我々が何気なく見ているスポーツであったり、その祭典であるオリンピックにしても、この生存競争の疑似競争という側面があり、人類の根底にある興味がひきつけられるのではないか、ということを思う次第である。

金融緩和のその先に

金融緩和、財政出動、米国はなりふり構わず、自国経済の維持、拡大、自国民の救済優先の策を打っている。これは当然と言えば当然であるが、基軸通貨のドルが世界に与える影響というのは小さくない。ドルの規律が壊れると、本日の日経新聞のオピニオンではないが、雪崩が発生しかねない。

金融緩和によるインフレリスク、これは以前にも書いたが新興国、発展途上国で顕著なリスクとなる。そういう意味で、米国政府、FRBが自国民の救済を強調しすぎると、歪が通貨が脆弱な国に偏ってしまう。それ自体は正当化されるものかもしれないが、正当化されるがゆえに、弱い国は指をくわえてみているのみ、そうなってしまう。

米国の長期金利が上がり、若干落ち着きを取り戻したが、今後もじわじわと上がっていくだろう。それにつれて起こるのは、脆弱な通貨を持つ国からの資金の退避の行動である。これは金利差が生み出す自然な流れであり、新興国通貨は下がらざるを得ない。避けるためには、自国の金利を上げるしかないが、このコロナで縮んだ経済の中、金利を上げると経済を冷やすリスクが生じてしまう。

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金利を上げないとインフレ加速、金利を上げると通貨価値は維持できるが自国経済活動は下火になる、通貨が脆弱な国にとって試練が訪れるのは、もはや避けられない未来となりつつある。これの引き金になりかねないのは、これもやはり米国でのリスクテイクが許容限度を超える瞬間だろう。

許容限度は状況次第で上下に変動するとは思うが、今回のアルケゴス騒動のように、だれもが想定していなかった金融システム上のリスクが明るみになったときに、一時的に許容限度が下がる、そういった時に耐え切れなくなる筋が出てくると、全体的にリスクテイクできないスパイラルが始まってしまい、新興国からの資金退避も始まる。資金退避は次の資金退避を引き起こすようにドミノ的に進んでしまうので、誰かが意図的に政策で止めないと、90年代末のアジア通貨危機のように行くところまで行ってしまう。

止められるのはIMFなのかOECDなのかUNなのか、米国なのか分からないが、今の状況だと中国なのかもしれない。比較的ドル高による自国通貨安にはつながりづらい環境になりつつあるし、中国経済はある意味では政府主導で盤石である。そういった環境下、ある一定まで新興国に打撃を与えてから、救済に走ることで支配を強める。そこから新たな冷戦と呼ばれる世界に入っていくのかもしれない。

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世界は繋がっており、超大国の米国がコロナで落ち込んだ経済を救済するために、自国民のことだけを考えた政策に走り出した。この歪みが脆弱な国に負の影響を与えて、超大国に敵対する国が覇権を広げるチャンスを得る。No.2の国がさらに力を増すことにNo.1は警戒するわけで、そこに冷戦、もしくは局地的な物理的な衝突、これらが発生してしまうのかもしれない。

災害と税金

日経新聞によると2011年の東日本大震災以降、復興のために10年間で約38兆円が税金から使われ、10年間でインフラ整備、防災設備の整備、これらがかなり進んだということだ。もちろん、あの甚大な被害を見ると、この投資は必要なことであり、38兆円が費やされたことに対しても異論はないし、毎年復興税を支払っていることも止むを得ないことではあると認識している。

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38兆円というと計算を簡単にするためににほんのじんこうを1億人と考えると、一人当たり38万円ということになる。4人家族だと152万円ということになり、年間15万円、月にすると1万2千円強の負担になる。これを多いととるか少ないととるかは個人の考え方次第ではあるが、日本という地震を含む自然災害が多い国土に住む以上、どこで起こるかわからないという意味では、皆で平等に負担するのが最適ではある。

翻ってコロナ対策費用である。米国では200兆円の新たな予算に議会の承認が得られたということで一人当たり$1400の支給がなされるようだ。アメリカの人口を4億人とすると$5600億ドルであり約60兆円はすぐに国民に還元されるという計算になる。$1400の相対的な価値は貧困層の方に大きく、機動的な対応で困っている人に助けが行くという観点から、この政策は妥当だと思う。

しかしながら、残りの140兆円はインフラ整備や環境関連投資、いわゆるグリーンニューディールに向かっていくことになり、ある程度一定の産業や企業に恩恵が行くことになる。これは自由主義を国是とするアメリカにとって恐るべき変化と言えるだろう。民間の活力を失わせるリスクと、アメリカの最大の強みで合った企業の新陳代謝を鈍らせることにも繋がる。

これはイノベーションと国家管理という関係性で考えると見えてくるが、経済の成長期においては官僚主導で方向性を決めて、ある意味国家が管理して成長を則す、これは日本の高度経済成長でもそうだったし、中国の成長期も、東南アジア諸国の成長期でも見られたことである。一方で資本主義が成熟している特に米国では国家の経済、民間セクターへの関与は最小限にしてきたのが歴史だととらえているし、それがアメリカ人のある意味誇りであり、だからこそイノベーションが次々と生まれる社会が生み出されたのだと思う。西部開拓時代のイノベーティブな発想は、国家の管理ではなくゴールドラッシュを求めた人々の夢が生み出していたのである。

だからこそ、ゴールドラッシュ以来の文化の大転換とまではいわないし、もちろん大恐慌の後のニューディール政策のような局面もあったわけで、アメリカが国家関与の経済を持った経験がないわけではないが、この予算規模は非常に大きい。国家の関与というのは一見公平なようで、小さなひずみが大きな不公平感の実感につながる危険がある。国家が関与していないときは小さなひずみはある意味仕方がないととらえられるが、国家が関与してもひずみが残る場合国民の不満につながる。その不満が限度を超えた社会が共産主義だったはずであり、アメリカが一番嫌っていた政治体制である。平等を煽れば煽るほど、国家権力は綱渡りでの経済への関与をせざるを得ず、失業率が下がりきっていないアメリカ社会では、今後の火種は燻ぶったままとなるだろう。