パナマ運河

パナマ運河

コロンバスによる新大陸の発見は1492年になされたと言われているが、そもそも発見ではない。そこには先住民が暮らしていたのだから、スペイン人にとっての新大陸の発見、そういう枕詞が常につく必要がある。マヤやインカの文明がスペイン人によって征服されていく足掛かりになっていくわけだが、いづれにせよ時代の大きな転換点ではあった。

その後、時は進み、時代は国際物流、国際貿易の時代となり、植民地経営により国力が左右され、砂糖や商品作物の貿易が活発になされるようになると、太平洋岸地域と大西洋岸地域の物流において、南米大陸の一番下まで行く事が非効率な事がクローズアップされて、パナマ運河の建設に至ったのが100年以上前である。数年間の大建設を経て、100㎞程度の陸地を横断する運河を作った当時の労力たるやすさまじいものであったと想像される。

人工的に湖を作って、さらに巨大な閘門をいくつも建設し、プール内への水の流入と抽出によって船を上下させて川を上ったり、下ったりさせて通過させていく。このプロセスをテレビで見ただけでも壮観であるが、テレビの情報によると一船の通行料は数千万円であり、年間約10,000隻の船が通行するらしいので、それだけで数千億円の収入になっている。もちろん、設備維持費にも莫大な費用が掛かるであろうが、100年以上前の莫大な投資を現在も回収し続けているという意味では、ものすごい先見の明であるし、素晴らしい投資であったと言えるのであろう。

国際物流を支えるコンテナ船や、その他の大型船において、パナマックスというサイズが船の設計において基準になっている。これはパナマ運河を航行できるぎりぎりのサイズと言う事であり、このサイズに収まっていないと物理的にパナマ運河を航行できず、物流がもの凄く非効率になる事になり、その大型船は主要航路では使えなくなると言う事になる。このように世界の基準をも決めてしまうパナマ運河という存在は非常に大きな存在であり、またそこに立国しているパナマという国の偉大さを感じる。

マラッカ海峡やホルムズ海峡は、陸に囲まれた水路ではあるが、海上であり、国土の中を通るわけではないので、そこまでの利益は得ていないのだろうと思われる。もちろん、一定の影響力を持つ国は存在するものの、パナマ運河とは違うのだろう。世界の物流を海が支えているというのは、これまでもそうであったし、これからも変わらないだろう。これは日本で言っても古来からの中国との貿易、東南アジア地域との貨物の往来、等々で千年以上前から行われてきた事であり、物を運ぶと言う事において、水による浮力というのは非常に好都合なファクターとなる。

陸運で例えばトラックで運ぶエネルギーや空運で飛行機で運ぶエネルギーと比較した場合、圧倒的に少ないエネルギーで運べるのは浮力が働いているからであり、水というか海があるから人々は豊かに暮らせる、貿易も行い、世界中の品物を手に取る事が出来る。時代は変わり、先端産業は常に革新にさらされるのであるが、海運が物流における重要な地位を占めている事は1000年を超える単位で変わっていないとも言えるのである。

国力を左右するもの

国力を左右するもの

人類の歴史は戦争の歴史、というのはよく聞くような標語ではあるが、実際に資源を巡る戦いの連続であることは間違いない。農耕が始まり、富の蓄積が出来るようになり、それが権力者を生み出し、様々な職業も作ってきた。権力が集中すると、権力をさらに広げようという欲が出る事もあるが、一方で権力者は維持のために奔走するというケースが多いのだろう。

例えば飢饉が発生した時に地域の住民を維持して国力を維持するために、食糧をどこからか奪ってこなければならない。天候状態が良く、平和な時に権力拡大のために戦争を行うというよりは、そういった危機に陥った時に止むを得ずに戦争が始まる、そういった図式がしっくりくるのだろう。一見、ただ権力拡大、領土の拡大のために始めているように見える戦争もあるが、第一次大戦のドイツにしろ、第二次大戦の日本にしろ、周囲の包囲網が迫って来て、止むを得ず資源の流通経路確保のために、各地域への侵攻を行ったという面もある。もちろん、領土拡大の最初のモチベーションは、大英帝国による植民地政策があり、これは富の簒奪に近く、不要不急の侵攻であった面もあるが、そこがドミノの一つ目になったとたん、これが各国の生命維持、国力維持への大きな脅威となり、資源の確保、食糧の確保に向けた戦争が始まっていくのであり、最初の一つ目を倒し始めた時点で、誰かが決定的な敗北をするまでドミノは終わらない、そういった構図になるのだろう。

第二次大戦時の日本についても、真珠湾に攻撃するに至るまでには、大英帝国による東への侵攻がまずあり、インド、香港が植民地されるのを見ているわけであり、その後、日清戦争、日露戦争と突き進み、軍拡が進む。軍拡を進めた当初の目的は欧米列強に飲み込まれないためであり、やはり国体維持のためのモチベーションが大きい。その中で俗にABCD包囲網と言われる国際的な経済制裁が科され、資源確保のために南進していくのである。19世紀、20世紀においては資源と穀物、これらの確保が国の運営の最重要課題であったので、そういう戦争が起きるに至った。

