空気感とポリティカルコレクトネス

騒いだもの勝ちという哲学というか文化は、例えばインドやインドネシアなどの国でよくみられるし、旧共産圏の国でも見られるというのが、当方の印象であった。嫌な事があれば、騒ぎ立てると自分の思い通りに行く可能性があるという感じで、とりあえず言いたい事、自分の意見を騒ぎ立てる、という旧来の日本の感覚だと少し品が無く感じるスタンスだが、それは国による文化の違いであったり、政治体制の違いであったり、そういうものによる違いであるから、良い悪いの話ではない。ただ、どちらかというと少数の立場の人の意見が聞き入れられづらいような国、すなわち政治的に民主的な活動が抑圧されていた地域で多く見られる現象のように感じる。少数者は騒がないと意見を聞いてももらえなかったという歴史的なものが影響している可能性が高い。

世界を変えた14の密約

昨今、日本もそういった状況になりつつあるように感じる。民主主義が正常に機能していないからなのか、SNSの普及なのか分からないところもあるが、とにかく、「それって何人が言ってる?」というような意見が、マスコミに取り上げられ、さらには世論を形成していく事すらある。少数意見が重要であることは、政治の場でも、企業の実業の場でも当然であるが、少数意見で空気を作り出して、多数派に築き上げていってしまう、という手法が非常に怖い。例えば、コロナウイルスの感染拡大を予防するための行動について、世の中には異常に警戒する人、そうでもない人、様々な意見があり、健康状態や年齢によっても違うだろう。

そんな中、異常に警戒する人の意見が世論の空気感を作り上げてしまっており、経済活動を少しでも動かすというような異論は受け付けない空気がある。経済は死んだとしても、最高の完全無欠の感染対策をする事がポリティカルコレクトネスであるかのようにである。高齢者がコロナウイルスによって搬送先が見つからず無くなったというニュースが異常に強調されて報道される。もちろん人の命は大事であるが、政策にはバランスが必要である。国会議論でも「人の命を何だと思ってるんですか?」という野党の質問で議論が止まってしまう場面を報道で見た。この分かりやすい偽善的な言葉を言ってしまうと、議論は終わるし、バランスの取れた政策を取れなくなる。

相手に攻め込まれそうになってるのに、軍備増強をしようとした人に「武器は人を殺すためのものですよ。分かってるんですか?」と止めようとしている革新政党系の意見に近い感じがする。そんなことわかってる。人の命も大事である。ただ、個人の綺麗事だけで運営できないのが国家であり、国民の命を守るために武器が必要であり、国民経済という国民全体にとっての生命線を活かすためには、言い方は悪いが一人の命との比較は慎重に行うべきである。もちろん、助かる命を助けたい、これは当たり前のことであるが、日本国内で見ても平時でも年間に100万人以上が無くなっている。政府というか行政機構はこの100万人について、もっと言えば国民1億人についての政策運営をしなければならず、一人の死亡事案を持ってきて議論する事はナンセンスというか、規模感が違うので噛み合うはずがない。野党の質問で「人が一人死んでいるんですよ」というのがあったが、それはこういう感染症対策の議論で言うべきではない。

偽善的な空気感というのはあっさりと蔓延してしまう。反戦運動というのも大きなうねりになってしまう時があり、注意が必要だ。幸いこの偽善的な空気感が蔓延しているのが高齢者であるというのが日本の救いであり、若者にこういう空気感が火が付くと、デモや実際の行動に移行してしまうので怖いというのは歴史が証明している。ただ、高齢者のサイレントマジョリティー的なマスコミを通した空気づくりは、政策決定にも影響を与えており、異常に感染対策を要求する一部の高齢者が作り出した空気感に、政府も抵抗できなくなっている。緊急事態宣言にNoと言おうものなら、袋叩きになるだろう。高齢者の身勝手で偽善的な思想が、その高齢者の大好きなテレビを通じて空気感の醸成に繋がり、高齢者の支持が無いと職を失う政治家がNoと言えない空気になる、これが現代の政治である。

