銀行というビジネスモデル

銀行業界は90年代に合併を繰り返して一応プレイヤーの数は減少した。メガバンクしかり、地方銀行しかりであり、よくわからない銀行名が増えたり、無理やり語呂合わせみたいなロゴにして旧社名を一部残すような例もあったりする。銀行の名前自体には興味はないが、銀行の業績ということに関しては、昨今の金融緩和による低金利の時代において、非常に厳しいと言わざるを得ないだろう。

かつては就職先としても安定した就職先の筆頭候補であり、金融インフラを担う業態として、安定した業績を誇っていた。裏を返せば金利が一定程度あり、地域や昔からの融資先が存在していれば、特に何もしなくてもある程度の利益が出る体制が確立していた。

それがバブル崩壊、アジア経済危機などの90年代の問題を経て、銀行規制緩和が00年前後に行われたことも相まって、ビジネスモデルが崩壊した。これが一回目の危機であり00年前後は確か、拓銀の破綻なんかもあり1000万円以上の預金については保証されないかもしれないので、取り付け騒ぎが起こるかもしれないというような話も出るくらいであった。

その後のリーマンショックを経て、現在も日本はゼロ金利であるが、次の波はフィンテックである。この環境下において、銀行の存在感は益々希薄になっている。電子マネーの存在が、まずは銀行の預金を維持するという機能を削っている。給与もペイペイで払うというような話も出てきているし、セキュリティーさえ担保されれば、既に銀行口座に入金させる必要性はない。ATMの手数料などは非常に時代遅れに感じる。Yahooや楽天が自社のサービスとの連携のために、電子マネーでの手数料は必要ないと判断するのは当然であり、自社の経済圏という発想を持つ人に、この分野で銀行が太刀打ちできるはずもない。

これはAMAZONやGoogle、Appleにも言える話であり、これらが自社の経済圏への取り込みのために電子マネーを運営し、お金のやりとりにいちいち手数料を取らない仕組みを確立しつつあり、個人の日々の資金管理という意味において銀行の存在意義は既にほぼない。唯一あるのは銀行の規制において、銀行が破綻しても1000万円の預金は保護されるというような国が保証している仕組みであるが、これも例えばAMAZONが破綻するリスクを考えると非常に小さなものであり、事業者の規模を考えると既に無視できるような条件になりつつあるのかもしれない。

企業のファイナンスにしても、20世紀と比べると多様化が進んでおり、現代のようにこれだけ資金が余っている世の中になると、融資の出し手としての銀行の存在感も薄まっている。特に優良な企業においては資金繰り方法は多様であり、それらの会社を取り込む競争は苛烈になっている。そうではなく中小の破綻リスクのある地元の企業には銀行に対する資金需要は引き続き存在しているが、そもそも破綻リスクがあるような会社であり、融資を伸ばしていくような環境にはなく、収益の先細りは避けられない。融資を伸ばしたい会社は先にも言ったが資金繰り方法は多様であり、彼らには銀行はいらないとも言え、ここにもビジネスモデルの破綻が見える。

アマゾン銀行が誕生する日 2025年の次世代金融シナリオ

ここのアマゾン銀行が誕生する日という書籍ではないが、2025年頃まで行くとフィンテックの進展も加速度的になっているだろうし、旧来の日本の銀行のビジネスモデルは崩壊するであろう。一部の大企業向けの融資を行うメガバンクは今のまま残る可能性はあるが、規模は縮小するであろう。また、地方銀行はこれからも合併を繰り返さざるを得ない。

金融というのはフィンテックの進む余地が一番多くあると思う。なぜなら、そこには物のやりとりがないからである。そもそも銀行券という実態は紙であるものに対して信用を付与して価値を出しているものであり、信用を付与できるのであれば、それは紙であろうが、電子情報だろうが変わらない。石油や、コメとの大きな違いである。そう考えるとフィンテックに出遅れている金融機関は生き残ることができないし、日本の銀行はその分野において周回遅れどころか、アメリカや中国に比べると3周くらい遅れている。

昨今トラブル続きの某メガバンクなんかも2,3年もすれば市場から退場するよう圧力が出てくるかもしれない、それこそ、アマゾンやFacebookの傘下になっていてもおかしくない。それくらい既にメガバンクの存在は不要になりつつあり、銀行のビジネスモデルは破綻していると言えてしまうのである。

経済支援と副作用

スペインが中小企業対策に数兆円の国家予算を充てることを決めたり、日本でもひとり親世帯への支援が決まったり、コロナによる経済の変調が始まってから一年経つが、引き続き税金の投入による経済の下支えが行われている。

米国は顕著であり200兆円とも言われる予算が議会の承認を得たので、近々一人当たり$1400の現金が支給されることになる。もちろん副作用についても議論はなされているが、この1年間を振り返ってみると、例えば米国でいえば最初の$1200支給、年末の$600支給がなければ、失業率の高止まり、消費のさらなる低下、株式市場の下落というか崩壊、それらが起きていたのではないか、とは思わせる。

以前にも書いたが税金の投入によって経済のショック死的な状態を避けるというのは賢明な策ではあると思う。激変を緩和することで生活を維持できる人や、経営を維持できる人が多く、その人たちの緊急避難には寄与する。これは災害時に税金で困った人を助けるのと似た仕組みであるという意義があり、財政政策としても批判が出ないのだろう。実際、東日本大震災における復興税は莫大なものであり、先ごろ報道されていたが、被災地の原発から30㎞内の被災者は家庭当たり4人家族なら1億円近くの支援金が投入されている。その報道によると、1億円で豪邸やレクサスを購入した人も多数おり、批判を呼んでいるようだが。

