デフレの足音

本日の新聞に都内の路線価が下がっているという報道が出ている。訪日外国人が消えてしまったことで特に観光地、浅草や秋葉原のような場所での下落が顕著であると書いてある。一方で緩和マネーの影響で下がっていない場所もあるという報道であった。

今後の不動産価格を見るうえで、大きな点は上記の二点に加えて、共働き世帯比率の上昇一服、この三点になるだろう。訪日外国人、緩和マネー、国内の共働き世帯比率の三点である。以前にもここに書いたが、国内の共働き世帯比率はここ10年で大幅に上昇した。周りを見ても寿退社という言葉は死語になりつつあるし、10年前と比べて育休、産休を取得する人の数も圧倒的に増えている。ただ、結婚、出産のピークである30代の人間は既にそういった文化に変化しており、今後さらにこの比率が大幅に上がることはないだろう。

世界を変えた14の密約 (文春文庫)

この共働き世帯比率の上昇は特に都心の利便性のいいマンション需要を支えた。ダブルインカムで、保育園等の利便性が良く、通勤もよい立地、というのは、こういう世帯に重要視されるわけであり、その絶対数が増え続けたことで、ここ10年の不動産市況を支えたと言える。

訪日外国人観光客についても、ここ10年で大幅に増えた。都内にも例えば大阪、京都、名古屋、福岡、札幌という大都市にも、規模に関わらずものすごい数のホテルが立てられて、免税店やその他の観光客向け施設が多くなった。10年前の訪日外国人は600万人程度であったが、2019年のコロナ前には3000万人に達し、4000万人を目指していた。この訪日外国人が日本の経済を下支えして、不動産価格を吊り上げていった面はある。日本はいつしか観光立国になりつつあった。

コロナで訪日外国人需要が吹き飛んだわけであるが、そこを下支えしたのは各国で行った超金融緩和である。日本だけではなく、米国、欧州、その他の国々も緩和に走り、株式市場、債券市場、不動産市場の下支えに走った。その効果として、アメリカ、カナダ、韓国、豪州、一部の欧州では現在過剰なインフレとなりつつあり、特に不動産価格の急上昇は国民生活に悪影響を与えるレベルにまで達しつつあり、それがあるので現在テーパーリングというか緩和政策を終えるタイミングを探し始めている。これらの国では、経済の落ち込みを、緩和マネーで一時的に救済、インフレを起こして、緩和を辞めて正常化、というプロセスをもくろんでいるわけで、基軸通貨である米国はある程度この思惑通り進めるだろう。

一方で、その他の国は自国の経済政策よりも、米国や主要国の経済政策に振り回される。牽引ボートとバナナボートの関係見たいものであり、牽引ボートが左右に少し動いても、バナナボートは大きく左右に振れる。米国がテーパーリングをし始めると、緩和マネーの逆流が起こり始める。米国経済の過剰なインフレを冷ますために行われるので、米国では適切なインフレ率に戻るまでテーパーリングを行うのだろうが、これが他国にとって適切なタイミングとなるかは程度に差がある。新興国では恐らくデフレが始まってしまうであろう。彼らはもう少し長く緩和的でいてほしいのだが、米国は過剰インフレを我慢できなくなり、新興国のことは無視してでも自国のインフレ率を適正に保とうとするであろう。

日本はどうなのかというと、日本はワクチン接種が遅れたという要因はあるが、これは時が解決するだろう。一方で、訪日外国人が蒸発したことによる需要減があり、これはタイや南欧諸国と似たような事情であり、この分の回復がなされていないことで、インフレ率が米国ほどは上がらず、まだまだ苦しい時間が続きそうだ。そのタイミングで22年中ごろにでもFRBが利上げを行うことになるとどうなるか。日本にも還流していた緩和マネーが逆流することになり、そこからは新たな失われた10年とまではいわないが、一定程度のデフレ社会が復活するのではないだろうか。訪日外国人が2000万人と可まで回復するのであれば避けられる可能性があるが、それまではデフレ気味な世の中になると予想しているわけである。

