ロシアのコロナ感染状況

2020年8月4日の日記より

ロシアのコロナ感染状況

感染者数は多いが、経済は再開。消費マインドも強め

新型コロナウイルスの感染拡大が比較的早期に来たロシアでは、感染の波が収まる気配を見せていない。しかしながら、旧共産圏の強みでもあるが、社会基盤と言うか社会保障が充実しており、医療体制は十分な厚みがある。初期のころからPCR検査を徹底しており、感染者の洗い出し、隔離の徹底により、感染の再拡大を食い止めた。また元々平均寿命が長くないという背景もあり、高齢者における長寿に対する願望が相対的に小さいのかもしれない。

経済面で見てみると、もちろん4月、5月の原油価格の急落には影響を受け、財政的には苦しい時期があった。しかしながら、4月を国としてほとんど休暇としたことにより、感染拡大を食い止め、5月以降は経済活動を再開している。6月からは物流も完全に復活し、7月からは観光も再開し、国民は通常通りの夏季休暇を楽しんでいる。筆者の周りにもロシア国内ではあるが、夏季休暇に旅行に出かけるという声を聴くようになった。

さて、先ごろ報道された、「10月からコロナワクチンを接種開始する」という記事だが、ある意味では流石ロシアと言ったところか。冷戦時代の軍拡競争、宇宙開発競争、スポーツによる国威発揚競争、そういったソ連時代のキーワードから連想されることだが、ロシアの科学技術は一定の基盤があり、特定分野における技術力は目を見張るものがある。潜水艦、原発、チタン等の金属材料、そして医療が良い例だろう。西側諸国と言われる米国、英国、こういった国のメディアは基本的には自国礼さん、ロシアは批判、という態度であるので、今回の記事に関しても「安全性には疑問がある」と繰り返す。しかしながら、これは世界でのワクチン戦争で先手を打たれてしまったことに対する、反撃でしかなく、ロシア対西側諸国で今後勃発するワクチン販売競争における、一発目の対立に過ぎない。世界人口60億人に対して、ワクチンをどうやって効率的に販売し、自国の製薬会社がどうやって設けるのか、ここに支配層の大きな興味があるわけで、ロシアがワクチン接種を開始するというニュースは西側諸国にとって気持ちいいはずがない。一方で、ロシアとしては安全性を少し犠牲にしてでも、全世界に対して誰よりも早くワクチン接種を行うと宣言する事が、最大の宣伝効果である事がよく理解できていると感じるニュースではある。

ロシアにとっては、ワクチンによる副作用が国民の、例えば0.01%に影響があるとしても、この段階で誰よりも早くワクチン接種開始のニュースを宣伝する事が、今後のイニシアチブを握るためにも重要であったわけだ。

主には米国とロシアの対立が背景にあるわけで、ワクチン開発競争のイニシアチブを争う戦いは始まっている。上述のように副作用が確率的に低い場合は、目をつぶって一般販売を開始するケースはこれから多く出てくるかもしれない。安全性を担保する治験というテストがあり、国にはそれを法律で縛る権力があり、実際法制化されている。しかしながら、自国の製薬会社の利益と言う広い意味での国益と、国民の安全性と言うものはこのケースでは二律背反してしまう事になるので、注意が必要か。我が国の厚生労働省が冷静な判断を下すことを望む。

大手製薬会社が得る事が出来る利益は、今回のワクチンは相当なものになる。そういう観点から、ウイルス自体が人為的なものだったのではないか、とかいう陰謀論も湧いてくる。例えば、1960年代、70年代のアメリカでは健康疾患が出やすいダイエットフードを発売したとか、クレジットカードを世に広めていく時には実験によりクレジットカードによるショッピングは麻薬と一緒の効果があるとわかってやっていたとか、時に一個人の健康よりも企業の利益が優先されるのが、この資本主義と言う仕組みでもある。

世界を変えた14の密約

話をロシアに戻すと、ロシア、中国と共産圏もしくは旧共産圏的にな思想は全体主義的な発想を持ちやすいと思われ、国民一人一人の命の価値は我々が考えるよりも相対的に小さいかもしれず、旧共産圏資本主義と言うのは全体主義的な利益至上主義と言うナチス以上に厄介な仕組みになってしまうのかもしれない。人権をないがしろにしながら利益を追求してしまうと、モラルハザードを超えてしまい、取り返しのつかない商品、開発、そういったものが行われる可能性があり、そこをバランスするような機能の開発、具体的には国民による監視、国際社会による監視が必要になってくるのだろう。

民主主義とは

2020年8月5日の日記より

民主主義とは

そもそも民主主義とは民というのは民衆の意味であり、民衆が物事の中心となり意思決定をしていくという仕組みである。日本で言うと、議会の選挙があり、民衆の中から代議員という代表者が選出され、彼ら民衆の代表者である代議員が行政の長である総理大臣を選出する。行政の長は組閣権を持ち、行政府の長を選出するという仕組みになっており、立法、行政においては確実に民主主義と言う仕組みで実行されているのは間違いない。

民主主義とは何なのか (文春新書)

