植物の進化と、進化の必然

植物の進化と、進化の必然

ヒマワリが太陽の方向を向く事は知られており、日中太陽を認識しながら顔を動かしているようにも見える。花自体と太陽光の関係は、例えばミツバチを寄せるために有効なのかもしれないが、それにもまして、葉に効率的に太陽光を届ける目的と何らかの関係があるのだろう。太陽光を葉に効率的に届けるために太陽を追跡しているのか、太陽を追跡できるようになった個体が結果的に効率的に葉に太陽光を集める事が出来、生存に有利だから残ったのか、進化論的には後者が淘汰という枠組みで語られており、進化論的には後者が正解である。

ただ、あたかも脳のない植物が意思を持っているように見える様から、擬人化して考えたくなる気持ちもある。葉っぱの形や、水を効率的に全身に届けるシステム、これらすべてにおいて意思があって現在の形になったかのように感じるが、恐らくは突然変異で葉っぱの形も色々試された中で、結局生存に有利であった現在の形にそれぞれの植物が落ち着いてきたというのが進化論が語る所だろう。

ただ、このあまりにも意思を感じる進化に対して、宗教的に捉えたくなる気持ちもわからなくない。神という科学を超越した存在がデザインしたものが生物であるという古来から人間が描いていた宗教観は、現代でも通じ得るように感じる。例えば原人と呼ばれるアウストラロピテクスは人類であるホモサピエンスの進化上の祖先と言われているが、アウストラロピテクス誕生から500万年とも700万年とも言われており、我々の個人の人生から考えると途方もない月日がたっている。その中で、突然変異が繰り返され、生存に有利な状態というか形質が保存され、俗にいう進化というものに繋がり、ホモサピエンスになって行った。

ホモサピエンスの誕生は20万年前とか言われるが、その数百万年の間に脳の容積は3倍になり、手の形状が変質し、道具を使った生活を営むようになった。こういった歴史と時間の感覚を組み合わせて考えると、やはり進化論というものの偉大さと、確からしさに思い至る。神のような科学を超越した存在によるデザインというアイデアはなかなか悪くは無いが、進化によって現生生物に至っているというアイデアを当方は支持する。

そういった中、ビッグバンの不思議に思いが至るのである。これは150億年とか170億年とかさらに時間軸が長い話になるが、ビッグバンの以前はどうだったのか。ビッグバンの以前はインフレーションと呼ばれる期間があった推測がなされているが、その前は何だったのか。

前にも述べたが、ビッグバン理論が正しくなってしまった時点で「Starting point」を考えざるを得なくなってしまい、そこの解明に至ろうとすればするほど、神であったり、宇宙を超越するような存在が無いと、宇宙は始まらなくなってしまう。この問題が筆者が生存している間に解決するとは思わないが、進化論というものの化学的な合理性を考えて、宗教的な間違いを指摘したくなるのだが、ビッグバンというか宇宙の始まりについての理論で科学は破綻してしまう。

科学と宗教が対立するわけでは無いと思うが、科学が全てを解明してくれるというのは幻想であり、分からない部分を追求する人は科学者になり、分からない部分を不安に感じてしまう人は宗教家になってしまうのだろうか。この二つの感情というか、人間の特性というのは恐らく進化していく上では不可欠の物であった。未知のものに挑む精神が、ヒトの居住範囲を広げて多様な生き方を得る事が出来た。

多様な生き方が出来たからこそ、種としては環境変化に対して耐性を持つ事が出来、現在の反映に繋がっている。一方で、未知のものを不安に思う気持ちというのも進化には不可欠であり、海が荒れている時に不安を感じて、漁を止めるという判断が出来ないと、生存確率は下がってしまうケースもある。我々はある種当然に思っているが、未知のものを不安に思う気持ちが無いと、その種は繁栄が止まってしまうのではと思う。ホモサピエンスよりもネアンデルタール人の方が脳の容積が大きかったことが言われており、体躯も強靭であったと言われている。しかしながら、その狩りの方法が危険であり、ホモサピエンスに比べて命を落とす危険性が高かったと言われており、それが知力も体力もホモサピエンスを上回っていたネアンデルタール人が絶滅した一因とも言われている。まさに、危機回避能力と多様な生活環境、これがホモサピエンスとネアンデルタール人のその後の繁栄を分かつものであったと言われているのだ。

