山火事と環境問題

2020年9月16日の日記より

山火事と環境問題

カリフォルニアや米国西海岸での山火事被害が広がっているのが報道されている。ばい煙によって空の色がオレンジになったとか、昼間なのに真夜中のような景色になっているとか、視覚的なインパクトが強い。もちろん、逃げ遅れた死者が存在していたり、実質的な被害も起きているようだ。ただ、この視覚的インパクトの大きさというのが、現代社会の発言力を表しており、早速大統領選挙のネタになり、一方は、環境問題というか地球温暖化がこのような山火事を起こしたと主張しており、一方は関係ないと主張している。

どちらを支持したいという訳ではないが、この視覚的インパクト先行型のトピックというのは非常に多い。古くは、北極の氷河が崩れ落ちる映像、南の島が海面上昇で浸水している映像、こういったのは、長期的な変動の結果を見せないで、直感的に人々に環境問題の深刻さを訴える効果がある。サブリミナル効果ではないが、本質ではないところで行っている世論誘導と言えなくもない。

地球環境と言う事を議論するのに、一部の氷河や、カリフォルニアの森林だけを切り取って議論するのは、詐欺に近い。地球環境というのは、地球全体のシステムの事であり、様々な相互作用の上に成り立っている。例えば、一方が温まれば、一方が冷やされたり、一方で湿度が高まれば、一方で湿度が低くなる、そういった相互作用でシステム全体の安定性を保ってきたのが地球システムなはずである。

もちろん100万年、1000万年の単位で見た場合、地球はゴンドワナ大陸というほぼ一つの大陸しか存在しない時代があったり、全球凍結をしたと言われる時代もある。今より圧倒的に海洋面積が大きい時代や、全球凍結で見かけ上は海が消失した時代もあるのである。

こういったシステムの議論と、局地的な現象を無理やり結び付けるという手法は、まだ科学的に正しいとは言えない気がしている。例えば、大きな火力発電所が老朽化している時に、一本の排熱パイプが以前より熱くなりやすくなったと感じた時に、まず考えるのは、このパイプ個別の問題なのか、システムの問題なのか、この点であろう。隣のパイプが以前より冷めていたら、もしかしたら排熱の流路が変わってしまっている事が問題かもしれないという診断になるし、よく見てみたら他のパイプもほとんどが熱くなっており、冷却システムの問題かもしれないと言う事になるかもしれない。

要するに、個別で起こっている事象の背景というか理由にはいくつもの原因が考えられるというのが一般的な考えであり、気候のように、システム全体であったり、中大規模の範囲同士の相互作用が科学的に判明しているとは言い切れないシステムについて話すときはなおさらである。アメリカが寒い時には、欧州は暑いかもしれない。仮に全球的に温暖化している事が事実だとしても、人為的な効果と、太陽の活動量の効果を比較したら、1:99くらいなのかもしれない。

人類はそういった分からないことを理解しようとして科学を発展させてきた歴史がある。一方で分からないことについては想像することは出来ていたが、天動説にしても、進化論にしても、ともすれば宗教なり、当時の体制の権力の維持のために使われた側面もある。科学の進歩がそういった体制の維持から一般市民の活力を開放する事につながった側面もあるわけで、今後気候変動についても何かBreakthroughになるような発見が得られれば良いのかと思っている。

今はまさに、権力者の体制維持のために、思い込みに近いような温暖化議論が使われているような印象であり、天動説や進化論に通じるものがあるような気がする。科学の進歩を待たないと真実は理解できないのかもしれないが、我々現代に生きる人間にとっては、地球温暖化という怪しい議論については、否定するでもなく、肯定するでもなく、距離を置きながら見守る、こういった態度が正しいのであろう。何百年もあとから振り返ると言う事が出来るのかどうかわからないが、今から振り返ると天動説を指示していた人間は、相当恥ずかしい気持ちになっているはずである。当時は大多数の人が信じていた事実も、科学によってひっくり返る事があり得るのである。