長谷川氏の著書によると、民主主義と言うのは、寡頭制政治のような形態、独裁制のような形態、これらがシステム不良を起こして循環していく中での統治の一形態である、という位置付けであった。寡頭制政治というのは少数ながら複数の識者や賢者と呼ばれる人間が、現状把握、将来の見通しを考えて意思決定を行っていくシステムである。日本で言うと江戸時代の老中のシステムは近いところがあるかもしれない。しかしながら、例えば飢饉、天災等の国家経営に関わる重大事故が発生した時には、しばしば少人数の老中の間でも意見の対立が起こる。これは現代の政治でも言える事だが対立における根本的な問題は、優先順位と時系列の見方の問題であり、これが対立軸になるのだが、双方の立場においては論理的に正しい主張となるので、結論が出ないと言う事がしばしばおこる。優先順位と言うのは、例えば財政規律と、困窮者の支援、どちらを優先するかという問題で、基本的にはどちらも正しいが、相対する方向性である。また、時間軸で言うと、20,30年後の巨大地震のために税金を投入してインフラ整備を行うか、2,3年後の需要急増のために物流インフラを充実させるのか、これらも予算配分において対立に陥りやすい。そういった対立状況に陥った時に決定を行うのは、先の江戸時代の話で言うと、大老か将軍と言う事になる。

こういった危機における政治では、問題点が続発する事になる事もあり、対立軸が多くでき、意思決定のために、政治が専制化しやすい。意思決定がなければ生活困窮によって死んでしまう人間が出てくるからである。そういう過程を経て独裁的な政治に移行していく。これは独裁者が「独裁をしたい」という意思を持って始まる政治と言うよりは、恐らく先に述べたように独裁的な意思決定が必要となるから生まれる統治機構なのだと思われる。独裁政治においては、迅速な意思決定により目先の問題を解決しやすくなり、短期的には非常に良好な政治運営を行える可能性がある。しかしながら、中長期的には権力の固定化により、富の固定化や、ねじ曲がった意思決定を監視する機構の弱体化、という問題が発生してくる。特に後者について、政治における問題と言うのは前述の通り相反する対立軸のどちらかを選択するという意思決定が必要であるが、独裁者の志向により偏った意思決定の数が増えていく可能性があり、統治されている国民すべてもしくは過半数が納得する意思決定を常に行えるわけではなく、国民側から独裁者に対する批判の目が増えてくる。特に、独裁政治に移行した直ぐ後は迅速な意思決定によって、目の前の問題を迅速に解決していた姿を目の当たりにするので、こういった国民からの批判が出てくるのはある意味では避けがたく、さらに時間的にも比較的早く不満は充満していくのであろう。フランスの市民革命なども良い例である。

そういう状況が起こると、国民の多くもしくは過半数が「自分たちで意思決定したほうが良いだろう」という考えを持ち出す。これがまさに市民革命であり近代的な民主主義の始まりである。我々現代を生きる人間にとっては、民主主義と言うのはごく当然の「正しい」価値観として捉えられているが、こういった流れの中での統治の一つのシステムである。一見すると、みんなの意思を確認して多数派の意思決定を受け入れるという平等な制度に見えるが、政治と言うものの本質を考えた時には非常に怪しいシステムでもある。

問題点は二つあり、一つ目は、意思決定を行う人間の知識、経験、能力の問題である。中国では昔、科挙と言う試験を行い優秀な人材を行政官として活用していたが、行政を行う人間と言うのは、知識、経験、能力が必要であり、誰でもできるわけではない。国の意思決定においても同じであり、国家100年の計を決める人間が、行政の仕組みや、過去の統治機構を知らずに、意思決定を行うことは出来ない。江戸幕府で言えば、老中や官僚となる武士たちは、小さなころから国民とは別のレベルの教育を受けて、意思決定を行う身分となって行った。しかし現代の民主主義と言うのはこれとは違い、日本で言えば年齢が20歳になれば、教育が有ろうとなかろうと意思決定に等しく参加する事が出来、これを集計して民意として、民意で意思決定を行うシステムなのである。多数決をしておけば、正しい意思決定が行えるという前提に立っているのかもしれないが、これがそもそも非常に怪しく、国家として正しい意思決定を出来ているのか、特に21世紀に入ってからの民主義国における意思決定については大いに疑問が出るところだろう。

もう一つの問題は、民衆というマスの人数が意思決定を行うには、投票、選挙と言う仕組みが不可欠であるが、そうなってくると扇動家というのが必ず出てくるという事である。これは現代の職業政治家と意味的にはほぼイコールであるが、知識、経験、能力が乏しい民衆を扇動して、自身の都合が良い意見に導こうとする人間の事である。これを行う人間は非常に巧みに行い、人心を惑わして、都合よく意思決定に導く。さらにこれがエスカレートしていくと扇動家同士の争いになり、ここで大衆迎合的な政治が生まれていく。今まさに米国では大衆迎合的な選挙戦の最中であるが、人気がある扇動家が権力を握る事になり、そういう人間は知識、経験、能力に乏しい人を引き付けるために、短期的な利益につながる政策を中心にこなすことになる。そうなると中期、長期的な政策がないがしろにされる事になり、恐らくは中期的に破たんの道に進まざるを得ないのだろう。