ゲイの遺伝子

ゲイの遺伝子

橘玲の著書を読むのが好きだが、ゲイ遺伝子の事が書いてあった。一卵性双生児のゲイと、二卵性双生児のゲイで比較した場合、遺伝子情報が全く同じである一卵性双生児が兄弟共にゲイである確率は有意に高く、ゲイ遺伝子の存在はほぼ間違いないと言われているらしい。著書にも書いてあったが、男通しがひかれあうというゲイ遺伝子が進化の過程で生き残る事は、子孫繁栄という生命の趣旨から言っても理解が難しいところであるが、ある研究者によって、「男性にもてる、男性をより愛する、どちらの性質とは断言できないが、他社よりも男性と結ばれやすい遺伝子が男女問わず存在する」という天才的な理論が考えられ、それを実証によって証明したらしい。

ゲイの男性の叔母にあたる人物の子供の人数の統計を取ったところ、こちらも有意に人数が多い傾向が得られ、ゲイの男性の叔母は男性にもてがちという傾向が得られ、これによってその叔母で発現した遺伝子は、男性獲得競争で優位に働き、子宝に繋がり、それがゲイの男性で発現するとゲイとなる、という事らしい。

ゲイは100%ではないだろうが遺伝的に説明できる部分があるという事と、進化の過程でも保存されてきた遺伝子であると言う事は、昨今言われているLGBTの権利保護という観点でも重要だろう。本人の意思によるものでないケースがあるという部分と、遺伝的にも劣後しているわけでは無いという重要な面である。ゲイカップルからは子供が生まれないので、子孫繁栄という意味から古典的な思想の中では忌み嫌われる傾向があったが、これは近縁の家族の中で、それを補って余りある子宝に恵まれる事の裏返しであることを言っているわけであり、近縁家族で見ると、ゲイがいない家族に比べてそん色ない事が、遺伝子として残っている事から逆説的に証明できるのである。

これらの事柄を見ていると、発想の転換と統計のような科学は、人々の常識まで変えてしまう。固定観念の打破である。天才的な科学者、この場合は遺伝学者と統計学者であるが、彼らの探求が固定観念を変えてしまう。

筆者は今ダン・ブラウンの著書を読んでいるのですぐカトリックの話になってしまうが、カトリック教会がこのゲイ遺伝子についてどういう発言をするのかは非常に興味深い。伝統を重んじる価値観の中で、科学的に立証できるゲイ遺伝子の存在はどう考えるのか。人工中絶、進化論、遺伝子学、これらはすべてがカトリックの敵であった。かつては敵であったと言うべきだろうか。地動説、ビックバン、これらに続く議論になるのだが、ヴァチカンの立場と、伝統的な信者の立場もまた違っており、ヴァチカン自体はそれほど強硬ではないようにも見える。

例えば人工中絶については「優先順位が高い議論ではない」というような趣旨の発言を教皇が行っていたり、完全な米国の保守派と言われるカトリックとは一線を画しているようにも見える。 話を天才的な発見という観点で戻すと、恐らくはこれからも遺伝学、の世界は常識が覆され続けていくのだろう。まずゲノム解析で得られる情報量というのが飛躍的に上がっているのが原因だ。

日本人の祖先についても、北方系、大陸系、海洋系というように色々なルートがあった事が分かっているし、恐らくは今後個人個人がどの系統の色が強いのか、と言う事も解明されていくだろう。それに加えて、国の成り立ちについての謎も、遺伝学的に今後色々と解明されていくのではないだろうか。