リベラルの不可逆性

婚姻については近年晩婚化が進んでいるのは間違いない。厚生労働省の労働白書にも書いてあるし、実感として結婚する人の年齢が上がっている。だからといって結婚できない人が増えているかというと、選択的に結婚をしない人が増えていることもあるが、全体の流れとしては自由な恋愛、自由な結婚ができる幅が広がっているので、結婚自体は望めばしやすい環境になってきているのではないだろうか。

勿論、経済的な面や仕事の面で結婚できない人がいるかもしれないが、例えばここ50年とかのスパンで社会の変化を見たときには、リベラルな方向性というのは確実に進んでおり、自由な恋愛、自由な結婚という幅は広がっているのは明白である。

例えば国際結婚であるが、これは筆者が子供の時は都内の小学校に通っていたがいづれかの親が外国籍である人、俗に言われるハーフの人は非常に珍しかったが、娘が今通っている小学校には複数いる。もちろん、地域性なんかもあるかもしれないが、例えばスポーツの世界を見てみても、外国籍の親を持つ選手の活躍はここ20年とかのスパンで見ても大幅に増えているように感じる。

これらはリベラルな思想の影響というと大げさではあるが、戦後民主主義という米国主導で始まった日本の民主主義はどんどん民主化、リベラル化する方向で進んでいる。これは世界的な傾向でもあるが、ある意味自由主義的な、ある意味個人主義的な、何物にも縛られないで生きることを最重要視するような文化である。

これは個人にスポットを当てると非常に過ごしやすく、居心地が良いので、世の中はリベラルに行く方向性であり、長いスパンで考えると今の政治体制、すなわち民主主義という観点から言うと、不可逆的であろうということが言える。自由を享受した国民は、自由が後退することは許容できないし、さらなる自由を求めるのである。

民主主義とは何なのか (文春新書)

しかしながらここには危険な点も潜んでいる。民主主義のもっと根本原理である、国民の間での助け合いの概念というか、ここの部分をむしばんでしまうという矛盾に行きあたってしまうのである。民主主義を追求すると、個人の権利が拡大される方向に行ってしまい、個人が自由を得るようになり、さらなる自由を要求する。そして一定以上に自由になった国民は他者の事よりも自分のことを追求することに重きを置くようになり、やがて国家という事には思いを馳せなくなる。民主主義というのは国民全員が参加してこそ、最大限の効力を発揮するシステムであり、例えば徴税に応じない国民がいると平等が担保されなくなり破綻に至る。

破綻に至るプロセスは色々あり、徴税を免れるように権力を操作したり、議会を扇動したり、国家の活動に制限を与えたり、効率性を落とすように策略していくことに繋がる。そうすることによって国家としての活動、例えば、防衛、警察、インフラ、が不十分になっていき、破綻をきたすようになる。もしくは破綻をごまかすために戦争に走るのである。

机上の論理のようなことを書いているようであるが、この不可逆的なリベラル思想が進み過ぎてしまった社会はどこか現在の米国社会であるようにも感じる。特にトランプ政権を支持していた層は、まさに法人税率を低減して、テック企業の徴税逃れもそこまで追求せずに、そんな中、特に警察権力の失墜、インフラの致命的な老朽化、これらの問題を抱えており、国民国家としての危機に瀕していた。

バイデン政権になって反動があるので少し民主主義が引き締まったように感じられるが、あくまで反動であり中長期的に見たら、リベラル化は不可逆的である。欧州や英国でもこの民主主義の行き過ぎに指導層では危機感を感じており、GAFAへの課税強化、最低税率の上昇を議論しているが、自由を叫ぶ国民や民間企業に勝てるのだろうか。民主主義という国民主導の政治体制を維持したい体制側と、民主主義の恩恵を最大限に生かしたからこそ破綻に向かっているという事実を認識しているのかしてないのか分からない国民側に、大きな溝ができつつある。そう考えると民主主義というのが古代ギリシャでは「怪しい政治体制」と論じられていたことも納得がいくわけであり、そもそも矛盾をはらんでおり、長期には継続できない政治体制なのかもしれない。フランス革命から200年以上経つわけであるが、強権的な政治体制が優勢になっていくのが大きな流れなのかもしれないし、それをごまかすためにとれる策は戦争でしかないのかもしれない。

