宗教の本質と体制

宗教の本質と体制

宗教というものの本質は、死からの救済という所にあるのかと思う。年老いた家族の死や、若くして亡くなる家族、友人の死という厳しい現実に対して、残された人間の救済が心身の健康のためには必要だ。また、自分の死という現実に対しても、死という現実から目をそらすための理論が必要であり、宗教というものに発展する。死というのは全てを無に帰してしまう非常に残酷なものであり、世の中に宗教が発達した一つの理由だろう。

死について体系的に理論化し、死後の世界を描いたり、死後の世界のルールを決めていくのは宗教の役割で、それがあるからこそ安心して送り出せるし、安心して死を受け入れるようになっていくのだろう。一方、生きる事についても宗教というのは重要な役割を担っている。なぜ生きるのか、何故幸福感に差が発生するのか、何故苦しいのか、何故楽しいのか、こういった事に一人で回答を示すことは難しく、出来るのは一握りにのヒトであろう。

なぜ生きるのか、これに対する明確な回答というのは、死を受け入れる事よりも難しい。人生というのを物体の動きとして捉えると、生というのは運動をしている状態であり、死というのはそれが止まる事である。そう考えると死とは生が止まる状態であると定義でき、生という物体が動いている状態、について、何故動くのか、この点の方が大きな論点になりそうである。

何故動くのか、というのがなぜ生きるのか、という部分に通じるのだが、生物学的に言うと、これは人だけではなく、全ての生物に共通の意思があり、自らの子孫を後世に伝える、言い換えれば自らのDNAという物体を将来にわたって生き延びさせる、というのが生きる趣旨だ。これは全ての生物において共通の目的になっているようにも見える。DNAを後世に伝えるというのは、どういう意味合いなのか。DNAの塩基はいくつかの組み合わせで意味を持つものになるが、そこで示されている一塊の情報を将来にわたって維持する事に意味があるのだろうか。我々はその情報を未来永劫維持するために、生活、人生を送っているのだろうか。この点について、明確な回答はどの宗教も出せておらず、生物が38億年かけて地球でつぐんできた歴史の意味合いというものについても誰も分かっていないのが現実だろう。

もっと言えば、何故38億年前に生物が発生したのか。45億年前に地球が出来、150億年前に宇宙が出来たのはなぜのなか、そういう話になってしまう。ビッグバンの前の世界はどうだったのか、ビッグバンを起こしたのが神なのか。宇宙の始まりや、その後の世界の進展に何らかの意思や目的があるのか、これこそ宗教として探求していくと、興味深い分野なのだろうな、と感じる次第である。

古来のキリスト教は、これをすべて神が作ったものとした。ガリレオやダーウィンがでてくるまでは、キリスト教の理論というのはもっともらしく見えていたようだが、科学が地動説や進化論を認めて、太陽が出来てから地球が出来た事、ヒトはチンパンジーと近縁で哺乳類の起源はネズミに類似した生き物だった事、こういった事がすこしづつ理論を否定してきた。現代における宗教というのは、次のステップを検討すべきであり、ビッグバンの前の世界への想像、そしてその後の宇宙の進化、地球の進化、生物の進化、これらに意味を持たせて、我々生物が今後進むべき道というか、目的というのを体系化していく事が宗教として我々の人生の生きる意味を説明するものになるのだろう。

勿論、個人としての生きる意味というのはもっと簡単で良くて、例えば、今日も幸福に、充実した人生、こんな簡単な言葉でよく、自らのライフスタイルを規定していけば、自分、家族、友人、これらの進むべき道は見えてくる。それらを下支えとして生活をしていく事は勿論なのだが、生命というか生物全般における生きる意味、生をもらっている意味合い、これらを探求する事は、科学の分野に通じる事でもあるし、非常に大きな示唆を与えてくれる。そういった事もあり、何故恐竜は絶滅したのか、というのも興味深い分野であり、地球上を牛耳っていた生物である恐竜が絶滅したのは隕石の衝突が原因と言われてはいるが、隕石が衝突しても絶滅していない生物種がおり、それが人類にまで発展したという事実はある。

地球上を牛耳るまでなると、環境の劇的な変化に種として対応できなくなるとか、そういった種としての脆弱性が進んでいったのかもしれない。これは我々現代の人類にも大きな示唆を与えるものであり、今後興味深く検証していきたい。

生命の起源

生命の起源

これもまた興味深いテーマであり、宇宙の誕生には神の手が加えられて、初めに揺らぎあれ、というのが、初めに光あれ、になったのかもしれない。出発点というものが見えないし、再現方法についても途方もない努力が必要なように感じる。

