パラダイムシフト

コロナウイルスは働き方であったり、人生観であったり、色々なものにパラダイムシフトを起こしたと言われている。スペイン風邪以来の全世界での感染症の蔓延と言われるので100年に一回の出来事と言ってもいいだろう。これを機に世界は変わる、そういう事なのかもしれない。スペイン風邪の後にはブラックマンデー、世界恐慌が続き、第一次世界大戦、第二次世界大戦と二度の対戦が起きた。100年に一度の出来ことが起きるとそういう歴史的な大転換がなされるのは歴史の常なのであろう。

リーマンショックも大恐慌以来の100年に一度の出来事と言われた。実際に株価の動きとかを見てもそうであったのだろう。バブルの崩壊と似たようなところがあり、一流企業であっても一夜にして破綻するような恐怖を市民に植え付けた。

東日本大震災は1000年に一度と言われている。9世紀だったか10世紀に起きた地震以来の規模の地震であったようで、そういう意味で1000年に一度の出来事であった。これは基本的には日本への影響がほとんどすべてであるが、ここにおいても多くの人々の人生観を変えることに繋がったと言えるだろう。

2008年のリーマンショック、2011年の東日本大震災という形で、100年に一度、1000年に一度という事象がこの時は頻発というか立て続けに起きたことになる。これはリーマンショックが先に起きたので、両者の関連性はなく、偶発的なものであることは間違いないが、特に日本においては生活において意識が変わったと思われる。

勿論90年代から続いていた失われた20年とか30年とかの経済成長が得られない時代背景もあり、当時は既にパラダイムシフトを自律的に起こそうという流れがあった。99年、00年前後にはウーマノミクスという言葉が生まれてきて、社会的に大きく変わったのは、女性の社会進出を則す動きであった。00年代後半くらいまでは寿退社という言葉があったが、10年代に入るとなくなってしまったと言っても過言ではない。

これら三つの事象、リーマンショック、東日本大震災、ウーマノミクス、は繋がっていると感じる。特に2010年頃から共働き世帯が急増しているのである。これは男性の収入だけでは安心して暮らせないという圧力が限界まで達したこと、そしてそれが東日本大震災やリーマンショックで明るみになったことが引き金となり、女性は生涯社会で働く必要があるという意識に変わっていったのである。

対立の世紀 グローバリズムの破綻 (日本経済新聞出版)

もともと若い世代はそういう意識だったとみる向きもあるかもしれないが、この100年に一度、1000年に一度のイベントは国民の意識に大きく影響したと見える。2010年以降は女性の社会進出というか、結婚しても出産しても仕事を辞めない人がかなり増えている。これは厚生労働省の共働き世帯の比率のグラフを見ても明らかである。

これらが何を生み出したかというと、実は貧富の差というか、格差を増大させる方向に進んでいるのだと思う。シングルマザー、シングルファザーの増加と、共働き世帯の増加、これらが世帯当たりの収入の格差を呼ぶわけである。世帯というくくりは忘れられがちであるが、住居費、光熱費、そういった観点から共働き世帯は優位になるが、そうでない世帯は不利になる。一人当たりの食費は変わらないが、住居費などの負担の軽減が可処分所得の増大を生む。世帯というか家族の多様性が増したことは良いことなのであるが、しかしながら、これが世帯間格差を増大させる方向に繋がっている。

結果としてリーマンショック以降、2010年以降と言ってもいいが、住宅の価格は上昇を続けている。これは共働き世帯が購入できる住居の価格レベルが上がっているからである。少し考えてみると当たり前のことであるが、20年前は男性の収入のみをベースに65歳なり、70歳なりまでの収入でローンを計算していたが、現代では共働き世帯は男性、女性の生涯収入をベースとしてローンのプランを考えているのである。これは大きな違いであり、住居の価格は上がるわけである。