こうして新たな危機が生まれて、民主主義が否定され、また識者、賢者による統治に移行せざるを得ない状況になっていくのだろうが、次回は大衆迎合政治が生み出すジレンマについて、話を進めて行きたい。

日本のお辞儀は合理的

2020年8月6日の日記より

日本のお辞儀は合理的

New York Timesの記事で、米国の大手ホテルチェーンであるHiltonグループが、マスクをしているホテルスタッフが顧客への経緯や謝意を表す手段を模索中という記事があった。口元を隠されると笑顔を見せづらく、Smileが売りだった米国の接待方法が崩れるという事だろう。ホテルではSmileだが、欧米の握手やハグによる挨拶は今回の感染症の感染拡大に一役買ったという言い方もされている。欧州では肘をぶつけ合うあいさつに代えようという動きもある。

そもそも動物である人間と言う意味で、動物の同一種でのコミュニケーションだが、体をこすりつけあったり、言葉を話さないがゆえに、体の接触でのコミュニケーションが中心なのだと思う。これはお互いに敵意がない事の証明にもなるだろうし、においなどで相手を識別するという意味でも有効だったのだろう。その流れから言って、人間が体の接触による挨拶を行っている事も違和感はない。

感染症の日本史 (文春新書)

しかしながら日本を含む東アジア、広く言えば中国文化圏では握手でさえも一般的では無いと言える。中国、台湾、韓国、日本でもそうだが、タイやインドネシアでも積極的に握手をしていた経験は無い。タイでは両手を胸の前で合わせてお辞儀をする挨拶が一般的にみられる。これだけの事実からだと非常に大胆な推測になるが、他人との接触を避ける事で伝染病の拡大を避けていた、そういう歴史がこのような文化を形成したのかもしれない。

日本では平安自体から天然痘などの感染症が広がった事実が文献などから確認されるそうで、そういう意味でも直接的な接触を避けたのかもしれない。

日本では古来、穢れという思想があったというのが井沢元彦氏の著書での主張であり、筆者も大いに同意する主張となっている。穢れの思想は現代でも日本に充満しており、死についての会話を避けたり、死んだ動物を見るのも避けたり、科学的根拠がなくても必要以上に死や汚れ、穢れを避ける場面は現代でもよく見られる。病原菌やウィルスの存在が分かっていなかった古代、日本で言うと平安時代やそれ以前の時代には、例えば天然痘が流行るのは穢れが蔓延する事だと恐れられ、特に感染者やその病による死者を遠ざける事に精力を傾けていた。そんな時にハグをしたり、握手をしたりと言うのは合理的ではなかったのだろう。

欧米との違いがどこにあるのか、この点が重要だが、恐らくは集団の形成方式の違いが大きいのかと思われる。俗に言われる狩猟採集民と、農耕民との違いではないか。農耕民族は比較的人数の多い集団による組織を大事にする傾向があり、日本はムラ社会だと言われる事が多い。一方欧米は個人主義とよく言われる。狩猟採集も集団で行う必要があるので、個人主義と狩猟採集民がどこまで結びつくのか微妙ではあるが、相対的に見た場合には、農耕民の方が集団生活で生きる必要性は高かったと思われる。そんな中、伝染病と言うのは集団を殺してしまうものであり、伝染病により社会が死んでしまうリスクが農耕民社会においては高くなる。そういう危機意識が直接的な身体接触を避ける方向に働いたのかもしれない。

さらに言うと、日本は世界でも有数の自然災害大国であることも、ムラ社会を作り、その社会生活の基盤を守ろうとした原因かもしれない。日本は、まず火山が多く、地震が多い。これはプレートの位置から見ても止むを得ず、同じような境遇なのはインドネシア、ニュージーランド、アイスランドが主なところではあげられる。2011年の大地震のような地震や、大津波、こういったリスクに常にさらされている土地である。また、日本の場合は大陸との距離が近い事、赤道との距離感、これらが影響して雨が多く、火山でできた急峻な土地が多い国土において、洪水が発生しやすいというのもプラスされる。火山、地震、洪水、これだけでも世界有数の災害大国だと言えるだろう。10年に一度、50年に一度、100年に一度、2011年の大地震は1000年に一度とも言われる。こういった災害の記憶と言うのはどうしても薄れてしまう。ただ、例えば古くて現在も残っている神社が災害の被害を受けづらいように、何らかの痕跡は残っているもので、例えば集落が昔からの土地に存在する場合、そこから離れたところに家屋を構える事は、日本では自然災害のリスクにさらされる行為になるのである。2011年の津波の被害を見ても分かる通り、これは生死にかかわるリスクであり、日本では集団を維持する方向、またはみ出し者と言われる人間が出ずらい環境、こういったものが形成されていったのではないか、と自然災害の面からも推測が出来る。 これらを踏まえても集団で生きる事の重要性と言うか、集団を形成しないことのリスクが高い国であり、そういった面からも身体接触を挨拶において避ける方向に日本が進んでいたことが、欧米との比較において考えられるのである。