宗教の本質と体制

宗教の本質と体制

宗教というものの本質は、死からの救済という所にあるのかと思う。年老いた家族の死や、若くして亡くなる家族、友人の死という厳しい現実に対して、残された人間の救済が心身の健康のためには必要だ。また、自分の死という現実に対しても、死という現実から目をそらすための理論が必要であり、宗教というものに発展する。死というのは全てを無に帰してしまう非常に残酷なものであり、世の中に宗教が発達した一つの理由だろう。

死について体系的に理論化し、死後の世界を描いたり、死後の世界のルールを決めていくのは宗教の役割で、それがあるからこそ安心して送り出せるし、安心して死を受け入れるようになっていくのだろう。一方、生きる事についても宗教というのは重要な役割を担っている。なぜ生きるのか、何故幸福感に差が発生するのか、何故苦しいのか、何故楽しいのか、こういった事に一人で回答を示すことは難しく、出来るのは一握りにのヒトであろう。

なぜ生きるのか、これに対する明確な回答というのは、死を受け入れる事よりも難しい。人生というのを物体の動きとして捉えると、生というのは運動をしている状態であり、死というのはそれが止まる事である。そう考えると死とは生が止まる状態であると定義でき、生という物体が動いている状態、について、何故動くのか、この点の方が大きな論点になりそうである。

何故動くのか、というのがなぜ生きるのか、という部分に通じるのだが、生物学的に言うと、これは人だけではなく、全ての生物に共通の意思があり、自らの子孫を後世に伝える、言い換えれば自らのDNAという物体を将来にわたって生き延びさせる、というのが生きる趣旨だ。これは全ての生物において共通の目的になっているようにも見える。DNAを後世に伝えるというのは、どういう意味合いなのか。DNAの塩基はいくつかの組み合わせで意味を持つものになるが、そこで示されている一塊の情報を将来にわたって維持する事に意味があるのだろうか。我々はその情報を未来永劫維持するために、生活、人生を送っているのだろうか。この点について、明確な回答はどの宗教も出せておらず、生物が38億年かけて地球でつぐんできた歴史の意味合いというものについても誰も分かっていないのが現実だろう。

もっと言えば、何故38億年前に生物が発生したのか。45億年前に地球が出来、150億年前に宇宙が出来たのはなぜのなか、そういう話になってしまう。ビッグバンの前の世界はどうだったのか、ビッグバンを起こしたのが神なのか。宇宙の始まりや、その後の世界の進展に何らかの意思や目的があるのか、これこそ宗教として探求していくと、興味深い分野なのだろうな、と感じる次第である。

古来のキリスト教は、これをすべて神が作ったものとした。ガリレオやダーウィンがでてくるまでは、キリスト教の理論というのはもっともらしく見えていたようだが、科学が地動説や進化論を認めて、太陽が出来てから地球が出来た事、ヒトはチンパンジーと近縁で哺乳類の起源はネズミに類似した生き物だった事、こういった事がすこしづつ理論を否定してきた。現代における宗教というのは、次のステップを検討すべきであり、ビッグバンの前の世界への想像、そしてその後の宇宙の進化、地球の進化、生物の進化、これらに意味を持たせて、我々生物が今後進むべき道というか、目的というのを体系化していく事が宗教として我々の人生の生きる意味を説明するものになるのだろう。

勿論、個人としての生きる意味というのはもっと簡単で良くて、例えば、今日も幸福に、充実した人生、こんな簡単な言葉でよく、自らのライフスタイルを規定していけば、自分、家族、友人、これらの進むべき道は見えてくる。それらを下支えとして生活をしていく事は勿論なのだが、生命というか生物全般における生きる意味、生をもらっている意味合い、これらを探求する事は、科学の分野に通じる事でもあるし、非常に大きな示唆を与えてくれる。そういった事もあり、何故恐竜は絶滅したのか、というのも興味深い分野であり、地球上を牛耳っていた生物である恐竜が絶滅したのは隕石の衝突が原因と言われてはいるが、隕石が衝突しても絶滅していない生物種がおり、それが人類にまで発展したという事実はある。