緊急事態宣言の効果

2021年2月3日の日記より

緊急事態宣言が延長されたわけであるが、緊急事態宣言の効果について、分析している例があまり報道されないのでよくわからない。Go toキャンペーンにより感染が拡大した可能性があるという例の京大の西浦教授の解析結果が瞬間的に報道されたが、あれも教授自身は色々な可能性を伝えたかったのに、一部マスコミが捻じ曲げてGo toキャンペーンを悪者にして、政府批判に繋げたかった意思が先に立ってしまって報道がねじ曲がり、恐らく京大の方からストップがかかったのではないだろうか。

感染症の日本史 (文春新書)

マスコミは自分の論調に都合がよくなければ報道しない。事実に基づいているかどうかは関係なく、視聴率が取れるかどうか、革新系のメディアは政権批判につながるかどうか、これが優先順位が高い。視聴率が取れるかどうかという点は営利企業であるから当然であり、普通の感覚で言うとやむを得ないだろうなと思うのだが、ここにも世代の断絶があり、主に50代以上の人々にとっては、「テレビが言ってるんだから」とテレビは正しい事を報道するものという先入観が強い。

これは情報ソースがテレビしかない時代を過ごしたから検証の使用が無かったからそうなってしまったのかと思う。戦時中の新聞報道がそうであったように、当時の国民は新聞報道が得られる情報の全てであり、新聞が報道しない事は起こっていないという錯覚になってしまった。そういった限られた情報で作られた世論に乗って、というか世論に酔って、軍部が強気強気の政策を進める事になるのである。

その子供世代である現在の50代以上のテレビ世代には、戦時中の新聞報道に熱狂する国民の感覚がいまいち理解できなかったのではないかと思うが、今日起きている事はまさにそういう状況で、テレビ世代がテレビを妄信するのをネット世代は理解が出来ない。テレビは情報発信の一方法でしかなく、他にも情報はいくつも得られるし、日本のテレビだけではなく、世界にもテレビがあると言う事に、ネット世代は気づいているから、日本のテレビが言っている事に拒否感があり、信用していないところがある。一方でテレビ世代はいまだに、テレビが言ってるから正しいだろうという感覚であり、これはまさに戦時中の翼賛会的で、連戦連勝報道に酔っていた国民の陶酔と同じである。

こういった事が現代のテレビとそれを取り巻く世論で起きている。65歳以上が国民の三割で、50代以上というくくりにすれば恐らく半数近く、実際に投票行動を起こす人の割合で言ったら若者は投票率が低いので軽く半数を超える世代が、いまだにテレビ世代なのである。

テレビなんか見ないという若者が多くなっているが、世論はテレビ世代が形成する。その世代をコントロールしているのがテレビというマスメディアであり、とにかくコロナウイルスについても煽り立てる。政府はその煽られた人々の意見に追随していないと次の選挙で勝てないので、マスコミの煽りに乗ってしまう。そうやって緊急事態宣言の効果についての化学的な検証は碌に公表されず、空気感だけで延長が決まってしまう。緊急事態宣言の効果は勿論あったと思うが、どの程度あるのか、これを検証しないといけない。こういった科学的な、統計学的な議論がなされるべきであり、また、ゼロかイチかという議論に矮小化する向きもあるが、本来、感染者の増減は、人の往来、気候、感染防止策、の複合要因であり、どれかが効果があり、どれかが効果が無いとかそんな単純な議論ではない。そういった議論に恐らくマスコミが付いていけないのだろう。マスコミはそんな議論をくどくど説明しても、国民は理解できないし、視聴率が取れないというかもしれないが、国民をバカにしてはいけないと思う。それは言い訳であり、恐らくマスコミに科学的なリテラシーがある人が少ないのだろう。テレビのコメンテーターは歯切れの良さだけを気にして、「要は」とか「つまり」とか分かったようにまとめたがる。

