木を見る森を見るか

2020年9月10日の日記より

木を見るか森を見るか

多数派の意見を採用しようとするのが俗に言われる民主主義のメカニズムである。一方で、多数派の意見が正しいという確証はなく、少数派の意見を聞きながら、例えば政治であれば政策を決定していく事も、多様性という観点からも重要ではある。全体主義的な意見だけでは、将来の方向性を見誤る可能性もあるし、少数意見だから間違っているというレッテルを張ってしまう事で、人権がないがしろにされてしまう事もあるだろう。そういう意味で多数派、少数派、それぞれの意見が大事なのは言うまでもないのだが、多数派の意見なのか少数派の意見なのか、これを意識しながら意見を聞くことが大事である。

最近特に立ち位置を曖昧にしたままの報道が目立つ感じがある。Yahoo Newsとか複数の報道機関のニュースを纏めて並列で閲覧できる媒体であったり、ワイドショーというか情報バラエティというこれも似たような性質を持つ報道形態が増えているからだと思われる。これらの報道形態は、例えば、新聞で言うと、読売、産経、毎日、朝日、日経の記事をつまみ食いして、独自の取材は無しで、大媒体として展開してしまう。以前は、例えば家庭には一紙の新聞購読があり、例えば読売なら読売、朝日なら朝日という情報ソースが限られがちだったところに、Yahoo newsなり情報バラエティーがつまみ食いした情報を山盛りにして送ってくれる、という意味で、個人が得られる情報の量は増えたと言う事は言えるのだろう。

しかしながら、報道各社の立ち位置というか、例えば少数派の意見を意識して報道しているタブロイド的な新聞社の意見と、中立的に報道しようとしている某大手新聞社、リベラルを自任しているような大手新聞社、そういった各社の立ち位置が見えないままに、報道を受け入れてしまっている現状があるのではないだろうか。情報量が増える事は読者である個人にとっての安心感にはつながったのだろう、そしてそれが原因でこういった纏め的なメディアが存在感を高めたと言う事は言えるのだが、イデオロギーにしても数の論理にしても、統制が無くなっている。

この状態は民主主義というものへの大きな壁として立ちはだかる事になる。民主主義というのは冒頭で述べた通り、最後は多数決で決めよう、というルールである。多数派を形成できる意見が勝つというものである。利害が対決する陣営同士が決着を付けようとした場合に、民主主義のよりどころは数の論理になってしまうのである。しかしながら、少数派の意見が従来以上に取り上げられるようになり、マスコミは激しくとんがった意見や運動を面白おかしく取り上げる事で注目を浴びやすい面もあるので、少数派の意見が簡単に市民権を持つようになり、これがあたかも大多数の意見であるかのようになりやすくなっている。

例えば、日本の報道ではトランプ大統領を支持しない勢力でアメリカは満たされているような印象があるが、FOXニュースを見ればわかる通り保守層、トランプ支持層は確実に存在しており、むしろ支持率が40%前後以下にならない、所を見るとかなり強力な固定支持層がかなりの数いる事になる。報道されている事柄が、どれくらいの指示を受けている事柄なのか、注意をしている必要がある。 少数派の意見が市民権を持ちすぎる事になると、その主張者は、例えば選挙や政策決定投票で負けた時に、この負けを受け入れづらくなる。

本人は市民権を得た事によって、賛同者が多く感じ、自分の主張の正当性も裏書されているという思い込みが働きやすくなるからである。今度の米国大統領選挙についても言われる事であるが、もしトランプ大統領が敗北したとしても、トランプ陣営はそれを認めないのではないか、という予測もある。これはこの大統領選挙に限った事ではなく、今後ますます数の論理で決まる事を受け入れない勢力は増えていくだろう。少数意見をブログやSNSで発信しやすくなっている事もこの動きに拍車をかける訳であり、少数意見の数の増大、市民権の獲得の速さ、少数意見当事者の思い込みと正当性に関する過信、これらの傾向が進んでいくと、政策決定における多数決が機能しなくなっていく事に繋がり、民主主義は崩壊していく事になる。そのあとの世界は、武力なのか財力なのか、知力なのか分からないが、どれかに秀でた集団が統治するような、寡頭制政治的な、スターウォーズの元老院的な政治形態に移行していくのかもしれない。独裁的な政治は嫌うが、民主主義では政策決定が出来ない、となると何か客観指標で政治参加者を限定して政策決定をしていかざるを得なくなるのではないだろうか。

公と私

公と私

人間誰しも自由を求める願望はあると思う。社会において自由を求める、というのは公共における私の追求に繋がるところがあり、権利と責任の関係のようなものだ。例えば混雑する電車の中で快適に過ごす権利は誰にもあるが、他人に迷惑をかけない責任があり、それがモラルというものに繋がる。私と公はバランスがとれている必要があり、どちらかに偏り過ぎると、社会が上手く回らないのだろう。電車で言うと、私を強調しすぎる人がたまにおり、自分はここに立つ権利がある、自分は新聞を読む権利がある、そういった権利ばかりを強調する向きに遭遇する。

これは統治体制にも言える事であり、例えば中国の統治体制はかなり私の権利を制限して、公を優先する社会に見える。言い換えると国があって個人があるという順序であり、国の利益を最大化するような統治体制になっている。自由社会と言われる国々である日本や米国ではそのような私を制限するような社会システムは受け入れられないが、中国共産党政権は上手く統治が出来ているという事なのだろう。

感染症の日本史 (文春新書)

