天皇家と日本社会

昨日子供向けの伝記漫画を見ていたが、織田信長の妹のお市の方、その娘の淀殿は秀吉の子供を産んで秀頼となる。そこからちょっと複雑なので正確には覚えていないが、いづれにせよ、信長の血と、秀吉の血を受け継いでいる血筋がおり、さらに徳川家に嫁いで、その娘を天皇家に嫁がせたという複雑な血統がある。

古くは平安時代には藤原氏の摂関政治もそうであったように、そこでも天皇家に藤原氏の女性が嫁ぎ、天皇家の血筋に藤原の血が深く混ざるということが起きたことは歴史的事実であろう。

そうやって遡ってみると、織田家の末裔も、藤原家の末裔も、豊臣家の末裔も、天皇家の末裔も広く見れば、遠い親戚ということになる。これは面白いもので、その考え方で行くと、日本全国みんなが遠い親戚ということになりそうだが、実際に数学的に計算すると1000年ちょっとさかのぼれば、どこかで現在のすべての人間が混ざり合うようになるという計算結果であるようで、少なくとも遠い親戚である。もっと言えば、20万年を遡れば、ホモサピエンスの一団に行き着くわけであり、人類みんな遠い親戚ではある。

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そんな天皇家であるが、神武天皇から脈々と男系にて同じ血筋で血統が受け継がれていると言われている。色々な時代を経ながらも、大きく言えばヤマトの時代から日本を朝廷という形で統治しており、12世紀から19世紀は軍事政権が中心であったとはいえ、朝廷という存在が継続しており、ものすごい期間の統治をしてきた存在である。

勿論、文化的な面でも伝統を保全したり、祭りをつかさどったり、いまやこちらの面が重要視されるくらいであり、貴重な存在である。我々日本人にはむしろ当たり前の存在になっており、太陽のようにそこにあることが当然の存在ではあるが、世界的に一つの系統が統治を継続しているという状態は非常にレアである。もちろん統治とは今の形態では言えないが、国家の象徴としての皇室という存在は、経済合理性などは越えたところにあるような感じがある。

それはひとえに文化統合の存在であるからだと思う。皇室が重要視している祭事や、伝統というものが日本人のアイデンティティの確立に寄与している面があり、お祭りの文化であったり、初詣、結婚式、これら節目節目で我々は伝統を目にすることがあり、それを突き詰めて考えてみると、皇室の存在と、その貴重な歴史に目が行くのである。

海の歴史

歴史が深いというのはそれだけで、見るものを引き付けるところがある。例えば、甲子園や箱根駅伝は競技の一流なレベルではなく、むしろ100年近く継続している歴史に圧倒される部分がある。プロ野球や実業団駅伝よりもレベルが劣るのにである。同じようなことは祭事や、神社それ自身にも言えることで、歴史の長さそれだけで、重厚さが出てくるものである。それは裏を返せば、継続することの難しさを孕んでおり、いくつもの荒波を乗り越えて継続されていることに畏怖の念が生まれるのである。そういう意味で日本の歴史上、もっとも継続されているであろうことは、皇室の神技であり、天皇という存在そのものであり、歴史の長さだけでも、畏怖されうる存在となっている。今後、1000年、2000年と継続するのかはわからないが、継続する、ということ自体の難しさに敬意を示したくなるのである。

多様性と日本の歴史

昨日も大谷選手がオープン戦でホームランを打って、その活躍は眩しいばかりである。八村塁選手も最近好調であり、あのアデトクンポ選手と互角に渡り合ったり、見ていて喜ばしい気持ちになる。大坂なおみ選手も全豪オープンテニスで優勝したのは記憶に新しいが、八村選手と大坂選手はそれぞれどちらかの親が外国にルーツを持つミックスというか、ハーフというかどういうのが正しいのかわからないが、そういうルーツを持つ日本人である。

例えば日本語を話すのが得意ではない大坂選手に心無い声を上げる特にお爺さん世代がいるような報道があったが、日本人がこうやって世界で活躍するのは純粋に誇りに思うし、何より見てて爽快な気持ちになる。外国にルーツを持つ親がいることで日本人ではないとか排除思想になるお爺さん世代の了見のなんと狭いことか。お爺さん世代全員がそうではないことは百も承知であるが、ただただその狭い価値観に唖然とする。この窮屈な島国根性は江戸時代の鎖国が長すぎた影響だろうか、それとも戦時中の国粋主義的な思想の影響だろうか、それとも戦後の経済復興期に文化教育を置き去りにした影響だろうか、恐らくそれらすべての要素が影響しているのだろう。

感覚としては1990年のバブル崩壊以降、経済至上主義がようやく下火になり、文化的な側面や、多様性についての理解が徐々に進んだように思う。ここで思想においても、世代間のギャップが生まれている。今の50歳以上はこの文化的な教育や、多様性に関する感性が比較的掛けている世代であると感じるのは、この辺の影響だろう。