専門家の方に向けて「要はGo toキャンペーンは愚策だったという事ですよね?」とか聞く。専門家は「色々評価はあると思うが」とか「結果として拡大している事実を見ると」とか前置きや仮定を並べて言おうとするのだけど、言った後に“歯切れのいいコメンテーター”が「結果としては感染拡大を招いたわけで、愚策だったと思います」的な薄っぺらい議論にまとめてしまう。テレビというメディアと、それを信仰するテレビ世代の関係性には、戦時中の新聞報道とそれに酔って戦争を推進する世論に染まっていた国民の図式と変わっていない現実を突き付けてくる。

スーパーボール/ハーフタイムショー

2021年2月9日の日記より

米国時間の2月7日のスーパーボールが開催された。コロナの感染拡大が止まらない中、あれだけのイベントを成し遂げてしまう事に、改めて感服する。アメリカ人という人種は、もちろん賛否両論はあったのだろうが、ああやってイベント事を成功させてしまう。オリンピックと違って一試合だけだからと言う事を言う人がいるかもしれないが、それでもあれだけ大掛かりなイベントを開催するとなると、前後の準備、関係者の数、相当な人数が投入されており、感染対策を実施しながら開催できると言う事を示していたと感じた。特にプレイヤーはもはや飛沫がどうのこうの言う感じではなく、通常通りのプレーをしていた。重症化の懸念がある人のプロファイルは既になされており、アスリートが重症化するという事態はほとんど聞いたことが無く、そういう観点での情報が積みあがっているから開催に踏み切っているのだろう。NBAもバブルでプレーオフを開催し、感染者は出ていたが重傷者が出るような雰囲気は無く、報道も、事実もないのだろう。世代や既往症によってリスクが大きく違うと言う事を認識した上での対策が必要であり、高齢者の常識を全員に当てはめるのは危険である。

感染症の日本史 (文春新書)

一方で、ハーフタイムショーは素晴らしかったと言えるだろう。マイケルジャクソンのWe are the worldではないが、しっとりと聞かせる感じが、今年の状況に非常にマッチしていた。バカ騒ぎをするわけではなく、コンサートや芸術鑑賞にも行きづらい昨今の状況の中、芸術性というものは何だったのか、あの歌声を聞いていると我々人類の文化的な生活というものは文化や芸術と言ったものに彩られてこその生活なのだと言う事に気づかされる。コロナで外出制限がある中、とりあえず仕事だけは回そうという形で在宅勤務を続けている人が多いと思う。在宅勤務でなくてもそうだが、余暇というか人生を楽しむ行動を減らさざるを得ない状況になっているのは、一般的な認識となっているだろう。

その生活が一年ほど続いた中でのスーパーボールのハーフタイムショーであらためて気づかされた。コンサート、映画、寄席、歌舞伎、絵画鑑賞、動物園、水族館、色々なイベントや芸術の鑑賞手段があるが、そういったものを出来るだけ自粛してきた一年間だった。さらに加えて、文化や芸術というものは日常生活から生み出されるが、それには異文化の接点が必要であり、異文化というのは国の違いでもあるが、例えば、家庭の違い、会社の違い、日本国内の出身地域の違いでもある。そういったものがぶつかり合う場面が減っている事によって、芸術家の芸術活動だけでなく、一般市民の芸術活動というか文化活動すら減少しているのである。これは岡本太郎ではないが、ぶつかり合いに芸術があると言う事を改めて気づかさせてくれるし、それでこそ人間らしい生活なのだろうと思う訳である。

加えてハーフタイムショーについていうと、完全にマスクを装着した、しかも医療用のマスクに見えるようなマスクである、ダンサーがパフォーマンスをするという行為は、賛否両論あるのかもしれないが、当方は好意的に捉えた。マスクをしていてもパフォーマンスは出来るし、新たな表現も出来る、さらには興奮や感動を与える事も出来る、そういった事を主張しているように感じられた。マスクをルール化した政権への皮肉という捉え方もあるのかもしれないが、この時期にあえてマスクをしたダンサーで揃えてしまう所に、アメリカ人のエッジを駆け抜けようとする意志の強さというか、芸術性とはそこから生まれてくるんだろう、という挑戦的なメッセージが感じられた。非常に良いショーだったと思っている。