コロナ対応に代表されるような、今のような危機の時は、統制できるシステムを持つ中国のような公を優先する国が強いのだろうと、思う次第である。例えば、国営企業による民間企業の買収、公的資金の効率的な投入、補助金などにしても私企業に対して平等に運用しなければいけないという意識が低いので、自由度が高く、効率的な運用が可能となる。コロナウイルスの封じ込めと、その後の経済復興において中国がダントツのスピードを見せたのはそういった統治システムが要因となっている。

このバランスというのは非常に難しいもので、例えば時期によっても違うと思われる。今回のような景気収縮局面と、市場が楽観的な局面でも大きく違う。楽観的な局面では私を優先する社会が受け入れられる。当然のことながら、個人が余裕があるから自由な活動を要求するのである。一方で、景気後退局面では、セーフティーネットであったり、補助金の存在が重要であり公的な力が重要性を増すのである。

今後2-3年は、国間の移動の停滞は解消されないだろうから、観光、運送、宿泊、ひいては貿易に至るまで、国際社会は需要の喪失を体験しなければならない。これは動かしようのない事実となるだろう。翻って、自由主義的な思想が力を強めていったのは、第二次大戦後の世界が豊かになって行った時期であり、これはある意味では当然の結果だったのかもしれない。1960年代からの経済拡大期においては自由主義的な思想が優位性を高めていった結果、東西冷戦で西側が勝利する結果になったが、例えば長期的な歴史という観点で、この2020年が世界経済拡大の終焉というか停滞の時期に入ったのであれば、今後は全体主義的なものや共産主義的なものが、世界の主流とまではいわないが、勢いを盛り返す時代になって行ってしまうのかもしれない。自由を謳歌するというよりは、苦境に陥る経済をみんなで苦しみながら支える、そんな悲観的なシナリオも描けてしまうだろう。

山火事と環境問題

2020年9月16日の日記より

山火事と環境問題

カリフォルニアや米国西海岸での山火事被害が広がっているのが報道されている。ばい煙によって空の色がオレンジになったとか、昼間なのに真夜中のような景色になっているとか、視覚的なインパクトが強い。もちろん、逃げ遅れた死者が存在していたり、実質的な被害も起きているようだ。ただ、この視覚的インパクトの大きさというのが、現代社会の発言力を表しており、早速大統領選挙のネタになり、一方は、環境問題というか地球温暖化がこのような山火事を起こしたと主張しており、一方は関係ないと主張している。

どちらを支持したいという訳ではないが、この視覚的インパクト先行型のトピックというのは非常に多い。古くは、北極の氷河が崩れ落ちる映像、南の島が海面上昇で浸水している映像、こういったのは、長期的な変動の結果を見せないで、直感的に人々に環境問題の深刻さを訴える効果がある。サブリミナル効果ではないが、本質ではないところで行っている世論誘導と言えなくもない。

地球環境と言う事を議論するのに、一部の氷河や、カリフォルニアの森林だけを切り取って議論するのは、詐欺に近い。地球環境というのは、地球全体のシステムの事であり、様々な相互作用の上に成り立っている。例えば、一方が温まれば、一方が冷やされたり、一方で湿度が高まれば、一方で湿度が低くなる、そういった相互作用でシステム全体の安定性を保ってきたのが地球システムなはずである。

もちろん100万年、1000万年の単位で見た場合、地球はゴンドワナ大陸というほぼ一つの大陸しか存在しない時代があったり、全球凍結をしたと言われる時代もある。今より圧倒的に海洋面積が大きい時代や、全球凍結で見かけ上は海が消失した時代もあるのである。

こういったシステムの議論と、局地的な現象を無理やり結び付けるという手法は、まだ科学的に正しいとは言えない気がしている。例えば、大きな火力発電所が老朽化している時に、一本の排熱パイプが以前より熱くなりやすくなったと感じた時に、まず考えるのは、このパイプ個別の問題なのか、システムの問題なのか、この点であろう。隣のパイプが以前より冷めていたら、もしかしたら排熱の流路が変わってしまっている事が問題かもしれないという診断になるし、よく見てみたら他のパイプもほとんどが熱くなっており、冷却システムの問題かもしれないと言う事になるかもしれない。

要するに、個別で起こっている事象の背景というか理由にはいくつもの原因が考えられるというのが一般的な考えであり、気候のように、システム全体であったり、中大規模の範囲同士の相互作用が科学的に判明しているとは言い切れないシステムについて話すときはなおさらである。アメリカが寒い時には、欧州は暑いかもしれない。仮に全球的に温暖化している事が事実だとしても、人為的な効果と、太陽の活動量の効果を比較したら、1:99くらいなのかもしれない。

人類はそういった分からないことを理解しようとして科学を発展させてきた歴史がある。一方で分からないことについては想像することは出来ていたが、天動説にしても、進化論にしても、ともすれば宗教なり、当時の体制の権力の維持のために使われた側面もある。科学の進歩がそういった体制の維持から一般市民の活力を開放する事につながった側面もあるわけで、今後気候変動についても何かBreakthroughになるような発見が得られれば良いのかと思っている。

今はまさに、権力者の体制維持のために、思い込みに近いような温暖化議論が使われているような印象であり、天動説や進化論に通じるものがあるような気がする。科学の進歩を待たないと真実は理解できないのかもしれないが、我々現代に生きる人間にとっては、地球温暖化という怪しい議論については、否定するでもなく、肯定するでもなく、距離を置きながら見守る、こういった態度が正しいのであろう。何百年もあとから振り返ると言う事が出来るのかどうかわからないが、今から振り返ると天動説を指示していた人間は、相当恥ずかしい気持ちになっているはずである。当時は大多数の人が信じていた事実も、科学によってひっくり返る事があり得るのである。