恐竜の絶滅と人類

恐竜の絶滅と人類

6600万年前に、大型隕石の衝突が原因で恐竜と言われる大型爬虫類が絶滅したと言われており、その頃にできたクレータの存在、気候に与えた影響の証拠も観測されており、恐らく事実だと思われる。

先ごろ恐竜や海竜を特集したNHKのテレビ番組を娘と見ていたら、「本当に恐竜は絶滅したのかな?もしかしたらジャングルの奥深くとか、海の底の奥深くとかにいるかもしれないよね。いたら、怖いけど見てみたい」と言う事を言っていた。確かに、科学技術の発展により、人間は地球の事は何でも、恐らく99.99%は理解した、というイメージになってしまっている処はあるが、実際のところ、まだまだ知らない部分というのは多いのだろうと思う。気候変動のメカニズムについても多くの議論の余地があるし、例えば地底についての理解も過去に比べたら知見は蓄積されているのだろうが、実際に地震が起きるメカニズム、マントルの対流のメカニズム、分かっていないことは多く、だからこそいまだに学問分野として研究している人は多い。なおかつ、極地や高地などについても分からない事がまだまだあるはずであり、地球や宇宙に対する我々生物の存在というのはちっぽけなものであると、謙虚になる気持ちは重要ではないかと思う次第である。

恐竜は隕石の落下による直接的な衝撃や熱などでかなりの数が死んだのだろうが、実際に絶滅の主因となったのはその隕石衝突で舞い上がったチリによる太陽光の地表への差し込みが減り、気温が急激に下がったためと言われている。基本的には変温動物である爬虫類、さらに大型生物にとっては気温の低下は、活動量の低下に直結してしまう事であり、捕食活動にも影響が出ただろうし、小型生物の減少により食物連鎖が成り立たなくなった面もあるだろうし、生活は苦しくなっていったのだと想像できる。

しかしながら、その時代を乗り越えた爬虫類がおり、現在の爬虫類や鳥類に繋がっているはずであり、例えば食物連鎖のバランスが崩れる事が、全滅に繋がるのだろうか。食物連鎖の方は恐らくバランスが崩れ、それが100万年単位での変化の継続があったりするという長い時系列でみると、絶滅に繋がっていくのも不思議ではない。しかしながら、小型の爬虫類、鳥類の系譜というのは、現在も続いているわけであり、大型と小型を分ける何かしらの理由が無いと、現代に大型の爬虫類が圧倒的に少ない事に納得感が無い。

大型の恐竜にはやはり気温の低下が大きな問題になったのだろうか。体表面積が大きいわけで、確かに一度の気温低下が活動量に与える影響は大きそうだ。しかしながら、現代のCGで作られたテレビ番組を見ながら、あの最強のティラノサウルスが絶滅した理由がいまだに納得できていない。これは恐らく主因は隕石衝突による気温の低下なのだろうが、それ以外にも一度個体数が減りだすと、絶滅の方向走り出してしまうような、種としての特性があったのではないだろうか。例えば、これは多くの生物に言える事であるが、現在生き残っているような生物種は、恐らく子供の時の生存率と子供を産む数というのは反比例している。生存率が低い場合は多くの子供を産むようになっている、というか生むような生物種が現代まで生き永らえるようになっており、生存率が高い場合は子供を産む数が少ない。安全に生活できる種は、一個体に子育ての労力をかけるようになるのである。それはその後の生存競争に有利に働くからである。

そういう観点から言うと、恐らく大型の恐竜というのは繁栄し過ぎた面があり、子供を生産する数が減っていたのではないだろうか。進化の過程でそういう方向性を経てしまっており、大きな危機が発生した時に、個体数が激減する中で、再拡大が出来ないような状況に生殖的にも陥ってしまっていたのではないだろうか。こういう事を何故思うに至ったかというと、近年の感染症の流行である。

先進国では人口維持に必要と言われる出生率を大きく下回る状況が続いている。富と安全の担保により、子孫の繁栄という事の優先順位が下がってしまっているからではないだろうか。もちろん、政策面での整備が行き届いていないという面もあるのだろうが。

