高齢社会

死亡者数の減少をどう読むのか

昨日のニュース記事に2020年1-9月の死亡者数が減少したという記事があった。9年ぶりの水準ということで、コロナウィルス感染拡大により、他の感染症の拡大を抑えることができたという何とも皮肉な結果である。外出が減って事故が減ったことによる影響もあるようで、コロナウイルスの感染拡大にも良い面があったともいえる。

一方で出生数は減少が続いているという記事もある。2019年は令和婚があった影響で一時的に増加するかもしれないが、全体の傾向としては出生数は減っている。

死亡者数が減ると平均寿命が上がるはずであり、高齢者比率の増加につながり、医療費の増加につながる。この点はよく議論されなければならない点であり、社会保障費の増加が止まらないのは、我が国の大きな論点の一つである。今回一人当たり10万円の給付金に10兆円が使われ、雇用調整金やその他のコロナ対策として異常な量の財政投入がなされている。もちろん、企業の業績の下支えとなり、20年度の税収増加に効果があったが数十兆円を賄えるものではない。2011年の東日本大震災でもかなりの復興支援がなされたが、これは確か我々が追加で所得税として25年間2.1%払い続けなければならない復興税として家計、国民に転嫁されている。もちろん、税金の使い方として復興支援はやむを得ないところがあり、日本という国に住んでいる日本国民である以上、福島を中心に被災した人たちのために、お金を持ち寄って支援しようということなので、復興税はやむを得ないところがある。しかしながら、今回のコロナショックを和らげるために使われた給付金はどうなんだろうか。家電や一部の業界へのお小遣いになっていないだろうか。国民が等しく痛みを受けたわけであり、そんな中強制的に借金を背負わされたような感覚にもなる。

税金はあくまで我々国民が支払った税金が源泉であり、当然のことながら財政政策で使われた資金の供給源は我々の稼ぎであったり資産である。例えば21年度は一人当たり1000万円の給付金を支払うという財政政策が決定されたとする。これを40年かけて返済するということになると誰が得をするのか考えてみる。世代でいうと、高齢者世代ということになるだろう。例えば平均寿命が80歳とすると、現在70歳の人は10年だけ返済すればいいということになる。一方で現在10歳の人は50歳まで満額返済する必要がある。これが将来世代への借金の押し付けといわれる所以であり、過剰な財政政策は若い世代ほどしわ寄せを受けることになる。高齢者寄りの政策決定がなされる人口構成の日本ではさほど議論がなく財政投入を決定していくが、そこは我慢ができないのか、という議論がなされるべきであり、若い世代が声を上げなければ、ただただ復興税のように、先々の稼ぎが減らされてしまう、という事態になってしまうのである。高齢化が進むということは平均寿命が延びているという良い面もあるのかもしれないが、政策決定においてどうしても高齢者寄りになってしまうという、今までの人類が経験していない問題を抱えてしまうのである。

日本のお辞儀は合理的

2020年8月6日の日記より

日本のお辞儀は合理的

New York Timesの記事で、米国の大手ホテルチェーンであるHiltonグループが、マスクをしているホテルスタッフが顧客への経緯や謝意を表す手段を模索中という記事があった。口元を隠されると笑顔を見せづらく、Smileが売りだった米国の接待方法が崩れるという事だろう。ホテルではSmileだが、欧米の握手やハグによる挨拶は今回の感染症の感染拡大に一役買ったという言い方もされている。欧州では肘をぶつけ合うあいさつに代えようという動きもある。

そもそも動物である人間と言う意味で、動物の同一種でのコミュニケーションだが、体をこすりつけあったり、言葉を話さないがゆえに、体の接触でのコミュニケーションが中心なのだと思う。これはお互いに敵意がない事の証明にもなるだろうし、においなどで相手を識別するという意味でも有効だったのだろう。その流れから言って、人間が体の接触による挨拶を行っている事も違和感はない。

感染症の日本史 (文春新書)