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そもそも日本は過去に遡れば移民が切り開いた土地であることは間違いない。3万年ほど前に人類が移住してきたことは勿論そうだが、その後も、北から西から、南からたくさんの人がある意味袋小路に集結してきたような形になっている。大陸の東の果てなので、そういったことになる。これはあまり意識されていないが、アフリカから出た人類はユーラシア大陸に拡散していくわけだが、東の果ては一応日本である。もちろん、シベリアからアラスカに渡って最終的にインカ帝国やマチュピチュを作った一団もいたが、ユーラシアの東の果ては日本である。

その後、稲作も中国大陸からもたらされ、恐らくは鉄器についても大陸からもたらされた。その時に国家というものが形成され、日本の統治がなされた。統治の当初は渡来人が多くの要職を務め、7世紀には遣隋使が盛んになり、その後も中国大陸からの移民は多かったはずである。13世紀ころには倭寇と呼ばれる集団が東シナ海を拠点に中国南部、台湾、沖縄、九州海域で混血を進めたはずであり、戦国時代には宣教師の移住というのもある程度見られていた。そんな歴史の中、江戸幕府は植民地政策からの避難方法として鎖国政策をとったわけであるが、ここから日本の孤立化の歴史が始まり、果ては国粋主義による大戦の開始に至るわけである。

戦争の判断に対する是非は色々あるので、好し悪しを簡単には議論できないが、この価値観を狭くしたままの状況判断をしてしまったということについては、江戸の鎖国政策からの流れの中で、問題であったろうとは思う次第である。

日本は移民の国であり、多様な価値観を持つからこそ発展してきた歴史があるというところを忘れてはいけないし、生物学的に見てもなるべく遺伝子情報が異なる個体の間で子孫を残していったほうが多様性が増し、環境変化への耐性が強くなっていく。これは今回のコロナの騒動にも生物学的に言えることかもしれないし、例えば、働き方とか、人生の哲学とか、そういった面でも時代の変化に耐えられるのは、思考が柔軟で多様であることが大きいと思う。そういう意味で移民を受け入れること、多様な遺伝子が広がることは喜ばしいことではないだろうか。

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スポーツで活躍する選手が増えるというのもある意味では、そういったことの影響が先に出てきているということであり、これからそういった多様な人材が例えば経済社会や文化的な面でどんどん活躍していくのだろう。

災害と税金

日経新聞によると2011年の東日本大震災以降、復興のために10年間で約38兆円が税金から使われ、10年間でインフラ整備、防災設備の整備、これらがかなり進んだということだ。もちろん、あの甚大な被害を見ると、この投資は必要なことであり、38兆円が費やされたことに対しても異論はないし、毎年復興税を支払っていることも止むを得ないことではあると認識している。

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38兆円というと計算を簡単にするためににほんのじんこうを1億人と考えると、一人当たり38万円ということになる。4人家族だと152万円ということになり、年間15万円、月にすると1万2千円強の負担になる。これを多いととるか少ないととるかは個人の考え方次第ではあるが、日本という地震を含む自然災害が多い国土に住む以上、どこで起こるかわからないという意味では、皆で平等に負担するのが最適ではある。

翻ってコロナ対策費用である。米国では200兆円の新たな予算に議会の承認が得られたということで一人当たり$1400の支給がなされるようだ。アメリカの人口を4億人とすると$5600億ドルであり約60兆円はすぐに国民に還元されるという計算になる。$1400の相対的な価値は貧困層の方に大きく、機動的な対応で困っている人に助けが行くという観点から、この政策は妥当だと思う。

しかしながら、残りの140兆円はインフラ整備や環境関連投資、いわゆるグリーンニューディールに向かっていくことになり、ある程度一定の産業や企業に恩恵が行くことになる。これは自由主義を国是とするアメリカにとって恐るべき変化と言えるだろう。民間の活力を失わせるリスクと、アメリカの最大の強みで合った企業の新陳代謝を鈍らせることにも繋がる。

これはイノベーションと国家管理という関係性で考えると見えてくるが、経済の成長期においては官僚主導で方向性を決めて、ある意味国家が管理して成長を則す、これは日本の高度経済成長でもそうだったし、中国の成長期も、東南アジア諸国の成長期でも見られたことである。一方で資本主義が成熟している特に米国では国家の経済、民間セクターへの関与は最小限にしてきたのが歴史だととらえているし、それがアメリカ人のある意味誇りであり、だからこそイノベーションが次々と生まれる社会が生み出されたのだと思う。西部開拓時代のイノベーティブな発想は、国家の管理ではなくゴールドラッシュを求めた人々の夢が生み出していたのである。

だからこそ、ゴールドラッシュ以来の文化の大転換とまではいわないし、もちろん大恐慌の後のニューディール政策のような局面もあったわけで、アメリカが国家関与の経済を持った経験がないわけではないが、この予算規模は非常に大きい。国家の関与というのは一見公平なようで、小さなひずみが大きな不公平感の実感につながる危険がある。国家が関与していないときは小さなひずみはある意味仕方がないととらえられるが、国家が関与してもひずみが残る場合国民の不満につながる。その不満が限度を超えた社会が共産主義だったはずであり、アメリカが一番嫌っていた政治体制である。平等を煽れば煽るほど、国家権力は綱渡りでの経済への関与をせざるを得ず、失業率が下がりきっていないアメリカ社会では、今後の火種は燻ぶったままとなるだろう。