騒いだもの勝ちという哲学というか文化は、例えばインドやインドネシアなどの国でよくみられるし、旧共産圏の国でも見られるというのが、当方の印象であった。嫌な事があれば、騒ぎ立てると自分の思い通りに行く可能性があるという感じで、とりあえず言いたい事、自分の意見を騒ぎ立てる、という旧来の日本の感覚だと少し品が無く感じるスタンスだが、それは国による文化の違いであったり、政治体制の違いであったり、そういうものによる違いであるから、良い悪いの話ではない。ただ、どちらかというと少数の立場の人の意見が聞き入れられづらいような国、すなわち政治的に民主的な活動が抑圧されていた地域で多く見られる現象のように感じる。少数者は騒がないと意見を聞いてももらえなかったという歴史的なものが影響している可能性が高い。
昨今、日本もそういった状況になりつつあるように感じる。民主主義が正常に機能していないからなのか、SNSの普及なのか分からないところもあるが、とにかく、「それって何人が言ってる?」というような意見が、マスコミに取り上げられ、さらには世論を形成していく事すらある。少数意見が重要であることは、政治の場でも、企業の実業の場でも当然であるが、少数意見で空気を作り出して、多数派に築き上げていってしまう、という手法が非常に怖い。例えば、コロナウイルスの感染拡大を予防するための行動について、世の中には異常に警戒する人、そうでもない人、様々な意見があり、健康状態や年齢によっても違うだろう。
そんな中、異常に警戒する人の意見が世論の空気感を作り上げてしまっており、経済活動を少しでも動かすというような異論は受け付けない空気がある。経済は死んだとしても、最高の完全無欠の感染対策をする事がポリティカルコレクトネスであるかのようにである。高齢者がコロナウイルスによって搬送先が見つからず無くなったというニュースが異常に強調されて報道される。もちろん人の命は大事であるが、政策にはバランスが必要である。国会議論でも「人の命を何だと思ってるんですか?」という野党の質問で議論が止まってしまう場面を報道で見た。この分かりやすい偽善的な言葉を言ってしまうと、議論は終わるし、バランスの取れた政策を取れなくなる。
相手に攻め込まれそうになってるのに、軍備増強をしようとした人に「武器は人を殺すためのものですよ。分かってるんですか?」と止めようとしている革新政党系の意見に近い感じがする。そんなことわかってる。人の命も大事である。ただ、個人の綺麗事だけで運営できないのが国家であり、国民の命を守るために武器が必要であり、国民経済という国民全体にとっての生命線を活かすためには、言い方は悪いが一人の命との比較は慎重に行うべきである。もちろん、助かる命を助けたい、これは当たり前のことであるが、日本国内で見ても平時でも年間に100万人以上が無くなっている。政府というか行政機構はこの100万人について、もっと言えば国民1億人についての政策運営をしなければならず、一人の死亡事案を持ってきて議論する事はナンセンスというか、規模感が違うので噛み合うはずがない。野党の質問で「人が一人死んでいるんですよ」というのがあったが、それはこういう感染症対策の議論で言うべきではない。
偽善的な空気感というのはあっさりと蔓延してしまう。反戦運動というのも大きなうねりになってしまう時があり、注意が必要だ。幸いこの偽善的な空気感が蔓延しているのが高齢者であるというのが日本の救いであり、若者にこういう空気感が火が付くと、デモや実際の行動に移行してしまうので怖いというのは歴史が証明している。ただ、高齢者のサイレントマジョリティー的なマスコミを通した空気づくりは、政策決定にも影響を与えており、異常に感染対策を要求する一部の高齢者が作り出した空気感に、政府も抵抗できなくなっている。緊急事態宣言にNoと言おうものなら、袋叩きになるだろう。高齢者の身勝手で偽善的な思想が、その高齢者の大好きなテレビを通じて空気感の醸成に繋がり、高齢者の支持が無いと職を失う政治家がNoと言えない空気になる、これが現代の政治である。