一方でシングルマザーの貧困と巷では記事もよく出ているが、これも自明の理であるが、シングルマザーはその相対比較にいおいては収入面で一番不利になってしまう。この人たちは共働き世帯が相対的に収入が増えたことによって、賃金動向、GDP動向からは隠れがちになってしまうのだが、相対的に貧困が進んでいるということになる。格差の助長はリーマンショックと東日本大震災が起こした。皮肉なようであるが、これは意識の問題が生み出したものであり、誰にも止められないのだろう。そういう状況においては、税制等を早急に変える必要があるのだと思う。専業主婦がいる世帯を前提とした昭和の税制では、現代の家族には対応できていないのではないだろうか。

マンハッタン計画

現在ジョン・フォン・ノイマンの伝記的書籍を読んでおり、彼が如何に天才であったかという点を興味深く感じている。ゲーム理論等、彼が物理学、数学等の分野で成し遂げた業績はいくつかあるが、有名なところではマンハッタン計画で原子爆弾を開発することに尽力したという事だろう。ウランが原子崩壊というか分裂する際に強力な中性子線が出されて、巨大なエネルギーが解放されることが分かり、マンハッタン計画を進めていった。

世界で日本の広島と長崎にだけ原子爆弾は落とされたわけであるが、書籍によると1940年前後まではナチスドイツの方が原子爆弾の開発は先行していた模様である。しかも2年分ほど先行していたということだ。

そこでの予算配分が米国のそれと比べて、ナチスドイツは大胆にはいかず、結局開発は達成されず、原子爆弾を活用することもなかったようだ。しかしながら、歴史のIfにはなってしまうが、先行して開発が完了していた場合は、歴史は大いに変わっていただろう。

ナチスドイツ、ムッソリーニイタリアが戦局を優位に進めた可能性が出てくるのである。1943年までにロンドンやパリに原子爆弾を投下していたら、アメリカは太平洋戦争だけではなく、欧州戦線でのフォローもしなければならなかった可能性があり、日本の歴史も変わっていた可能性がある。例えば、ハワイが日本の領土であったり、フィリピンの一部、韓国、サハリン、千島列島、これらも日本の領土のままで終戦を迎えていたかもしれない。

これらは単なる想像のなかでの遊びでしかないが、こういった事を考えられるくらい、原子爆弾の開発は戦局を左右する事実であり、ナチスドイツを中心とする枢軸側が負けた一つの要因なのかもしれない。

ここで何故ドイツは予算を割かず、米国は当時大規模な予算を割り当てる方向にかじを切ったのかという疑問がわくが、当時の文化というか政治にもなるが、アカデミズムを重視しているかどうか、この差が一つの要因でもあったように感じる。

ドイツは折からのユダヤ人迫害により、学者であっても公職から追放する方向に舵を切っていった。優秀なハンガリー人の学者であるフォンノイマンも然りであるが、アインシュタインなどもアメリカへ移住することになった。米国はアカデミズムの権威が戦時中も保たれており、ナチスドイツは全体主義的に天才なども排除してしまう方向に行ったわけである。

これはアカデミズムという戦争や経済とは縁遠い分野の話のように聞こえるかもしれないが、プリンストン研究所を中心に優秀な学者を世界中から集めて原子爆弾の開発に成功した米国と、国民結束のために国内にユダヤ人という敵対勢力を作り、全体主義的な発想で天才的な個人であっても排除していったナチスドイツ、この差が原子爆弾開発速度の逆転を招いたことは事実なのであろう。第二次大戦の勝敗を分けた要因はいくつもあるだろうが、この点も一つと言えるのではないだろうか。

フォン・ノイマンの哲学 人間のフリをした悪魔 (講談社現代新書)

多様な個性、天才の頭脳、こういったものを積極的に生かそうというのは現代のアメリカ社会にも通じるところがある。日本はどうかというと、天才を伸ばすのではなく、劣等生を何とか平均にもっていく教育を重視し、天才や優等生を社会の歪みとすらみなす風潮はありはしないだろうか。天才的な変わった人間を排除してしまう社会は偏屈で視野の狭い社会で望ましくないが、日本社会にはそういった面があるような気がしてならない。特に戦後の人権、平等、意識の過剰な高まりにより、以前にも書いたような過度な平等がポリティカルコレクトネスを持つような雰囲気があり、とがった人材が伸びずらくなってる社会であると感じる。

