生物の奥深さ

新技術として注目を集めているものに、ミドリムシを使ったユーグレナや、人口蜘蛛の糸を製造するスパイバー、本日の日経新聞にも言葉が躍る。そもそも例えば石油にしたって生物の化石が由来であり、生物なかでも植物が光合成で合成する有機物の存在が原点になるのである。太陽の光と水と二酸化炭素からたんぱく質を作っていくわけであるが、この合成プロセスがすべての原点といってもいいだろう。

植物は光合成で成長し、それを草食動物が捕食して、さらに肉食動物が捕食する。人間もこの食物連鎖の一端を担っており、すべてのベースになるのは植物の光合成である。生命の起源についても原始的なたんぱく質が集合して、増殖するためにRNAのようなものが作られるようになって、徐々に高度化していったという説を聞いたことがある。

たんぱく質はなぜ増殖する必要があったのだろうか。人間というか現在の生物にとって種の保存というか拡大というか、自分の種を残すことは唯一にして最大の目的であり、その生存競争に有利な種が生き残っている。人間もそのように進化をしてきており、現在に至っている。

オリジン【角川文庫 上中下合本版】

ただ、それは何故だろうか。我々が種を残したいと思う欲求はどこからきているのだろうか。一説に肉体はDNAを運搬する箱のようなものであり、真の目的はDNAの時系列というか過去から未来への運搬にあるというものである。そのために、我々は生きており、DNAの運搬に有利な進化も遂げていく。ただ、DNAの運搬ということは誰にとっての利益なのか、もしくは何のメリットがあるのだろうか。

複雑な形状のたんぱく質は増加し始めると、その環境自体が生存というか存在を永らえるために有利になり、その目的を達するために自己増殖機能を持ち始め、有利な環境がたんぱく質の寿命を永らえさせて、さらに増殖を加速させる。居心地のいい環境を作るために増殖することを選んだ、ここまでは何となく描けそうな説であるが、たんぱく質の意思がないとそもそもこの説も発展性がない。

宇宙は無限か有限か (光文社新書)

生命はなぜ生まれたのだろうか。これは宇宙の始まりと一緒で、やはり誰かが背中を押しているのだろうか。地球誕生直後の激しい環境の中で、圧力、温度、そういった条件が合わさり、二酸化炭素や水から簡単なたんぱく質が発生した、というのは恐らく事実なのではないかと思う。そこからたんぱく質が複雑化していったというのも科学的に理解はできなくはない。ただ、そこでなぜ増殖する道を選んだのか。宇宙についても宇宙全体が膨張していることはほぼ間違いなく、であれば最初に起点があったのではないかというのがビックバン理論であり、インフレーション理論である。起点に揺らぎを与えたのは誰なのか、そして何故なのか。始まりを語る上で宗教的な見解を持ち出したくなるのだが、そこはこれからも追及していきたい。

ケーキの切れない非行少年たち

ケーキの切れない非行少年たち

ちょっと前に話題になった「ケーキの切れない非行少年たち」を改めて読んでいる。

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

内容は色々と衝撃的で新鮮なものであるが、なんと言っても前にも書いたことであるが、目の前に起こっていることに対するとらえ方が、人によってあまりにも大きく差があることが実例を持って語られていて興味深い書籍になっている。もちろん、発達障害の少年の話で合ったり、一般の例から言うと一部特殊なケースが含まれているという面があるが、これはある意味では一般社会の縮図であり、一般社会においても、職場で隣で仕事をしている人であっても、目の前に起きていること、同じ文章、同じ言葉を聞いても、まず価値観の違いからとらえ方が違うという面もあるが、認知の能力の差異というのはどんな個人にも存在するので、認知内容の差が発生している、この事実に改めて気づかされるのである。

とかくビジネスの分野では、特に私のように国際交渉の場に多く出席する立場であると、意見の対立というのは日常茶飯事であり、感情的になることすらある。それはそれでビジネスを展開する上で大事なプロセスであるが、認知能力の差というのは、国々の価値観の差、文化の差に隠れがちであるが、存在しており、これが前提条件の違いで合ったり、ものの見る角度の違いにつながっているのだろうと、感じる次第である。

認知能力という意味では、もちろん個体差というか個人差もあるのだが、興味深いのは人間のバイオリズムであり、今同時並行で読んでいる本によると、「揺らぎ」という物質現象の根本を担うものにより、人間にもいくつかのバイオリズムがあるということだ。もちろん、朝と夜にでは体内の各器官の働きが違い、発揮される認知能力にも影響してくるということもあるだろう。

世界は「ゆらぎ」でできている 宇宙、素粒子、人体の本質 (光文社新書)

人間には一番有名な25時間の周期があり、毎朝太陽の光でリセットされるというのは有名な話であるが、それ以外にも体内器官の周期というものが存在しており、人間活動もそれに影響を受けている。それらが認知能力の差を生み出すケースもあるだろう。

