行動規範と感染症対策

欧米での新型コロナウィルスの拡大具合と東アジア地域である中国、韓国、台湾、日本での拡大具合には大きな差がある様に感じられる。もちろん、人種による遺伝子の違い、免疫の違い、体質の違いのようなものも影響しているのかもしれないが、興味深い要素に集団行動が得意かどうか、という面がある。人間は危機に瀕した時に集団で危機を乗り越える事がある。その為には集団の統制というものが重要であり、特に軍隊などではヒエラルキーによる指揮命令系統の徹底、集団での統制を取れた行動が、行動規範となっており、これはこと軍隊に関しては世界共通の価値観であろう。文化的背景が違う中でも軍隊という集団の中ではこういった行動規範が徹底されるのは、普段から統制を徹底していれば危機の時に統制のとれた行動につながるからであり、軍隊が直面する危機というのは統制が取れた行動が勝敗を分けるカギになる。

だからと言って日常生活、特に今日の経済活動において統制が取れた行動が全ての勝者に結びつくわけでは無いというのが面白いところであり、現在のようなVUCAの時代と言われ、過去の成功体験が現代に適応しずらい潮目の時には統制が取れていない、自由な組織の自由な意見、自由な個人のヒトとは違った発想が勝利を導く。GAFAはまさにそういった例の代表でありTESLAも該当するであろう。TESLAがカリフォルニアにあの工場を作った時はみんな鼻で笑っていた。要は統制が取れた行動が良いか悪いか、というのはその組織や集団が置かれた立場次第である。しかしながら、感染症の拡大阻止という観点においては、集団で外出を自粛したり、マスクを付けたり、皆が同じレベルの予防策を講じられることがもしかすると大きな違いになっているのかもしれないし、今回の感染拡大具合において、見逃されがちな大きなファクターかもしれない。

そもそも古来の宗教儀式なども例えばお祭りなんかは、皆が同じ行動をとる事で、何かの成果を得るための行動になっていたり、共同体の所属意識を高める事で他人への迷惑が掛からないように自制を行う、そういった一面もあるのかもしれず、そういった宗教儀式も行動の統制という意味で使われていた可能性がある。また、それらがどういう成果を求めたかというと、古来においては、脅威というのは凶作と自然災害、疫病が大きな問題であり、その中での疫病への対処方法として宗教儀式も発展してきた可能性がある。

冒頭の東アジアと欧米の比較という意味では、個人主義と、その反対という対立項に当てはめると、感染症拡大具合も見えてくるのかもしれない。その対比ではないが、そういう意味では東アジアの国はどちらかというとイノベーション的ではなく、先頭集団について二番手として生きていく、経済においてもそういった位置取りになってしまうのかもしれない。日本、韓国、中国、台湾の国々を見ているとそう思わざるを得ない。感染拡大を止める集団統制と、経済発展を則すイノベーションを生み出す個人主義、どちらがいいのかは分からないが、国民性、文化的背景からそういった区別になるのかもしれない。

結論は早いほうが良いのか

2021年1月20日の日記より

俗にいう第三波の感染拡大のただなかにいる状況に置かれているが、世論なのか、少数の心配性の意見なのか分からないが、悲観論が目立つ。1か月後には東京の感染者が8000人になるとか、前回20年4月の緊急事態宣言の時も同じような報道がなされていたが、今回も誰も分からない事を、さも分かったように、さらにどこかの大学教授とかの権威を活用しながら、うまいこと自分たちの責任にはならないように語尾を調整しながら、報道を垂れ流している。

20年4,5月の時点で二次関数的な感染者の伸びの予想を報道していたテレビもあったが、あれは何だったのだろうかという気持ちにさせられる。ただ、報道をしていたその瞬間においては「という予測も」とか「最悪の場合」とか一応予防線は張りながら報道していたようだが、情報の拡散力とは恐ろしいもので、一部が切り取られて拡散していってしまう。

これは今の世の中では避けられない宿命であり、視覚的に何かを報道するようなときは本当に気を付けなければならないと思う。ただ、報道する側にそこの意識が欠けているというか、結果的に嘘情報を報道してしまっていたり、世論を間違った方向にミスリードしても責任を取るそぶりはみじんもなく、当事者ではなくあくまでも外野でヤジを飛ばしているというスタンスを貫いている。当事者感がないヤジというのは本来共感を呼ばないもので、嫌悪の対象にすらなる。それが回り回ってテレビ離れを誘発していると思うのだが、業界はどのように感じているのか、興味深いところでもある。

半年前にもよく聞いた話であるが、オリンピックなんか開催している場合ではないという論調がまた強まってきた。組織委員会や、与党政治家のオリンピック開催準備に向けた発言が出るたびに一定程度が、開催は無理だ、開催している場合ではない、そういった事を言っているように報道がなされている。この議論にもなっていないようなしょうもないやり取りを見ているとげんなりするが、組織委員会にしても昨年は延期を決断したように、状況が見通せなかったり、世界的に感染が拡大している事が明らかな時に、何万人もの外国人の受け入れをしようとは思っていないはずであり、もちろんワクチンによる感染拡大の落ち着きがなされればという条件で、準備を進めているだけの話である。