一方で、地球誕生が45億年前程度で、たくさんの隕石がぶつかり合って誕生し、初期地球はドロドロのマグマの海と高温の大気で覆われ、太陽との距離感がちょうどよかったことから徐々に冷まされて、最初は液体の恐らく硫酸か塩酸の雨が降り続き、カルシウムやナトリウムと中和されて、徐々に現在の姿に近づいて行ったのだろう。

その後、海水が真水に近い塩水になっていき、大気には二酸化炭素が満ちてくるようになった。その中でまずは圧力、温度、化学成分濃度が最適になったところで、アミノ酸が形成されて、タンパク質となり、タンパク質が効率的に成長する仕組みとして、単純な化学反応としての二酸化炭素の分解、炭素成分の取り込み、酸素の排出という仕組みが出来上がっていった。化学反応の仕組みを効率的に行えるタンパク質が結果的に増加する事が出来、効率的なたんぱく質の一つが、タンパク質の内部構造としてRNAのような、次世代へ自分の仕組みを受け継ぐ要素を体内に持ち始めて、それが世代を超えた生存戦略に繋がっていく事になる。

これが高度化していくと、DNAになり、分裂による子孫繁栄につながり、そこで子孫を残すことが生存環境を拡大するという戦略にとっての目的となり、その目的を達成するために、タンパク質間で競争が始まったところから、生物の進化が始まっていく。その後、生物が複雑化していくに従い、様々な突然変異、自然淘汰が行われていくわけだが、タンパク質間の生存競争の過程というか延長線上に、知能を持つという選択も、描けないわけではない。脳の複雑な機能については分からないことが多く、人類の誕生からの自我や、死後の世界への探求という部分は生物の生存競争という面からは飛躍し過ぎている気もするが、これは脳という機関を持ってしまい、そもそもの目的以上の機関になってしまい、生存競争の側面を超えてしまったゆえだろう。

タンパク質の存在範囲の拡張、という元々の地球が進化する初期の営みの延長線上に現在までの人類の進化、生命の進化の理由というのは描けないわけでは無いと、上記のように考えることは出来る。一方で、タンパク質の存在範囲の拡張というのは、何故行われたのか。これは一種の化学的平衡を作り出すための、例えば熱い空気が冷たい空気と対流するような自然現象として、ありえるのだろうか。恐らく、科学的には、生の酸素、水素や、イオン化した元素が多数存在する状態よりも、元素が重合している状態の方がエネルギー的に安定となるのだろう。そういう意味では、炭素単体、酸素単体、が存在する状態よりも、タンパク質として重合した状態の方が安定的と言え、これらの動きは地球が誕生した時点から考えると、灼熱のマグマ地球が安定化していくためのプロセスであったと言えなくはない。大気の状態や、海水の状態、地球の気温という点からも、全ては安定化の方向性に進むベクトルなのである。

初期地球において安定化の方向性に進むために生物が発生し、初期の生物進化が無しえてきたことはどうやらなんとなく説明可能な感じはするが、その後、進化というのが暴走しだしているともいえるのかもしれない。あまりに生物種が増え過ぎた事もあり、地球環境としては安定化とは呼べない方向に進んでいるような感じもする。ただ、現在の状態が1億年前と比べて、安定化しているのか、不安定化しているのか、この点は、もう少し広い視野で見る必要があり、全体としては45億年前から一貫して安定化しているのかもしれない。このことを考える事が、今後1億年の地球、生命、人類を考える事に繋がると考えると、思考実験は面白いものである。ただ、人類は1億年後には間違いなくいないだろう。

気候変動の歴史

気候変動の歴史

この頃は特に地球温暖化、気候変動による異常気象などが言われている。多くの人の主張は、産業革命以降の二酸化炭素排出量の増加による、二酸化炭素の温室化効果によって温暖化が起きているというものだ。

今のところ、二つの疑問点がある。1800年代から徐々に工業生産が増えて、右肩上がりで一本調子で二酸化炭素排出量が増えているはずではあるが、1960年近辺に正確には記憶していないが、20-30年間平均気温が低下している時期がある。よく見るグラフで見られる傾向だが、これについて合理的な説明が出来ていない。もう一つは、二酸化炭素濃度なんていうものは、増えたと言っても二酸化炭素の濃度変化というのは数百PPMレベルの変化であり、これが地球の大気組成の変化として、また温室効果として妥当なのだろうか。

