日本国憲法の偽善

国民投票法改正法が衆議院を通過したというニュースがあった。感染症予防の対策を打ちやすくするためにという論点から議論が進んだ結果のわけであるが、漸くという実感である。この国の憲法は戦後制定されてから70年以上も改正されていない。

70年以上も憲法を改正していない国はかなり貴重であるという報道を見たことがあるが、そもそもこの国の憲法に関する議論が止まっているのは9条の存在のせいであることは間違いないだろう。

反戦をうたう憲法9条について、議論は様々あるが、世の中に憲法9条原理主義というか、これさえあれば大丈夫と思い込んでいる存在があり、これさえあれば大丈夫で、これがなければかなりダメ、そういう考え方になってしまっている存在である。憲法9条が改正されると日本は先の大戦のように戦争に突き進んでしまう、そういう考え方を持つ勢力がいる。

戦争をしないと宣言することで、本当に戦争を避けられるのであろうか。これはよくある議論であるが、そんなわけはないだろう。例えば善良な市民が、うちは財産はありますが、防犯はしません、家に侵入してきても抵抗はしませんと言うとしても、そんな家にはすぐに泥棒がやってくる。問題は受け入れるというか被害を受ける方の意識ではないのである。

私は犯罪を犯しません、泥棒も詐欺も暴力もしません。これは結構なことであるが、そうすることで犯罪に合わなくなるかどうか、これは別議論であることはまともな市民であれば理解ができると思う。犯罪に合わなくする、被害を小さくするためには防犯が大事であるし、場合によっては自身の鍛錬も必要で、正当防衛であれば、かなりの抵抗ができることを示している必要がある。

勿論侵略的に戦争をすることについての是非はあるし、それについては国連という国際的な枠組みがいまのところは是非を問うことになっている。国連に反対されるような侵略的な戦争を起こすことは、一応、現在の世の中では犯罪的というか、間違った行為として認定されるわけで、これはやらない。

しかしながら、貧すれば鈍するではないが、国家間の戦争も結局は富の奪い合いであり、景気が悪くなれば犯罪が増えるように、景気が悪くなれば戦争を仕掛けざるを得なくなる国も出てくるわけであり、それに対して防犯体制は整えるべき、これは当たり前の議論である。

自分たちが犯罪を起こさないと宣言することと、自国が犯罪を受ける可能性については、全く別の議論であり、平和憲法と呼ばれる憲法9条さえあれば、戦争には至らないと考えるのは議論のすり替えというか、かなり偽善的なものの考え方だと思う。戦前の軍部の暴走とか、戦争被害者の立場とか、議論をすり替える人たちがいるようだが、それはそれで反省すべきであるが、憲法としての9条の存在は改正されるべきである、というのが筆者の持論で、それとこれとは別であり、9条の改正による軍隊の整備というのは、国の防犯体制を整えましょう、そういう事を議論したいということなのである。

差別の構造

緊急事態宣言が発出されており、休日の映画鑑賞が増えているが、昨日I am not your negroというJames Baldwinのドキュメンタリー映画を見た。アメリカ社会において如何に黒人が差別されてきており、どういう声を上げてきたのか、マルコムXやMartin Luther King牧師の意見を通してみていった映画になるが、興味深いものであった。

題名にもにじみ出ているように、何せ白人社会が黒人のステレオタイプを積極的に設定していった、これが軸になっている。例えば1900年代前半に作成された映画などでの黒人の描かれ方、これは先住民と呼ばれるNative Americanの人たちにも言えることであるが、白人の映画社会が例えば、黒人はコミカルでされど人が好い、先住民は人を食べるほど残忍で話が通じない、こういったイメージを植え付けるのに一役買っている。

James Baldwinによると、これらのイメージ植え付け映画が最悪であった。映画に出ているような黒人男性は実際には存在してないし、しているとしても稀であり、本質的なところでは揶揄しているようにしか見えない。これは確かにそうであろう。あえて映画や書籍でそれらのイメージを作り出して、レッテルというか国民の間にステレオタイプ的なイメージを植え付けた。

これが何故行われたのか。ひとえに白人の強迫観念からきている、というのが映画の趣旨である。これが差別というものの構造的な問題というか、本質であるが、差別する側は、被差別側が恐怖なのである。被差別側が教育を受けて、経済的に豊かになり、差別する側と同じような境遇になり経済的にも変わらない力を持つことが恐怖なのである。これが基本的な差別の構造だと筆者も思うし、映画の主張もそこにあったと思う。

それが何故恐怖につながるかというと、必然的にパイが減るからである。100あるものの99を独占していた白人が、黒人が広く教育を受けることによって同じような学力になり、大学進学や企業への就職、起業において平等になる事で、当時の人口比である例えば12%は黒人の物となるとすると、99が88とか87に減るわけであり、これが恐怖を呼び込むのである。もちろん、経済は年々大きくなり100が110にも120にもなるから、白人が得られる絶対量は99から増加するはずであるという反論がありそうだが、そういう絶対値ではなく、ここでは相対値が問題であり、自分たちの相対的な既得権益が棄損される、これが恐怖なのである。