オリンピック程の大イベントについては、相当の準備が必要であるし、開催出来る事になった場合に備えて準備が必要なのである。もちろん、組織委員会としては「開催できるか不透明ながら」という部分は明言しづらい。そうしてしまうと準備が進みづらくなるからであり、そういう行間的なものを読み取らず、森組織委員長が前向きな発言をしただけで、ネットは罵詈雑言に包まれる。とにかく目の前の事柄に反応する事がネットの言論であり、3か月先、半年先のケーススタディですらほぼ許されない。これはこれでいいのだが、これをテレビとか新聞のようなマスメディアが、さも世論のように取り上げて、それを情報ソースとしている人たちの頭の中を洗脳しようとする。結果としてオリンピック開催準備をするなんて行為は馬鹿がやる事だ、みたいな風潮が出来上がってくる。ネットの言論はそれはそれでいいのだが、世論という形状に仕立て上げてしまう、テレビという旧世代の情報発信装置に問題があるのかもしれない。特に国民の30%とも言われる高齢者は世代的にもテレビの情報を信じてしまう所があり、民主的な政策決定にテレビが与える影響というのはいまだに大きいのである。

日本の生活様式

日本語には、「水に流す」という言葉があるが、禊という意味でも手を洗ったり、水で清めたりする文化的習慣が多いように思う。滝行にしても水で悪いものを流すという意味合いもあるだろうし、転じて、よく手を洗う文化と言える。

感染症の日本史 (文春新書)

イスラムの世界も、とにかく水で顔、手、足を洗う。これらは恐らく、始まった当初は疫病対策だったのだろう。手洗いをする事によって、統計学も医学も、免疫学も発展していない時代から、有意に感染が減少する事が分かっていたのである。それに対して、アメリカに住んでいた経験から言うと、アメリカ人は外出から帰っても手を洗わない。家の中も、外もあまり感覚的に違いが無く、例えば家の中でも靴を履くという文化もそういう事だろう。これは疫病よりも恐らく大事な文化的な背景がありそうなっているのだろうが、外と中という概念があまりない。結果としてそれが今回の新型コロナウイルスの蔓延にもつながっている可能性がある。東アジア人は遺伝子的になのか免疫的になのか、欧米人に比べて今回のウイルスに感染しづらいのか、重症化しづらいのか分からないが、明らかに感染拡大の速度が違う。遺伝的な影響もあるのかもしれないが、そこまで大きな議論が展開されていないが恐らくは生活習慣が大きく影響していると思う。これは先にも述べたが、そういった疫病を退散させるための習慣が数多く残っている事からも分かる通り、生活習慣が疫病の拡大に影響を与えてきたのは明らかであり、日本のように文化的に単一に近い文化が2000年近く継承されている地域では、そのような習慣や祭祀を確認できるのである。

日本では床の上に、皿にのっけた食べ物を置く事も避けるし、例えば帽子を床に置く事すらよくない事とされる。筆者などは床と食べ物の間に皿があれば関係ないだろうから、無視していた習慣であったが、親からよく言われたのを最近思い出す。これは細菌学的に正しいのか分からないが、やはり習慣として「外」という概念に近い「足」に常に接している「床」と、食べ物をなるべく遠いところに置こうという、習慣があり、食べ物の清浄度に直接影響しないのかもしれないがそういった意識を持つ事、すなわち、「外」は徹底して汚いもの、不浄なもの、という意識を持っていたことがこんにちの文化に繋がっているのかもしれない。

そういう意味では穢れの思想のように過剰に血を避ける文化が日本にはあるが、これも既に現代的な意味では本質的ではないが、やはり感染症のように、獣から人への病の伝播を出来るだけ避けるために、文化として成立していったのかもしれない。例えばそういう本質的な意味でも文化の形成が4世紀に起きたとしても、日本は言語の面、民族の面、統治の面、それらで見ても少なくとも1700年前から同じものが支配しており、そういった歴史的な慣習が継続しやすい。感染症というのは世界各地で発生しているだろうが、それを避けるための習慣が残りやすかったのは、日本のように継続的な文化がある国なのかもしれない。もちろん、そういった文化があるから感染症を押さえられるわけではないが、どこかに文化的な面や、民族の記憶的な部分で、感染拡大の速度を少し抑える事に繋がっているのかもしれない。 新規のウイルスというのは、恐らく人口の過剰や、都市への過剰集中、移民の急増、そういったもので引き起こされるのだと思う。地球というエコシステムで言う所の人口を自動調整する機能であろう。居住可能面積が比較的小さく、島国であるという特徴を持つ我が国は、歴史的にそういった場面に出くわすことが比較的多かったことが考えられ、そういった意味で感染症との対峙の回数は歴史を見ても多かったのかもしれない。