海の民と陸の民

地球の面積の7割は海であり、残りの3割の陸地に住む人類にとっても海は重要な存在だ。物流の2/3は海上輸送で行われており、だからこそ大都市は沿岸部に出来る。国内から、海外から問わず、物品の獲得にコスト面でも有利であり、結果的に人口の増加を支える事が出来る。

特に日本は国土の7割が山地であることもあり、限られた陸地が沿岸部に多く、そこに人口集積がなされる。これが現代の大都市の図式であるが、歴史的には海は脅威であり、陸地は安定であった。もちろん陸地で遭難したり、事故に会うリスクもあるが、海上での移動におけるリスクと比べると、海上のリスクははるかに大きいと言えるだろう。

マゼランの頃の大洋への航海などは死を覚悟して臨むものであっただろうし、とにかく海の冒険というのは死へのリスクが付きまとうものだと思う。食糧確保においても漁船での漁においては、陸上での食糧採取に比べて死へのリスクが高く、海の民というのはリスクを取って、リターンを得るという文化的なバックボーンの中に生きているともいえる。

日本、特に東南アジアから渡来してきた俗にいう縄文系の履歴を持つ民族はかなり「海の民」的であったと推測される。その渡来の経路を見てもそうだが東南アジアから台湾と沿岸部を移動してきて日本列島に入ってきたという見方が一般的であり、海との繋がりが強い。一方弥生系と俗に言われる人々は中国の大陸の方から渡来してきたと言われる。

いづれにせよ、日本という地理的な条件も、人類の移動経路的な条件から見ても、日本は比較的「海の民」的な背景が強い国家であり、タンパク質消費においても魚介類が多い部類に入るだろう。因みに世界で一番魚介類の消費が多いのはアイスランドであり、共に火山国であることは興味深い。海の民はリスクを取って生存してきた歴史があり、ジャックアタリの著書によるとイノベーションに比較的長けた民族と言えるのではないかとの事であった。一面ではそうであり、米国が世界一のイノベーション国家で居続けるのは、彼らは欧州から死ぬ覚悟で海を渡って移住してきた人たちの集団であるからだろうか。それでは日本はどうなのかとなると、今のところ、現代社会の産業においてイノベーションに長けた集団とは言いずらい状況であることは確かだろう。

これを議論するためには、恐らく、海と陸という世界的概念で見た対立軸だけではなく、宗教観や倫理観を含めた議論が必要になり、日本の場合に重要なのは、中国渡来の儒教的価値観であろう。儒教的価値観において、年長者を敬うというのは絶対的な価値観であり、年長者や歴史、伝統的なふるまい、これらを過度に敬うと、イノベーションが起きずらくなる。先人が言っている事を尊重しなければならないので、それを翻すような発言が出来なくなる、という昭和的価値観に繋がっていくのだろう。

封建制、上下関係、これらも同じ論点である。ヒエラルキーは軍事的には重要な価値観であり、上官の命令が絶対、というシステムが無ければ、軍隊は統率を取れず、集団としての力が弱まる。その観点で、軍事の面で見ると儒教というのは非常に優れた統治システムであり、価値観を提供していたのだが、現代のようなイノベーションの時代に移ってしまった今、儒教的価値観というのは時代遅れになりつつあり、過度な年長者への経緯は中長期的な国力にも影響してきてしまう。この部分の価値観の転換というのが上手くなされておらず、政策決定においても中途半端で八方美人的な政策ばかりが実行され、時代に即した先行投資に制作資金が繋がって行かない、そういったジレンマに陥っているのが現代日本の現状ではないだろうか。

独裁者を生み出す民主主義

独裁者を生み出す民主主義

独裁政治と民主政治というのは対極にある様なイメージがあるが、非常に関係が深いものだと思われる。独裁者というのは、民衆を抑圧する存在で、自分の都合の良いように進めるという、例えば今で言うと北朝鮮の指導者のような存在がイメージに上がって来て、民主的な選挙が無い国で、世襲で指導者が決定されるような政治体制を独裁的と認識し、独裁的な政治体制は強権的で、市民を抑圧するような体制だというイメージがある。

そのイメージはある意味では正しいが、民主的な政治体制においても独裁的になっていく事はあり、そこが民主主義政治体制の危うさである。これは古代ギリシャ時代から言われている事で、民衆の支持を得るためには、実効性が無かったり、理想主義的な政策であっても、民衆の得票を得るために、無茶苦茶な公約を掲げて選挙に出る事が出来るからだ。特に国が苦境に陥っている時には注意が必要で、ドイツにヒトラーが出現した時もそうだが、国民のプライドが壊された時、純粋に経済状態が良くないときは、誰が政治を主導しても変わらない、ただただプライドを取り戻そう、という感じになり、ナショナリズムが台頭する方向に行くのかもしれない。

現代で言うと2016年からのトランプ旋風、17年からのトランプ政権は、アメリカの相対的な凋落と、そこで傷ついたアメリカ国民のプライドの復活のための、大衆迎合、衆愚政治の始まりだったのかもしれない。プライドの復活のためには、国民は強権的な政治を受け入れてでも、面目を保とうとする。それの行き着く先がヒトラーによる大戦への行進だったのかもしれない。

全体主義がイタリアやロシア、日本にも広まったと言われるが、当時の各国には一応選挙の仕組みがあり、それによって選出されたのがヒトラーであり、ムッソリーニであった。ヒトラーに至っては国民の大多数が支持をしていたのは当時のニュースや映像からも明らかである。 国民という存在は、それがドイツであれ、日本であれ、非常に脆いものであり、マスの人数があるから扇動には強いとか言うものでもなく、むしろ扇動によって右にしろ、左にしろ、考え方の振れ幅が加速してしまう。