マンハッタン計画

現在ジョン・フォン・ノイマンの伝記的書籍を読んでおり、彼が如何に天才であったかという点を興味深く感じている。ゲーム理論等、彼が物理学、数学等の分野で成し遂げた業績はいくつかあるが、有名なところではマンハッタン計画で原子爆弾を開発することに尽力したという事だろう。ウランが原子崩壊というか分裂する際に強力な中性子線が出されて、巨大なエネルギーが解放されることが分かり、マンハッタン計画を進めていった。

世界で日本の広島と長崎にだけ原子爆弾は落とされたわけであるが、書籍によると1940年前後まではナチスドイツの方が原子爆弾の開発は先行していた模様である。しかも2年分ほど先行していたということだ。

そこでの予算配分が米国のそれと比べて、ナチスドイツは大胆にはいかず、結局開発は達成されず、原子爆弾を活用することもなかったようだ。しかしながら、歴史のIfにはなってしまうが、先行して開発が完了していた場合は、歴史は大いに変わっていただろう。

ナチスドイツ、ムッソリーニイタリアが戦局を優位に進めた可能性が出てくるのである。1943年までにロンドンやパリに原子爆弾を投下していたら、アメリカは太平洋戦争だけではなく、欧州戦線でのフォローもしなければならなかった可能性があり、日本の歴史も変わっていた可能性がある。例えば、ハワイが日本の領土であったり、フィリピンの一部、韓国、サハリン、千島列島、これらも日本の領土のままで終戦を迎えていたかもしれない。

これらは単なる想像のなかでの遊びでしかないが、こういった事を考えられるくらい、原子爆弾の開発は戦局を左右する事実であり、ナチスドイツを中心とする枢軸側が負けた一つの要因なのかもしれない。

ここで何故ドイツは予算を割かず、米国は当時大規模な予算を割り当てる方向にかじを切ったのかという疑問がわくが、当時の文化というか政治にもなるが、アカデミズムを重視しているかどうか、この差が一つの要因でもあったように感じる。

ドイツは折からのユダヤ人迫害により、学者であっても公職から追放する方向に舵を切っていった。優秀なハンガリー人の学者であるフォンノイマンも然りであるが、アインシュタインなどもアメリカへ移住することになった。米国はアカデミズムの権威が戦時中も保たれており、ナチスドイツは全体主義的に天才なども排除してしまう方向に行ったわけである。

これはアカデミズムという戦争や経済とは縁遠い分野の話のように聞こえるかもしれないが、プリンストン研究所を中心に優秀な学者を世界中から集めて原子爆弾の開発に成功した米国と、国民結束のために国内にユダヤ人という敵対勢力を作り、全体主義的な発想で天才的な個人であっても排除していったナチスドイツ、この差が原子爆弾開発速度の逆転を招いたことは事実なのであろう。第二次大戦の勝敗を分けた要因はいくつもあるだろうが、この点も一つと言えるのではないだろうか。

フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔 (講談社現代新書)

多様な個性、天才の頭脳、こういったものを積極的に生かそうというのは現代のアメリカ社会にも通じるところがある。日本はどうかというと、天才を伸ばすのではなく、劣等生を何とか平均にもっていく教育を重視し、天才や優等生を社会の歪みとすらみなす風潮はありはしないだろうか。天才的な変わった人間を排除してしまう社会は偏屈で視野の狭い社会で望ましくないが、日本社会にはそういった面があるような気がしてならない。特に戦後の人権、平等、意識の過剰な高まりにより、以前にも書いたような過度な平等がポリティカルコレクトネスを持つような雰囲気があり、とがった人材が伸びずらくなってる社会であると感じる。