リベラルの不可逆性

婚姻については近年晩婚化が進んでいるのは間違いない。厚生労働省の労働白書にも書いてあるし、実感として結婚する人の年齢が上がっている。だからといって結婚できない人が増えているかというと、選択的に結婚をしない人が増えていることもあるが、全体の流れとしては自由な恋愛、自由な結婚ができる幅が広がっているので、結婚自体は望めばしやすい環境になってきているのではないだろうか。

勿論、経済的な面や仕事の面で結婚できない人がいるかもしれないが、例えばここ50年とかのスパンで社会の変化を見たときには、リベラルな方向性というのは確実に進んでおり、自由な恋愛、自由な結婚という幅は広がっているのは明白である。

例えば国際結婚であるが、これは筆者が子供の時は都内の小学校に通っていたがいづれかの親が外国籍である人、俗に言われるハーフの人は非常に珍しかったが、娘が今通っている小学校には複数いる。もちろん、地域性なんかもあるかもしれないが、例えばスポーツの世界を見てみても、外国籍の親を持つ選手の活躍はここ20年とかのスパンで見ても大幅に増えているように感じる。

これらはリベラルな思想の影響というと大げさではあるが、戦後民主主義という米国主導で始まった日本の民主主義はどんどん民主化、リベラル化する方向で進んでいる。これは世界的な傾向でもあるが、ある意味自由主義的な、ある意味個人主義的な、何物にも縛られないで生きることを最重要視するような文化である。

これは個人にスポットを当てると非常に過ごしやすく、居心地が良いので、世の中はリベラルに行く方向性であり、長いスパンで考えると今の政治体制、すなわち民主主義という観点から言うと、不可逆的であろうということが言える。自由を享受した国民は、自由が後退することは許容できないし、さらなる自由を求めるのである。

民主主義とは何なのか (文春新書)

しかしながらここには危険な点も潜んでいる。民主主義のもっと根本原理である、国民の間での助け合いの概念というか、ここの部分をむしばんでしまうという矛盾に行きあたってしまうのである。民主主義を追求すると、個人の権利が拡大される方向に行ってしまい、個人が自由を得るようになり、さらなる自由を要求する。そして一定以上に自由になった国民は他者の事よりも自分のことを追求することに重きを置くようになり、やがて国家という事には思いを馳せなくなる。民主主義というのは国民全員が参加してこそ、最大限の効力を発揮するシステムであり、例えば徴税に応じない国民がいると平等が担保されなくなり破綻に至る。

破綻に至るプロセスは色々あり、徴税を免れるように権力を操作したり、議会を扇動したり、国家の活動に制限を与えたり、効率性を落とすように策略していくことに繋がる。そうすることによって国家としての活動、例えば、防衛、警察、インフラ、が不十分になっていき、破綻をきたすようになる。もしくは破綻をごまかすために戦争に走るのである。

机上の論理のようなことを書いているようであるが、この不可逆的なリベラル思想が進み過ぎてしまった社会はどこか現在の米国社会であるようにも感じる。特にトランプ政権を支持していた層は、まさに法人税率を低減して、テック企業の徴税逃れもそこまで追求せずに、そんな中、特に警察権力の失墜、インフラの致命的な老朽化、これらの問題を抱えており、国民国家としての危機に瀕していた。

バイデン政権になって反動があるので少し民主主義が引き締まったように感じられるが、あくまで反動であり中長期的に見たら、リベラル化は不可逆的である。欧州や英国でもこの民主主義の行き過ぎに指導層では危機感を感じており、GAFAへの課税強化、最低税率の上昇を議論しているが、自由を叫ぶ国民や民間企業に勝てるのだろうか。民主主義という国民主導の政治体制を維持したい体制側と、民主主義の恩恵を最大限に生かしたからこそ破綻に向かっているという事実を認識しているのかしてないのか分からない国民側に、大きな溝ができつつある。そう考えると民主主義というのが古代ギリシャでは「怪しい政治体制」と論じられていたことも納得がいくわけであり、そもそも矛盾をはらんでおり、長期には継続できない政治体制なのかもしれない。フランス革命から200年以上経つわけであるが、強権的な政治体制が優勢になっていくのが大きな流れなのかもしれないし、それをごまかすためにとれる策は戦争でしかないのかもしれない。