難しいのは、政策には機動性がないが、経済は日々変わっているということであろう。また、政策というのはある程度、例えば支援する対象を均一化して見ないと、大人数への政策決定ができないということもあり、この二点のギャップが正しい財政政策を拒む要因となる。

まず時系列の機動性であるが、緊急の危機の時には、緊急的な財政出動が必要になる。20年の春先のトランプ大統領の一人当たり$1200の政策決定は早かった。経済が急激な変調をきたし、議会も早急に承認した。皆の意見が一致していたから、とみることもできる。一方で、今回の200兆円については11月の大統領選挙前後から案が出ていたが、大統領選挙、就任式、官僚の入れ替え、議会選挙、これらの要因があり、ようやく3月に成立した。11月の株価と3月の株価を比べるだけでも顕著だが、状況は変わっている。そこに政策立案者のプライドや、バイデン大統領自身の公約に対する責任、という他の要素が絡んできてしまうので、政策決定が最適なものでなくなってしまう可能性がある。これがインフレを加速させて、金利上昇を招く可能性があるという論調があるが、政策の機動性が欠けたことによる弊害であるだろう。

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もう一つは先ほどの東日本大震災の例ではないが、本当に必要な人に必要な分の復興支援となっているのか、現在のコロナ禍でいうと本当に経済の激変の影響を受けた人は誰なんだろうか、この点は非常に難しい議論であり、オーダーメードで個人向けの救済は現実的ではなく、ある程度、ひとくくりにしてしまう必要がある。そこでのくくり方に政治的なセンスが出てくるわけで、Go to キャンペーンなどは前政権のセンスであろう。これはくくり方としては筆者はセンスはあったと思っているが、ちょっとキャンペーンで政府が払う支援額が多すぎるので、需要が高まりすぎたきらいがある。それくらい旅行業界の惨状がひっ迫していたともいえるが、結果としてはその後のキャンペーンの停止につながってしまったので、そこは議論の余地がある。飲食業界への支援金についても機動性という意味では仕方がなかったのだろうとは思う。

本当はこれらの政策の副作用についてと、税金と国民の利益の関係についてもう少し書きたいところだが、これはまた時間をおいて、書いてみたいと思う。

災害と税金

日経新聞によると2011年の東日本大震災以降、復興のために10年間で約38兆円が税金から使われ、10年間でインフラ整備、防災設備の整備、これらがかなり進んだということだ。もちろん、あの甚大な被害を見ると、この投資は必要なことであり、38兆円が費やされたことに対しても異論はないし、毎年復興税を支払っていることも止むを得ないことではあると認識している。

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38兆円というと計算を簡単にするためににほんのじんこうを1億人と考えると、一人当たり38万円ということになる。4人家族だと152万円ということになり、年間15万円、月にすると1万2千円強の負担になる。これを多いととるか少ないととるかは個人の考え方次第ではあるが、日本という地震を含む自然災害が多い国土に住む以上、どこで起こるかわからないという意味では、皆で平等に負担するのが最適ではある。

翻ってコロナ対策費用である。米国では200兆円の新たな予算に議会の承認が得られたということで一人当たり$1400の支給がなされるようだ。アメリカの人口を4億人とすると$5600億ドルであり約60兆円はすぐに国民に還元されるという計算になる。$1400の相対的な価値は貧困層の方に大きく、機動的な対応で困っている人に助けが行くという観点から、この政策は妥当だと思う。

しかしながら、残りの140兆円はインフラ整備や環境関連投資、いわゆるグリーンニューディールに向かっていくことになり、ある程度一定の産業や企業に恩恵が行くことになる。これは自由主義を国是とするアメリカにとって恐るべき変化と言えるだろう。民間の活力を失わせるリスクと、アメリカの最大の強みで合った企業の新陳代謝を鈍らせることにも繋がる。

これはイノベーションと国家管理という関係性で考えると見えてくるが、経済の成長期においては官僚主導で方向性を決めて、ある意味国家が管理して成長を則す、これは日本の高度経済成長でもそうだったし、中国の成長期も、東南アジア諸国の成長期でも見られたことである。一方で資本主義が成熟している特に米国では国家の経済、民間セクターへの関与は最小限にしてきたのが歴史だととらえているし、それがアメリカ人のある意味誇りであり、だからこそイノベーションが次々と生まれる社会が生み出されたのだと思う。西部開拓時代のイノベーティブな発想は、国家の管理ではなくゴールドラッシュを求めた人々の夢が生み出していたのである。

だからこそ、ゴールドラッシュ以来の文化の大転換とまではいわないし、もちろん大恐慌の後のニューディール政策のような局面もあったわけで、アメリカが国家関与の経済を持った経験がないわけではないが、この予算規模は非常に大きい。国家の関与というのは一見公平なようで、小さなひずみが大きな不公平感の実感につながる危険がある。国家が関与していないときは小さなひずみはある意味仕方がないととらえられるが、国家が関与してもひずみが残る場合国民の不満につながる。その不満が限度を超えた社会が共産主義だったはずであり、アメリカが一番嫌っていた政治体制である。平等を煽れば煽るほど、国家権力は綱渡りでの経済への関与をせざるを得ず、失業率が下がりきっていないアメリカ社会では、今後の火種は燻ぶったままとなるだろう。