地球上を牛耳るまでなると、環境の劇的な変化に種として対応できなくなるとか、そういった種としての脆弱性が進んでいったのかもしれない。これは我々現代の人類にも大きな示唆を与えるものであり、今後興味深く検証していきたい。

科学の使命

科学の使命

生きる事の意義、意味というと仰々しくはあるが、我々生命は何故誕生して、何に向かって生きているのか、この問いは科学に対する挑戦でもある。科学は我々というものが何なのか、その問いに対して答えを探し続けてきた。進化論という観点もそうだし、素粒子学的な観点からも、分子、原子、元素の確定、発見、DNAの発見、原子核の観察、素粒子の発見というように発展してきている。素粒子がなぜ存在するのか、どうやって発生するのか、そういった観察から生命の本質に至る発見が得られるのかもしれないが、まだしばらく時間はかかるのだろう。

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ビッグバンという状態の前にインフレーションという状態があった事が現在では言われている。宇宙が生まれる前の状態については、記述するほどの知見が得られていないので何とも言えないが、無の状態なのか、物質が無いと言う事が証明された空間なのか、むしろ均一に無限大の密度を持つ物質に満たされた状態なのか分からないが、そこに何らかの揺らぎが起き、揺らぎが起点となり爆発的に反応が進んでいく、そういった状態だったのかもしれない。揺らぎの起点では相対的に密度が高い状態となり、重力の効果なのか、エネルギーの効果なのか、何らかの反応が即され、その反応が次の反応を則すような状態となりインフレーションが起こり、さらにビッグバンへとつながったのだろう。そこからの宇宙の膨張というのはハッブルが観察した通りに証明されており、一点を起点とした膨張はいまだに続いている。

宇宙の誕生以前の「揺らぎ」、というのがポイントになるのだろうか。これが見えざる手によって行われた宇宙創造なのだろうか。揺らぎ自体については、外部環境の変化があれば、完全な均一な状態からも発生しうるので、見えざる手が必要とは言い切れないが、それでは宇宙誕生以前の状態の外部環境というのは何なんだろうか。宇宙誕生以前の種の宇宙の状態を取り囲む何かがあったという事だろうか。それとも宇宙の種の外側にはさらに大きな何か、例えば「母宇宙」のようなものがあるのだろうか。「母宇宙」の存在の観察が今後のテーマになってくるのかもしれない。しかしながら、「母宇宙」が観察されたとしても「母宇宙」はどうやって誕生したのかという疑問には答えてくれない事が想定されるので、科学の追求は止められないのだろう。

これを止める事が出来るのは、というか止めるというのではなく、どこかで納得感を与える事が出来るのは宗教の力と言う事になってくる。神が創造した、この一言でどこかで探求を小休止して、自らを納得させることができる。我々人間は不安な状態を抱える事が好きではなく、自分たちが何故存在し、何のために生きるのかという答えを欲して、心の安定を求めてしまうものなのだろう。

それにプラスして、生活、生存の安定のために、生まれ持っての平等性、死後の世界での安寧、これらを付与していく事が宗教に求められている事であり、我々人類が欲しがちなものなのだろう。科学と宗教というのは表裏一体とも言える。そういう意味で言うと、科学の進展とともに宗教も発展していくべきなのかもしれない。現存する大手の宗教というのは、2000年前の前後にできたものであり、当時とは科学技術や発見されている事柄の数は雲泥の差となっている。現在の科学技術をベースとして、一つのストーリーを作れる宗教が台頭するのかもしれないが、それよりも救済や秩序、そういった観点での宗教的な意味合いが強く、それは既存の体制とも結びついているものであるので、なかなか新しい宗教が勃興しないという面もあるのかもしれない。

そういう意味では、人類の起源、生命の起源という観点から宗教について議論をし直してみて、現在の科学が導き出した理論との整合性というか、ストーリーの成否をしっかりと描きなおしてみるのも、面白いのかもしれない。さらにそれを超えるような科学的な偉業が今後も出てくることを願ってはいる。