しかしながら日本を含む東アジア、広く言えば中国文化圏では握手でさえも一般的では無いと言える。中国、台湾、韓国、日本でもそうだが、タイやインドネシアでも積極的に握手をしていた経験は無い。タイでは両手を胸の前で合わせてお辞儀をする挨拶が一般的にみられる。これだけの事実からだと非常に大胆な推測になるが、他人との接触を避ける事で伝染病の拡大を避けていた、そういう歴史がこのような文化を形成したのかもしれない。

日本では平安自体から天然痘などの感染症が広がった事実が文献などから確認されるそうで、そういう意味でも直接的な接触を避けたのかもしれない。

日本では古来、穢れという思想があったというのが井沢元彦氏の著書での主張であり、筆者も大いに同意する主張となっている。穢れの思想は現代でも日本に充満しており、死についての会話を避けたり、死んだ動物を見るのも避けたり、科学的根拠がなくても必要以上に死や汚れ、穢れを避ける場面は現代でもよく見られる。病原菌やウィルスの存在が分かっていなかった古代、日本で言うと平安時代やそれ以前の時代には、例えば天然痘が流行るのは穢れが蔓延する事だと恐れられ、特に感染者やその病による死者を遠ざける事に精力を傾けていた。そんな時にハグをしたり、握手をしたりと言うのは合理的ではなかったのだろう。

欧米との違いがどこにあるのか、この点が重要だが、恐らくは集団の形成方式の違いが大きいのかと思われる。俗に言われる狩猟採集民と、農耕民との違いではないか。農耕民族は比較的人数の多い集団による組織を大事にする傾向があり、日本はムラ社会だと言われる事が多い。一方欧米は個人主義とよく言われる。狩猟採集も集団で行う必要があるので、個人主義と狩猟採集民がどこまで結びつくのか微妙ではあるが、相対的に見た場合には、農耕民の方が集団生活で生きる必要性は高かったと思われる。そんな中、伝染病と言うのは集団を殺してしまうものであり、伝染病により社会が死んでしまうリスクが農耕民社会においては高くなる。そういう危機意識が直接的な身体接触を避ける方向に働いたのかもしれない。

さらに言うと、日本は世界でも有数の自然災害大国であることも、ムラ社会を作り、その社会生活の基盤を守ろうとした原因かもしれない。日本は、まず火山が多く、地震が多い。これはプレートの位置から見ても止むを得ず、同じような境遇なのはインドネシア、ニュージーランド、アイスランドが主なところではあげられる。2011年の大地震のような地震や、大津波、こういったリスクに常にさらされている土地である。また、日本の場合は大陸との距離が近い事、赤道との距離感、これらが影響して雨が多く、火山でできた急峻な土地が多い国土において、洪水が発生しやすいというのもプラスされる。火山、地震、洪水、これだけでも世界有数の災害大国だと言えるだろう。10年に一度、50年に一度、100年に一度、2011年の大地震は1000年に一度とも言われる。こういった災害の記憶と言うのはどうしても薄れてしまう。ただ、例えば古くて現在も残っている神社が災害の被害を受けづらいように、何らかの痕跡は残っているもので、例えば集落が昔からの土地に存在する場合、そこから離れたところに家屋を構える事は、日本では自然災害のリスクにさらされる行為になるのである。2011年の津波の被害を見ても分かる通り、これは生死にかかわるリスクであり、日本では集団を維持する方向、またはみ出し者と言われる人間が出ずらい環境、こういったものが形成されていったのではないか、と自然災害の面からも推測が出来る。 これらを踏まえても集団で生きる事の重要性と言うか、集団を形成しないことのリスクが高い国であり、そういった面からも身体接触を挨拶において避ける方向に日本が進んでいたことが、欧米との比較において考えられるのである。

恐竜の絶滅と人類

恐竜の絶滅と人類

6600万年前に、大型隕石の衝突が原因で恐竜と言われる大型爬虫類が絶滅したと言われており、その頃にできたクレータの存在、気候に与えた影響の証拠も観測されており、恐らく事実だと思われる。