これはどこの差別に適応しても比較的すんなりと受け入れられる理論だと思われる。例えば、日本国内に在日韓国人、在日朝鮮人の人に対する差別があるとされるが、これも比較的所得が低い水準である在日社会の人たちが、権利を拡大していくことにより、自分たちの既得権益が棄損されることが怖いのである。ここでいう権利というのは相対的なものであり、絶対的な基準では非常に低い水準の権利であっても、例えば、差別側が100の権利を持っており、被差別側が10の権利であり、これが15になるというだけでも抵抗を示したくなる。絶対値が低くても相対的に上がることが、恐怖を生む。恐怖というのはそれほどに計測するのが難しく、ひとたび燃え上がると小さなことでも大きくなる。こうやって制御が難しくなり、結果差別につながっていく。差別の構造というのは、結局は差別側の恐怖に支えられている。そして、既得権益が棄損される場合に発動されるので、差別というのはどこまで行ってもなくならない。これは富が存在する限り、避けることはできないであろう。

保護主義の是非

昨日米国のバイデン大統領の施政方針演説が行われた。その中で気になったのは、保護主義の継続というか、アメリカ国民の税金をアメリカ製品の購買に使うようにするという発言である。これをもって、トランプ大統領時代からの米国の保護主義路線が継続されるという判断で報道がなされている。

ここでいう保護主義というのは何であろうか。自国産業を保護するという意味の保護であり、関税障壁を設けて、自国産業が他国からの輸入品に比べて有利になるように誘導することである。そう考えるとこの政策をとっていない国などあるのだろうか、そういう疑問が出てくる。もちろん、EUやTTP、ASEAN、旧NAFTAというブロック経済圏において関税を下げて自由な貿易を推進しようという取り組みはあるが、それぞれ合意に至るまで相当の議論を重ねて、100%関税がない状態と言えるのはEUくらいではないだろうか。

各国経済規模、所得水準、伝統的な産業構造、これらが全く違うわけで、完全な平等主義に基づくと、いろいろなひずみが出てしまう。日本も過去にはGATTの交渉で牛肉とオレンジについて、輸入障壁を設けたいという意向を示していたし、今でもコメの輸入には関税が付きまとう。これは不誠実な政策なのだろうか。

勿論、大きな時代の流れとしてある意味では自由貿易というのが全世界の人々を豊かにしてきた、生産性の向上によってもたらされた多くの商品は、自由貿易があるからこそ販売することができ、生産者の利益になってきたという側面はあるが、これは本当に全世界の人間に寄与しているのだろうか。大企業の販売増加や成長には間違いなく寄与している。そういう観点でいうと自由貿易は正しい道のように見え、特に大企業の従業員には恩恵があり、そこからトリクルダウン的な発想がベースとなり、全国民を豊かにしたという理屈なのだろう。

民主主義とは何なのか (文春新書)

しかしながらここにきて問題は、トリクルダウンというのは正しい理屈なのかということだ。これは富裕層と呼ばれる人間が自分の正当性を担保するために、用いている無理矢理な理論ではないか、昨今では思うわけである。コロナ禍という状況になり貧富の格差は広がっている。富める者はさらに富、貧しいものはそのままだ。ここの根本理論が崩れつつある。

そうなると自由貿易も誰のための自由貿易であったのか、という疑問に行き着く。これは先進諸国の大企業のためであったという可能性がある。中小零細企業の中には自由貿易の進展によって苦境を余儀なくされている人たちも多い。これは現在のバイデン政権の政策を見れば明らかであり、それを支持する層がかなりの数いるわけである。

保護主義と自由貿易、これは対立する概念である。しかしながら、国家主導で金融政策、経済政策を行うという色が強くなっている21世紀において(これはリベラル化が進んだ現代において逆説的に聞こえるが、事実この面は強くなっていると思う)、保護主義というのは当然と言えば当然な政策に見えてくる。国家というものが強く関与して、経済成長を競う、これが常態化しつつある。20世紀のように勝者と敗者を分ける壁が強固ではなくなってきたので、先進諸国と呼ばれるところがなりふり構わずという姿勢になってきたのかもしれない。

これはひとえに中国の台頭の影響ではあると思うが、国家の関与を強めていくと、歯止めがききづらくなる。国民は税金を使ってやれることは何でもやって欲しいと欲望はエスカレートしていく。行き着く先は武力行使もあり得るということで、これが19世紀末からの全体主義を招いたともいえるわけであり、ここにも民主主義の悪い面が垣間見えるわけである。