話を戻すが、感染症のような種全体として個体数動態に大きな影響を与えるイベントが発生した時に、個体数減少の後に、絶滅に至るか再拡大に行くのか、これは恐竜の例から、興味深い話を含んでいると思われる。新型コロナウイルスが個体数の減少に大きな影響を与えるのか、与えたのか、この辺はまだ分からないが、今後、より驚異的な感染症が例えば出た時に、出生率が今以上に低下しているような状況であれば、人類の存続、というものにも影響を与えるようなイベントになってくるのだろう、と恐竜の事に思いをはせながら、思った次第である。

海洋性民族

海洋性民族

日本人は魚をよく食べる。もちろん他の国の人々も魚介類を食べるのだが、例えばアメリカ人、特に中西部のような大陸の真ん中にあるような地域では魚を食べるというのはかなり稀な行為だ。そういった意味で、日本人は平均以上に魚介類というか、海洋性の食物を多く消費する方の民族であることは間違いなさそうだ。

海の歴史

日本人の祖先は二系統ありそうなことは昨今多く言われており、南、もっと言えば、出アフリカ以来海岸を移住してきた南方系の、海洋性の集団があり、インドからマラッカ、ベトナムと移動して日本列島に至った民族集団であり、この言い方が正しいのかはわからないが以前の言い方では縄文系と言われた、比較的彫が深いタイプの顔つきの人たちが一つ。もう一つは大陸系と言われる、中国、朝鮮半島から移住してきたタイプの民族があると言われている。世界地図を見た時に、大陸経路と海岸経路が出アフリカで分かれてから、日本列島という有る意味では袋小路で会いまみれるというのは、壮大な歴史を感じさせるし、人類の多様性を改めて実感する。ホモサピエンスが地上に現れたのは20万年前と言われ、そこからは諸説あるようだが出アフリカをしたのが10万年前として、日本にホモサピエンスが住み始めたのが3万年前とすると、7万年の別れを経て、日本列島にて再開した、という言い方も出来そうである。もしかすると10万年かもしれないし、5万年かもしれないが、いづれにせよそれくらいの年月を経て、経路による違いは恐らく大きかったと思われる。7万年とかいうオーダーはそれくらい種を大きく変える事が出来る。

さらにいうと恐らく両系統共に、他のヒト種との交雑が行われたのではないかとも言われている。海岸性の民族の方はジャワ原人なのか、フローレンスにいたヒト種なのか詳細は分からないが比較的小型のヒト種との交雑があり、恐らく浅黒い肌、堀の深い顔、比較的多い体毛、これらはそういった種の影響かもしれない。北方から来た大陸系はデミタス原人とか、もしかしたらネアンデルタール人の影響もあるかもしれないが、いづれにせよこちらも他のヒト種との交雑があった可能性が高い。

当時の人々を考える際に、現在との多様性の違いに驚かされる。進化人類学的に物事を捉えて、現代社会と比較するという考え方があるのかどうかわからないが、種の壁を越えて交雑するという多様性は、現生人類にはない。これは大きな違いであり、当時の人々の野心的な気持ちというか種の保存のために出来る事は何でもしていた、という点が意識的、無意識的、考え方はあるが、興味深いし、尊敬に値するともいえる。また、現代に比べて圧倒的に生存する難易度が高いにもかかわらず、何万年もかけて東へ東へ進出していったバイタリティーも現生人類に比べると、非常に大きかったのではないだろうか。もちろん、食糧が無くなって、余剰人口が止むを得ず、移住地を求めるために未開の東へ進んだという面が強く、さらにその中でも何例もの移住が失敗に終わり、何万年という年月をかけて、かなりの失敗を経て、徐々に東に来たので一概には言えないが、現代の感覚から言っても、未開の地へ大した科学技術も持たずに進出していくのは、火星への移住位野心的とも感じる次第で、尊敬に値する。

人類の歴史というのはそういった多様性の維持を積極的に獲得してきたからこそ紡がれてきた歴史であり、これをないがしろにすると中長期的に悲劇を招くだろう。スケール感が異なる話にはなってしまうのだが、多様性というは重要視すべき価値観の一つであり、対義語的な同一性、同調性、閉鎖性、これらが台頭する時は、人類が悪い方向に進む時なのだろうと思う。歴史を紐解いてみても、卵が先か鶏が先か的なところはあるが、大戦争が起きるのは、同調性や排他性の圧力が強まる時であり、人類は殺し合いを行うのである。それに至る過程は、もちろん生活の困窮であったり、富の奪い合いから始まるので、生きるために殺し合いを行うという逆説的な言い方になるのだが、少しでも多様性の尊重という意識を持っていれば、避けられる戦争、対立もあるのかもしれない。それが20万年もかけて人類が繋いできた事であり、繁栄した理由かもしれない。それを否定する事は、人類の繁栄に反旗を翻すことにもつながりかねず、今一度多様性について考え直す時期なのかもしれない。