先ごろ恐竜や海竜を特集したNHKのテレビ番組を娘と見ていたら、「本当に恐竜は絶滅したのかな?もしかしたらジャングルの奥深くとか、海の底の奥深くとかにいるかもしれないよね。いたら、怖いけど見てみたい」と言う事を言っていた。確かに、科学技術の発展により、人間は地球の事は何でも、恐らく99.99%は理解した、というイメージになってしまっている処はあるが、実際のところ、まだまだ知らない部分というのは多いのだろうと思う。気候変動のメカニズムについても多くの議論の余地があるし、例えば地底についての理解も過去に比べたら知見は蓄積されているのだろうが、実際に地震が起きるメカニズム、マントルの対流のメカニズム、分かっていないことは多く、だからこそいまだに学問分野として研究している人は多い。なおかつ、極地や高地などについても分からない事がまだまだあるはずであり、地球や宇宙に対する我々生物の存在というのはちっぽけなものであると、謙虚になる気持ちは重要ではないかと思う次第である。

恐竜は隕石の落下による直接的な衝撃や熱などでかなりの数が死んだのだろうが、実際に絶滅の主因となったのはその隕石衝突で舞い上がったチリによる太陽光の地表への差し込みが減り、気温が急激に下がったためと言われている。基本的には変温動物である爬虫類、さらに大型生物にとっては気温の低下は、活動量の低下に直結してしまう事であり、捕食活動にも影響が出ただろうし、小型生物の減少により食物連鎖が成り立たなくなった面もあるだろうし、生活は苦しくなっていったのだと想像できる。

しかしながら、その時代を乗り越えた爬虫類がおり、現在の爬虫類や鳥類に繋がっているはずであり、例えば食物連鎖のバランスが崩れる事が、全滅に繋がるのだろうか。食物連鎖の方は恐らくバランスが崩れ、それが100万年単位での変化の継続があったりするという長い時系列でみると、絶滅に繋がっていくのも不思議ではない。しかしながら、小型の爬虫類、鳥類の系譜というのは、現在も続いているわけであり、大型と小型を分ける何かしらの理由が無いと、現代に大型の爬虫類が圧倒的に少ない事に納得感が無い。

大型の恐竜にはやはり気温の低下が大きな問題になったのだろうか。体表面積が大きいわけで、確かに一度の気温低下が活動量に与える影響は大きそうだ。しかしながら、現代のCGで作られたテレビ番組を見ながら、あの最強のティラノサウルスが絶滅した理由がいまだに納得できていない。これは恐らく主因は隕石衝突による気温の低下なのだろうが、それ以外にも一度個体数が減りだすと、絶滅の方向走り出してしまうような、種としての特性があったのではないだろうか。例えば、これは多くの生物に言える事であるが、現在生き残っているような生物種は、恐らく子供の時の生存率と子供を産む数というのは反比例している。生存率が低い場合は多くの子供を産むようになっている、というか生むような生物種が現代まで生き永らえるようになっており、生存率が高い場合は子供を産む数が少ない。安全に生活できる種は、一個体に子育ての労力をかけるようになるのである。それはその後の生存競争に有利に働くからである。

そういう観点から言うと、恐らく大型の恐竜というのは繁栄し過ぎた面があり、子供を生産する数が減っていたのではないだろうか。進化の過程でそういう方向性を経てしまっており、大きな危機が発生した時に、個体数が激減する中で、再拡大が出来ないような状況に生殖的にも陥ってしまっていたのではないだろうか。こういう事を何故思うに至ったかというと、近年の感染症の流行である。

先進国では人口維持に必要と言われる出生率を大きく下回る状況が続いている。富と安全の担保により、子孫の繁栄という事の優先順位が下がってしまっているからではないだろうか。もちろん、政策面での整備が行き届いていないという面もあるのだろうが。

話を戻すが、感染症のような種全体として個体数動態に大きな影響を与えるイベントが発生した時に、個体数減少の後に、絶滅に至るか再拡大に行くのか、これは恐竜の例から、興味深い話を含んでいると思われる。新型コロナウイルスが個体数の減少に大きな影響を与えるのか、与えたのか、この辺はまだ分からないが、今後、より驚異的な感染症が例えば出た時に、出生率が今以上に低下しているような状況であれば、人類の存続、というものにも影響を与えるようなイベントになってくるのだろう、と恐竜の事に思いをはせながら、思った次第である。