脳の容量と知能

以前にここでも書いたがネアンデルタール人の脳容量は1500㏄を超えていたといわれる。現代のホモサピエンスの脳容量が1300-1350㏄程度と言われるので、それよりも大きい。脳の容量が大きいから、認知能力が高いとか、知能が高いとか、今の我々ホモサピエンスの基準でいう尺度では一言でいう事ができないが、思考する力なのか、領域なのか、脳を使う領域は広かったのであろう。

ただ、それが例えば文化創造能力が異常に高いとか、記憶力だけは異常に高かったとか、我々の今の基準でいえば、生活のために必要な能力として活用されていたのかどうかは分かっていない。ただ、ネアンデルタール人はその脳の容量の多さにより、多くのエネルギーが必要であり、狩りをしなければいけない時間が長くなったこと、食糧が少なくなる時期にはまっさきに飢餓が襲ってくること、脳が大きいことによって不利な面があったように見られている。

ホモサピエンスにしても10000万年ほど前のホモサピエンスは、現代のホモサピエンスよりも脳容量が大きかったことが言われているらしい。1400-1450㏄と言われているようである。言語能力は10000年程度前だとあまり変わらないだろうが、10000年前と言えば当方が好きな農耕が始まったころと合致してくる。

この頃から集団で生きていくという色合いが強まったとみられている。労働を集約することで収穫量を2倍にも3倍にもできるようになったからであり、その先には国家のような大規模組織が徴税、治水をすることで飛躍的に収穫量を増やす仕組みができていったという現代につながる話になってくるのである。

残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか (NHK出版新書)

その農耕が始まったタイミングから脳の容量が小さくなっていったというのは非常に興味深い発見であり、一つには国家のような大きな単位で生産、収穫、再分配を行うようになったことにより人々の間に分業制が定着していったことと無関係ではないだろう。例えば、治水の人、例えば、耕作の人、例えば、防衛の人、こういうようにルールを決めて分業ができるようになった時代であり、権力者と言われる人間が統治を始めた時期である。例えば、一市民であるAさんは、以前は集落の安全を守ること、食糧を確保すること、子孫を残していくこと、これらすべてに気を使う必要があったし、これらすべてに長けていないと、自分と近縁の人々が反映することができない社会であった。

しかしながら、国家というものの登場により、それが分業されるようになったわけである。防衛能力が高い人は防衛を、耕作能力が高い人は耕作を、それぞれ自分の力を専門的に発揮できるようになっていったわけである。

現代の我々ホモサピエンスはどうであろうか。分業制、専業性はさらに進展しているのではないだろうか。食料生産について響きにすることもなくなっているし、安全を担保するのも対外的には国家の軍隊が、対内的にはこれも国家の警察権力が担ってくれている。税金を払えば、自分とその家族が食べていくための生産活動に力を注ぐことができるのが、一般的な先進国の状況になっているのは間違いないだろう。

そう考えると、今後も脳容量は小さくなっていくのだろうか。例えば10万年とかのスパンで見た場合に、下手したら今の半分くらいの脳容量となり、省エネが進むのかもしれない。ある研究によるとインドネシアのフローレンス島にいたといわれるホモフロレンシスは、ジャワ原人という100万年前にいた人類から進化して脳容量が小さくなったと言われている。もちろん、何に適応するために小さくなったのかというのが問題であるが、必要な食糧を少なくすることができ、生きるための食料確保がしやすくなったからというのは、大きな理由の一つであると思われる。

そう考えてみると10万年とかのスパンであれば、現生人類も食料も今の7割程度しか食べず、思考も同じく7割程度、脳の容量も7割程度、そういう社会になっているのかもしれない。これは別に不幸な未来を話しているわけではなく、ただただホモサピエンスの基準がそうなるかもしれないという話だけであり、その時の人類には最適な脳の容量になるだけの話である。ただ、もしかすると余白の活動というか、必須ではない活動である文化的な創造性の高い活動は低下していくのかもしれない。そこには少し悲しさを感じる次第である。

空飛ぶ車

我々が子供のころ、1980年代の話だが、21世紀は遠い未来のように感じられていた。1999年にノストラダムスの大予言で世界がめちゃくちゃになると言われても、どこか現実感はなく、未来の話であった。当時の漫画、映画、これらでも21世紀には電車は空中のパイプのようなものの中を走行して、ビルは雲に浮かぶような高さで、車は勿論空を走っていた。