狗奴国との関係という観点や、卑弥呼の出自、天皇家と神話の関連、倭寇とその後の日本人、色々なテーマがあるが、ホモサピエンスが日本に至った過程、その他の人類との交配の過程が分かってくると、我々のルーツが分かってくるはずである。デニソワ人や北京原人、ジャワ原人、これらとの交配具合がどうであったのか。我々の骨格は欧州に住む人、とくに北方系の人々とは体格的に大きく異なる。ネアンデルタール人は屈強な体躯を持っていたが、ジャワ原人は小さかった。これらの事実と現生人類の分布、例えばロシア人とインドネシア人の骨格を考えると、ホモサピエンス以外との交配の歴史が大きな意味を持ちそうな気がする。こういった分野においても、今後も印伝学者による発想の転換、それを実証するための統計学的な調査、その為のゲノム解析の高速化、これらが進んでくれば、大いに研究は進展するのだろう。科学の進歩を見るたびに興奮が呼び起こされる所以である。

勤労感謝の日

2020年11月2日の日記より

勤労感謝の日

11月には文化の日と勤労感謝の日の祝日がある。アメリカ人と話していると日本の祝日の多さに時には呆れられ、海の日と山の日は特に、驚きを持って受け止められる。それがありなら何でもありだろ、という訳であり、おっしゃるとおりである。

さて、勤労感謝の日であるが、そのままの字面だと何の日か分からないが、アメリカのThanksgivingと一緒で、一年間しっかり仕事をしてきて、その収穫を得られることに感謝しましょう、という意味と、感謝の喜びを分かち合いましょう、というような意味になるでしょうか。北半球で言う所の秋の終わりに、このような祝日がある事は宗教を超えた人間生活の根幹の共通性であるように感じて、うれしいところがある。原始的な宗教を信仰していた時代から秋が収穫時期であり、厳しい冬を迎えるというサイクルは変わっていないはずで、秋の喜び、冬に備える、そういう時期なのである。これから寒くて暗い冬になるわけであるが、保存食を作ったり、燃料を集めたり大変な時期ではある。

その次に冬至が来る。これは原始的な宗教、特に太陽崇拝をしていた宗教においては非常に象徴的な日であり、太陽の力というか日照時間が一番短くなる時であり、太陽を神と見立てていた原始的な太陽崇拝の宗教では、神の力が一番小さくなる日と言える。

しかしながら、別の見方をすると、一番小さくなるが、この日以降はめきめきと力を増やしていく日という捉え方も出来、新たな神の誕生する日である、そういった考え方に昇華していったとも考えられ、当時は誕生、成長のゼロ番地的な象徴になって行った。それをうまく活用したのがカトリック教会であり、クリスマスである。イエスキリストの誕生日と言われるが、実際の誕生日は冬至の時期では無いというのが定説であり、なぜ12月25日にしたかというと、これが冬至直後の日である、という古来の太陽信仰から来ている。神が誕生した日にふさわしいわけであり、その日から太陽の力がぐんぐん伸びていくのである。

春夏秋冬という季節の捉え方ではなく、太陽の成長期と衰退期という考え方を取ると、冬至が誕生、春頃が青年期、夏ごろに壮年期を迎え、秋が老年期になるという形であり、キリストの生誕と冬至というのは合致してくるのである。これが何故上手く活用されたと言えるかというと、恐らくキリスト教やユダヤ教という宗教の以前に会った古来の原始的な宗教でも冬至を祝う習慣があったはずである。それは特にエジプト周辺の太陽信仰の跡を見れば、恐らくそうである。その習慣を活かしながら、新たな宗教を説くというのは、布教活動において常套手段のようであり、それも一つのキリスト教が広がって行った理由になるのだろう。

暦というのはそれほど意味を持っており、特に収穫や、太陽活動に関する祝日というか特定の日は冬至のように意味があるものがあり、古来からの重要な役割を追っている事が多いように感じる。天皇誕生日やマーティンルーサーキングデー、これらのような祝日もその国の歴史、アイデンティティという観点から重要であるともいえるが、山の日や海の日にアメリカ人が笑ってしまうのは、その理由の浅さから言っても、仕方のない事ではないだろうか。