それこそ金星の様な天体が異常に高濃度の二酸化炭素で覆われており、温室効果が働いているという状況と同列に議論できるものなのだろうか。これは、科学の難しいところであり、地球環境というのはN数が1であるとも言え、同一条件での比較が困難である。また、地球の気候の仕組み、地球自体の仕組みについても、科学は理解しているのだろうか。文明の発達の歴史と言う事を考えると、現代人は今までの文明の頂点にいる気になっており、多くの事、それこそ古代には神の領域と思われていた事すら科学で説明できる分野が出てきており、神様気取りなのかもしれない。

しかしながら、一般的な謙虚な科学者はそうは思っていないはずであり、そういうSilent majority的な科学者は、わざわざ気候変動についての薄ぺっらく、お金の匂いのする議論からは逃げているのではないだろうか。科学者として本質的な議論がなされているとは感じられない議題だからである。

そもそも地球の気温に影響を与える要素は、当然のことながら、太陽活動が一番大きな要素であり、太陽からのエネルギーを跳ね返したりする役割もある、地軸、地球磁場これらも大きな要素となっているだろう。そういった要素と、光として降り注ぐエネルギーを跳ね返すのか、否か、これも大きな要素となるはずである。これにプラスしたうえで、大気組成の話は出るはずであり、そんなに単純な話ではない。

地球は何度も氷河期を経験して今に至っており、特に我々の人生のような100年単位で物事は動いていない。また、温暖化が進むと異常気象が増えるという理屈が全く気に入らない。まず、地球の歴史を紐解いた場合、温暖な気候の方が生命の存在には有利であることは間違いない。生存できる空間が増える事で食物連鎖が広がり、生物相に広がりが生まれる。

人類の文明史を見ても、ルネサンス期の温暖期がいい例だが、温暖な時期の方が作物の生育が良く、人間は幸せな時間を過ごせるのである。こういった事から、まず言える事は、温暖化自体は悪い事ではなく、ツバルが沈む映像をことさら強調する放送局があるが、石炭火力発電所の代替発電所を世界中に整備する費用を掛けられるなら、ツバル一国を救う事は恐らく予算的には誤差の範囲だろう。また、沿岸部に住む人の生活が危うくなるというが、海外線の上昇にしたって、津波のようにある日突然来るわけではなく、護岸工事や、移住をすれば問題ないし、今までの歴史においても対応してきている事である。北極の氷だって溶ければ北極海航路を使用しやすくなり、物流費用が下がるし、南極の一部に人類が住めるようになれば、人口密度が減るか、人口を無理なく増やすためには好都合である。

大型台風が増えたとか、猛暑、極寒が増えたと言う事を、二酸化炭素排出量の増加→地球温暖化→そういう異常気象が増えた、という論調で言う向きがあるが、こんなことは誰かが証明したのだろうか。もちろん、温暖化により、大洋例えば太平洋の海水温が上がり、熱帯性の低気圧が発生しやすくなっているというのかもしれないが、本当だろうか。

気圧の差というのは、温度差で生まれるのではないだろうか。地球が等しく温度が上がっており、太平洋の海水温も同じように温度が上がっていれば、その上の領域(北の領域)も等しく温度が上がっているわけであり、大型の台風が増えるのだろうか。もちろん、海水の温度と気温を等しく比べられないが、海水温の方が温度上昇は小さいのではないだろうか。熱を保持できるから、温度上昇は同じでも、台風を巨大化させやすいのだろうか。

もちろん、二酸化炭素排出量の増加が大きな原因になっている可能性もあるが、今聞いている話や読んでいる本の内容によると、整合性のある説明がなされているとは到底思えない。無理やり二酸化炭素の排出量を押さえていきたい勢力があり、その人たちの偽善的な主張に皆が反論できなくなっているだけではないだろうか。

例えば、「戦争反対。人類みな兄弟。人殺しは悪。」的な主張があるが、これはまったくもって正論であり正しいようにも思える。この意見に対して、真正面からの反論は難しい。しかしながら、欲がある人間であるなら、個人の間では日常的に目に見える形、見えない形を問わず争いはある。例えば、仕事における競合との競争もそうである。そういったものが発展した形態が戦争であり、人間というものが存在する限りにおいては避けられない。いや、これは人間以外の動物であっても避けられない、根本的な本性であり、生きるという事や、種を保存すると言う事は争うと言う事が本質なのだろう。

そういう観点から言うと、戦争は反対であるが、守るべきものを守る時には戦争は必要なのである。Political correctnessではないが、偽善的な主張というのは、時として反論が難しい時がある。二酸化炭素の排出増についても、減らさないより減らした方が良さそうだ、という感じの人が多いのだろう。それによって、既存の秩序が壊れる事はいいのかもしれないが、過剰に意識しすぎる事によって、本来の活動が阻害されるとなると如何なものだろうか。