21世紀も20年以上が経過して、20世紀の記憶は歴史というか過去になりつつある。それくらい21世紀にどっぷりつかっている時期に差し掛かっている。ご多分に漏れず、21世紀も最初の20年間は色々あったが、産業構造の返還点であることは言えるだろう。

まずインターネット上での取引割合が、コロナウイルスの感染拡大もあり、急速に進んだ。Amazonなんかもそうであるが、そういったオンラインで販売する業者の売り上げが急速に増えた。これは不可逆的なトレンドと言えるだろう。特に日本では、オンライン販売というのは需給の問題よりもセキュリティーの問題で敬遠する人が多かったが、止むに止まれずにオンライン取引に個人が大量に入っていったことで、利便性が認識されることとなり、これが元の状態に戻ることはないだろう。

物事を進めるというか、旧来型のシステムなりやり方を変える時というのは、多かれ少なかれリスクとリターンがあるわけで、オンライン取引においては、リスクはセキュリティーの問題で、リターンは利便性であった。もちろん、店舗に行くことで触覚的な体験ができることなどの利益もあるが、メインはセキュリティー対利便性であった。

世界を変えた14の密約

この図式というのは企業経営であっても、家庭の細かな設備投資や意思決定でも適応できる簡単な図式である。何かを変える時には必ずメリットデメリットが発生する。デメリットを許容できるかどうか、これが革新につながると言っても過言ではないだろう。コロナウイルスの拡大はデメリットを打ち消す効果があった、オンライン取引においてはそのことが言えるのだと思う。

話を戻すと21世紀になっても空飛ぶ車はそれほど普及していない。これはまず技術的な問題があり、リスクとリターンの話以前の話であることはある。技術的に燃費特性につながる軽量化、騒音を制御する技術、これらが普及に至るほどのレベルに至っていない。例えば数億円を支払えば実用に耐えられるような物は作れるだろうが、価格の問題が出てくる。これは初期の計算機と同様で、どこかの研究所で国家予算を使うようなコスト度外視のところでのみ使われる、そういった環境であろう。

しかしながら一つのブレークスルーがあり、これはオンライン取引と密接にかかわっており、まずは小口配送の増加が輸送業界では顕著でありトラック運転手の不足、不足によるコストアップ、これらが出てきている。それらを改善する手段としてドローンによるラストワンマイル輸送がクローズアップされることになった。これも従来は安全面とコストの問題で進んでいなかったが、輸送業界の方の事情が変わり、コストを許容できるようになってきた。そこで議論が進むようになったわけである。それに伴い短距離の航空管制の議論が進むようになってきたのと、ドローンのデザインの効率性、適応部材やモーターの最適化も研究されるようになってきて、空飛ぶ車の基礎的研究が多くなされるように時代が変わってきている。

航空管制の問題と安全面を担保する国際的なルール作りが進むと、物を作る方は設備投資、研究開発が進むわけであり、それが今の空飛ぶ車の研究、実証試験ブームに繋がっていく。

ここで思うのは未来というのは連続性の上に成り立っているものではないということで、非連続な出来事、例えば今回でいえばコロナウイルスのパンデミックということになるが、そういった非連続の突発的な事象により大きな飛躍が起きる、これの積み重ねが未来なのだろうという点である。先日テレビ番組であさま山荘事件がカップヌードルの知名度の拡大に寄与したということをやっていたが、通じるものがある。未来の変化と言うのは振り返ってみると、徐々にトレンドとして変わったという面よりも、例えばスペイン風邪、例えばブラックマンデー、例えば二度の世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、プラザ合意、リーマンショック、こういったビッグイベントが大きな影響を与えるのだろう。もちろん、世界大戦なんかは、それまでの歴史の積み重ねで発生したという考え方もでき、徐々にたまったマグマが噴火したのが世界大戦に繋がっている側面もあるのであるが、第一次大戦でいえばオーストリアで公使が殺害されたのがきっかけで戦争に至ったわけで、実は世界規模の変革に与える非連続な突発事象の影響が、思っているよりも大きいのだと、そういう認識に至るわけである。