過度な平等

コロナウイルスのワクチン接種が徐々に日本でも開始されているが、報道等によると高齢者接種の受付予約がネットとLineだけであり、朝日新聞系なんかは大々的に批判しているようだが、平等ではないというのが根拠のようだ。

ネットやLineを使えない人はどうするんだ、という論調のようだが、では他にどういう手段があるんだ、と聞きたい。電話で対応するのか、そんなことやってたら、接種までの時間がますます時間がかかるだろう。代替手段がないので、若干の不平等は受け入れて、まずはスピード重視でやろう、これが現実的な判断である。

この場合、スピードと平等、どちらも重要な価値観であるが、これの優先順位を天秤にかけてスピードを取るわけであるが、現在のコロナウイルス感染状況を考えるとスピードを重視するのは当然の選択であろう。

政策決定というのは、国のような機関であっても、民間企業の戦略や意思決定においても、善か悪のように二択ではなく、結局いくつかのファクターがあり、どれも重要で良いとこどりをしたいが、二兎を追う者は一兎をも得ずではないが、優先順位を付けざるを得ず、優先順位を決めることが政策決定になっていく。

優先順位という考え方が重要であり、スピードも重要だけど平等も重要、どちらも満たされるまでそこを動かない、これが非現実的な、非建設的な議論であり、とくに野党やバブル世代に目立つ。現実的な解を求めず、理想論ですべてがパーフェクトな状態を目指すので、些末な批判が多く、建設的な議論が進まない。

特に国の政策決定という場においては、平等、反戦、人命、これをもって議論を止めてしまう向きが多いように感じる。これらは三種の神器ではないが、超越した絶対的な価値観として捉えられがちで、例えば軍備増強の議論も、「反戦」の一言で議論が止まる。反戦でない人は暴力的で粗野なレッテルを張られかねない。

ファンタジーランド 【合本版】―狂気と幻想のアメリカ500年史

コロナウイルスとの戦いにおいても、オリンピックと人命のどちらを取るのか、そんな非常に低俗な議論に、これはマスコミが誘導している。それに乗っかっている人がいることが不思議でならないが、人命も大事だし、オリンピックも大事である。コロナで亡くなっている人がいるのにオリンピックをやるのか、ということをいう人がいて、なんかそれらしい勇ましい言葉に聞こえるが、オリンピックをやることで死者が増えるのか、増えるのであればどれほど増えるのか、全く科学的な声は聞こえてこない。もちろん、海外からの入国者が増えるので、級数的に感染が増えるという予測めいたことを発表している人もいるが、こんなことは昨年の感染者予測でさんざん煽っていたマスコミが一番、信頼性がないことに気付いているはずである。

人命は大事だけど、オリンピックもやる。もし感染が拡大する兆候があれば、延期、中止をしかるべき時に判断すればいいし、開催後に感染者数が高止まりすれば、緊急事態宣言を出せばいい。そこの因果関係が曖昧なままで、人々の不満のはけ口として、政府やオリンピックを使う一部の人たちの行動は、見てて非常にがっかりする。

平等についても、世の中は決して平等ではない。これは生物の宿命であり、だからこそ進化が行われてきて、今の形状に至っているわけであり、生まれながらにして平等、ということはあり得ない。もちろん、それを是正しなければならないので、憲法に生まれながらに平等であるべき、とういことが歌われているのであり、平等になるように政策で誘導するべき部分はあるが、全てが平等になる事はあり得ないし、過度な平等を追求した結果が、共産主義であり、ソ連という実験国家の失敗であるとも言える。皆が平等なユートピア的な社会は成長を阻害する。スピードと革新が生まれないからである。特に革新は不平等であったり、劣等感があったり、凸凹があるからこそ生まれるわけで、民主社会主義的と言われる日本の文化では過度に平等を求めすぎるから、本質的な革新が生まれないのかもしれない。筆者は一部上場企業で勤務しているが、社内でも異常に平等を重視する傾向は強い。例えば、評価の基準と可に公平性を求めるのは分かるが、文化として平等を重視してしまう。それが年功序列的にもなるし、革新や変革、スピード感を失わせているのだろう。