序盤から話題がだいぶ変わってきたが、何が言いたかったかというと、認知能力には個体差、個人内差両面で、想像するよりも大きなギャップが存在しているということである。その存在がある上で社会生活を送らないと、いろいろな場面で理解できないことに遭遇し、それがストレスになってしまう。

これは現代社会が抱えている闇であり、平等とか人権という問題を過剰にリスペクトしすぎた結果として、国民は均質な存在であるというイメージがつきすぎてしまったことにも起因していると思う。富める人も貧しい人も、賢い人もそうでない人も多様な人がおり国民を構成しているというのが30,40年前の社会であったと思うが、人権とか差別の意識の高まりもあり、なんとなく多様な人がいることをマスメディアなんかでは伝えられなくなっている感じがある。テレビがつまらなくなったという人がいるが、これが一因だろう。これによって、我々の意識の中に、人はある程度均質なのではないか、こんな幻想が広がってしまっているのかもしれない。それが、認知能力にそもそも差があるということを忘れさせてしまい、現代人の多くのイライラにつながっているのではないだろうか。

科学の使命

科学の使命

生きる事の意義、意味というと仰々しくはあるが、我々生命は何故誕生して、何に向かって生きているのか、この問いは科学に対する挑戦でもある。科学は我々というものが何なのか、その問いに対して答えを探し続けてきた。進化論という観点もそうだし、素粒子学的な観点からも、分子、原子、元素の確定、発見、DNAの発見、原子核の観察、素粒子の発見というように発展してきている。素粒子がなぜ存在するのか、どうやって発生するのか、そういった観察から生命の本質に至る発見が得られるのかもしれないが、まだしばらく時間はかかるのだろう。

オリジン【角川文庫 上中下合本版】

ビッグバンという状態の前にインフレーションという状態があった事が現在では言われている。宇宙が生まれる前の状態については、記述するほどの知見が得られていないので何とも言えないが、無の状態なのか、物質が無いと言う事が証明された空間なのか、むしろ均一に無限大の密度を持つ物質に満たされた状態なのか分からないが、そこに何らかの揺らぎが起き、揺らぎが起点となり爆発的に反応が進んでいく、そういった状態だったのかもしれない。揺らぎの起点では相対的に密度が高い状態となり、重力の効果なのか、エネルギーの効果なのか、何らかの反応が即され、その反応が次の反応を則すような状態となりインフレーションが起こり、さらにビッグバンへとつながったのだろう。そこからの宇宙の膨張というのはハッブルが観察した通りに証明されており、一点を起点とした膨張はいまだに続いている。

宇宙の誕生以前の「揺らぎ」、というのがポイントになるのだろうか。これが見えざる手によって行われた宇宙創造なのだろうか。揺らぎ自体については、外部環境の変化があれば、完全な均一な状態からも発生しうるので、見えざる手が必要とは言い切れないが、それでは宇宙誕生以前の状態の外部環境というのは何なんだろうか。宇宙誕生以前の種の宇宙の状態を取り囲む何かがあったという事だろうか。それとも宇宙の種の外側にはさらに大きな何か、例えば「母宇宙」のようなものがあるのだろうか。「母宇宙」の存在の観察が今後のテーマになってくるのかもしれない。しかしながら、「母宇宙」が観察されたとしても「母宇宙」はどうやって誕生したのかという疑問には答えてくれない事が想定されるので、科学の追求は止められないのだろう。

これを止める事が出来るのは、というか止めるというのではなく、どこかで納得感を与える事が出来るのは宗教の力と言う事になってくる。神が創造した、この一言でどこかで探求を小休止して、自らを納得させることができる。我々人間は不安な状態を抱える事が好きではなく、自分たちが何故存在し、何のために生きるのかという答えを欲して、心の安定を求めてしまうものなのだろう。

それにプラスして、生活、生存の安定のために、生まれ持っての平等性、死後の世界での安寧、これらを付与していく事が宗教に求められている事であり、我々人類が欲しがちなものなのだろう。科学と宗教というのは表裏一体とも言える。そういう意味で言うと、科学の進展とともに宗教も発展していくべきなのかもしれない。現存する大手の宗教というのは、2000年前の前後にできたものであり、当時とは科学技術や発見されている事柄の数は雲泥の差となっている。現在の科学技術をベースとして、一つのストーリーを作れる宗教が台頭するのかもしれないが、それよりも救済や秩序、そういった観点での宗教的な意味合いが強く、それは既存の体制とも結びついているものであるので、なかなか新しい宗教が勃興しないという面もあるのかもしれない。

そういう意味では、人類の起源、生命の起源という観点から宗教について議論をし直してみて、現在の科学が導き出した理論との整合性というか、ストーリーの成否をしっかりと描きなおしてみるのも、面白いのかもしれない。さらにそれを超えるような科学的な偉業が今後も出てくることを願ってはいる。