山火事と環境問題

2020年9月16日の日記より

山火事と環境問題

カリフォルニアや米国西海岸での山火事被害が広がっているのが報道されている。ばい煙によって空の色がオレンジになったとか、昼間なのに真夜中のような景色になっているとか、視覚的なインパクトが強い。もちろん、逃げ遅れた死者が存在していたり、実質的な被害も起きているようだ。ただ、この視覚的インパクトの大きさというのが、現代社会の発言力を表しており、早速大統領選挙のネタになり、一方は、環境問題というか地球温暖化がこのような山火事を起こしたと主張しており、一方は関係ないと主張している。

どちらを支持したいという訳ではないが、この視覚的インパクト先行型のトピックというのは非常に多い。古くは、北極の氷河が崩れ落ちる映像、南の島が海面上昇で浸水している映像、こういったのは、長期的な変動の結果を見せないで、直感的に人々に環境問題の深刻さを訴える効果がある。サブリミナル効果ではないが、本質ではないところで行っている世論誘導と言えなくもない。

地球環境と言う事を議論するのに、一部の氷河や、カリフォルニアの森林だけを切り取って議論するのは、詐欺に近い。地球環境というのは、地球全体のシステムの事であり、様々な相互作用の上に成り立っている。例えば、一方が温まれば、一方が冷やされたり、一方で湿度が高まれば、一方で湿度が低くなる、そういった相互作用でシステム全体の安定性を保ってきたのが地球システムなはずである。

もちろん100万年、1000万年の単位で見た場合、地球はゴンドワナ大陸というほぼ一つの大陸しか存在しない時代があったり、全球凍結をしたと言われる時代もある。今より圧倒的に海洋面積が大きい時代や、全球凍結で見かけ上は海が消失した時代もあるのである。

こういったシステムの議論と、局地的な現象を無理やり結び付けるという手法は、まだ科学的に正しいとは言えない気がしている。例えば、大きな火力発電所が老朽化している時に、一本の排熱パイプが以前より熱くなりやすくなったと感じた時に、まず考えるのは、このパイプ個別の問題なのか、システムの問題なのか、この点であろう。隣のパイプが以前より冷めていたら、もしかしたら排熱の流路が変わってしまっている事が問題かもしれないという診断になるし、よく見てみたら他のパイプもほとんどが熱くなっており、冷却システムの問題かもしれないと言う事になるかもしれない。

要するに、個別で起こっている事象の背景というか理由にはいくつもの原因が考えられるというのが一般的な考えであり、気候のように、システム全体であったり、中大規模の範囲同士の相互作用が科学的に判明しているとは言い切れないシステムについて話すときはなおさらである。アメリカが寒い時には、欧州は暑いかもしれない。仮に全球的に温暖化している事が事実だとしても、人為的な効果と、太陽の活動量の効果を比較したら、1:99くらいなのかもしれない。

人類はそういった分からないことを理解しようとして科学を発展させてきた歴史がある。一方で分からないことについては想像することは出来ていたが、天動説にしても、進化論にしても、ともすれば宗教なり、当時の体制の権力の維持のために使われた側面もある。科学の進歩がそういった体制の維持から一般市民の活力を開放する事につながった側面もあるわけで、今後気候変動についても何かBreakthroughになるような発見が得られれば良いのかと思っている。

今はまさに、権力者の体制維持のために、思い込みに近いような温暖化議論が使われているような印象であり、天動説や進化論に通じるものがあるような気がする。科学の進歩を待たないと真実は理解できないのかもしれないが、我々現代に生きる人間にとっては、地球温暖化という怪しい議論については、否定するでもなく、肯定するでもなく、距離を置きながら見守る、こういった態度が正しいのであろう。何百年もあとから振り返ると言う事が出来るのかどうかわからないが、今から振り返ると天動説を指示していた人間は、相当恥ずかしい気持ちになっているはずである。当時は大多数の人が信じていた事実も、科学によってひっくり返る事があり得るのである。