これはバブルを生み出すメカニズムと似ているのかもしれないが、一度定常状態から上なり下なり、右なり左なりにぶれが生じると、これが加速度的にそちらの方向へ大きく振れていく、これが世論なのかもしれない。安全装置が働いて、中道的な定常状態へ戻っていく場合もあるのかもしれないが、一定のブレ幅を超えたところで、国民の熱狂というものを生み出してしまうものである。ナチの台頭もそうであるが、太平洋戦争前半期の日本国民についても鬼畜米英、戦艦大和、国民全員でどんちゃん騒ぎをしていたような印象だ。

1980年代のバブルの熱狂もそうであろう。誰もが乗り遅れまいと不動産を買ったりゴルフ会員権を買ったりした。もちろんプロが買っているうちは良かったのだが、当方の親族もそうだったが、素人が乗り遅れないようにと思って株に手を出す頃からが本当のバブルであり、その熱狂がバブルの拡大を生み出し、どこかの転換点まで突き進み、最終的にはじけてしまうのだろう。株価を2,3倍にしたバブル的な熱狂は、冷めていく時も同じ規模で働くわけで、みんなが我先にと逃げ出して、バブルは終わる。

そこには冷静な分析や、過去の経験則など働かず、皆が乗り遅れるな、逃げ出せ、という扇動に追われているだけであり、これは民主的な選挙においても現れる傾向であろう。旧来の既得権益を打破してくれそうだ、こういったものは熱狂を呼ぶ。これは細川政権誕生、小泉政権、2009年の民主党政権誕生で日本でも感じられた熱狂であったかもしれない。経済的に疲弊する時期にこういった事が発生する傾向が強いと思われるので、2021年の菅政権も危険な状況になるかもしれない。さらに保守的な勢力が出てくるのか、それともリベラル勢力が盛り返すのか、その点が分からないが、コロナの状況下、国民が一つの方向に熱狂してしまう可能性は否定できない。

税収と再分配

国家というか政府というか、例えば日本で言うと1億人ほどの国民がおり、民主的な選挙で選ばれた国会議員が立法を行い、そこで多数派を得た政党が政治の担い手である内閣を組閣する。政府は国家試験で選出された官僚を手足として政策を実施していくのであるから、国民の意思のもとに運営されていると言える。

特に国政選挙によって政策の方向性が国民によって選択されているのである。政府の機能というのは何なのだろうかと考えると、一つには国民を守るというのがあるだろう。これは例えばヒトでなくても、動物の群れでも持っている機能であり、集団はまずは外敵からの攻撃に対処するという面があるし、攻撃に対処するために群れ内部の秩序が必要であり、動物の場合は暗黙のルールであり、現代のヒトの場合は法律であり、それを専門的に秩序維持にあたるのが警察権力という政府機関になる。

もう少し時代は進んでヒトが農耕栽培を始めたころのたとえで言うと、食糧の備蓄の様な将来への備えも集団であるからこそ行う事であり、国民の将来を守る事につながる機能である。これら国民を守るというのが機能として一番目にある事は間違いない。ここで本来的には日本の立法、行政において軍事的な側面が一番に議論されるべきだという主張を展開すべきであるが、それは今後の話題としたい。

国民の将来を守るという意味では、セーフティーネット的な側面も、現代社会においては重要である。歴史時代から比較すると国民一人当たりのGDPというか稼ぎは上昇しており、それに伴い最低生活ラインというレベルがぐんぐん上がっている。特に日本で言うと、高度経済成長以降には顕著であり、最低限の生活という基準が上がっている。そういった中で最低限の生活ラインを全国民に保証するためには、所得の再分配という機能が重要であり、それも政府の大きな仕事の一つと数えられるようになっている。ここには問題は二つあり、生活最低ラインをどうやって引くのかという事と、経済の活力を失わないようにするためにはどの程度の再分配をすべきかと言う事になるだろう。

この二つは密接に関連するわけであるが、予算総額を見ながらこの議論が必要なわけであり、結論を出すのは非常に難しい問題であり、1億人規模でこの議論が収拾するのか、非常に疑問が残る点である。隣人にとっての最低限の生活ラインは、当人にとっての最低限のラインと大きく異なる可能性がある。 再分配機能を高めるためには、富裕層への増税や相続税の増税、これらがキーになってくるわけであるが、どちらにおいても経済的な成功者のモチベーションを下げる事になるし、今後成功者を目指すべく起業や勉強、自己啓発をしている人間のモチベーションすら下げてしまいかねないという問題を起こす。

立身出世を成し遂げた豊臣秀吉のような存在もあるが、歴史的には武家が統治していた江戸時代以前においては、日本国では経済的な大逆転というのはほぼあり得なかった。武士は武士で、農家は農家であった。それが可処分所得の高まりもあって、現代社会においては立身出世は夢物語でもなく、個人の能力によって経済的な成功を切り開きやすい世の中にはなったわけである。

それがさらなる経済成長を呼び込むというのが米国流の経済成長であるが、今は再分配機能に注目が当たっているというか米国においてはジョーバイデンは再分配を高めるだろう。そうなると活力は失われる。日本においても、雇用調整金、特別給付金が出されたように、最低限保障ラインの議論が強まっている。これはコロナによる影響であることは間違いないが、比較的短中期において経済の活力が失われる可能性をはらんでおり、さらに再分配機能についての議論を呼び込み、負のスパイラルに陥る可能性がある。経済的に息詰まると戦争を招く。歴史はそうやって繰り返されてきたわけだが、スペイン風邪のようにコロナが引き金になる、というのはあながち無視できない論点なのかもしれない。