では21世紀はどうだろうか。穀物というか食糧の確保が重要な課題であることは変わりないが、これは先進国諸国が作り上げた序列が今後も生きる事になり、OECD、G7の枠組みが今後もコントロールするのだろう。食糧危機が起きれば先進国以外が犠牲になり、切られていく。もしかするとそこで戦争が勃発するのかもしれない。ただ食糧危機は報道されているほど簡単には起こらないだろう。テクノロジーがカバーできると思われる。

一方で資源である。これはオイルのような20世紀型の資源獲得競争は終わっていき、再生可能エネルギー電源の確保の争いが勃発するであろう。技術面での主導権争いと、発電方法自体のイノベーションの争いが起こる。蒸気機関による利点を工業面や軍艦などの軍事面でも徹底的に活用できていた英国が18,19世紀の世界秩序の中心になったように、再生可能エネルギー分野でのブレークスルーを行った企業や国による新秩序の時代が始まるのかもしれない。 勿論データ通信のイノベーションも世界を変える。伝書鳩や海底ケーブルが国力を左右してきたのも間違いなく、富の獲得には大いなる影響を与えるのであるが、こと戦争という意味でとらえると資源の獲得競争が引き金になるものではないだろうか。情報の獲得競争という意味と、資源の獲得競争というのは、ちょっと次元が異なっており、二つのレイヤーで物事を見る必要があるのかもしれない。差し迫った世界平和に対するリスクとして考えるのであれば、これは資源獲得競争であり、先述した通りドミノ倒しが起こり、決定的な敗者を得るまでのババ抜き状態が発生する事を考えると、その敗者にならない戦術がわが国には大事であり、再生可能エネルギーへの技術投資、国力投入は安全保障上も有益なのではとすら思う次第である。

マッチポンプ

2021年1月13日の日記より

緊急事態宣言を巡って様々な報道がなされているが、政策決定者の立場から見ると、緊急事態宣言をしないとか、慎重な姿勢を取ると言事が許されなくなっている。これは報道がそう仕向けている面もあるが、やらないリスクを過剰に見積もり過ぎている故だろう。

新型コロナウィルスに関して、多くの人が何を求めているのかというのが、非常に分からなくなってきた。何か政策決定者が有効な手を打てば、ウィルスは消えてなくなる事を期待しているのだろうか。鎖国状態にして、国民の外出を最低限にしたとて、今回のような死亡率も微妙、感染力は強い、こういったウィルスを消滅させるのは不可能なのではないかと思う。感染症としてイメージされるのはSARSとかMERSとか鳥インフルエンザとかエボラ出血熱のようなものなのかもしれないが、印象としては死亡率が全然違う次元であり、どちらかというと従来型のインフルエンザやもっと言えば風邪の類と同じような死亡率なのが、今回のウィルスであろう。

単純な話であるが、感染力が同じとした場合に、死亡率が高いウィルスは感染した人間が死んでしまうので、感染が広まらない。死亡率や重症率が低いウィルスの方が元気な感染者が感染を広げるので感染が広がる。もちろん、スペイン風邪やペスト、そういったイメージがあるので万全を期して感染を抑制する事は重要であるが、何から何まで感染症として同じに扱って良いのか疑問は残る。そういった感染力や、感染症そのものの性質に関する議論も大事ではあるが、一番問題なのは市民に考える力が無くなっている事というか、これはもしかしたら普遍的なものなのかもしれないが、とにかく問題には特効薬というか最適解が常に存在していると考えがちな世論だ。

例えば従来型のインフルエンザについて、政策を総動員したら毎年の感染者は減って行き、撲滅できるのであろうか。恐らくそれは無理であり、ワクチンを使った対処療法でしか対抗は出来ないし、現実そうなっている。今回のコロナウィルスも、Go toキャンペーンのタイミング、緊急事態宣言のタイミングを上から目線で、結果論でしかないのに後から批判する人をよく目にするが、非常に無責任に感じる。

政策決定者はその時点で様々なファクターを考えた上でベストな決定をすべく、ベストな対応をしている。インドネシアの賢者から聞いた話だが、「政策決定者に文句を言うのは簡単だが、政策決定者を選んだのは自分自身であり、政策決定者である政治家は国民のまさに鏡で、国民自身の縮図というかクローンである」というものだ。いいとこどりをしようとして失敗する国民性はこの国に蔓延しているのであろう。政治家や官僚、地方政府の役人たちが国民一般に比べて能力が劣ると言う事は無いわけで、バランスを考えて政策決定をした結果、遅れたり、タイミングを間違えたりすることもある。

ただ、そういった決定を行った事がない人間が、結果だけを見て、薄っぺらい批判をする、そういう傾向が強い。特にテレビという媒体においては、安く制作できる「情報番組」というよく分からない番組が増えており、そういう所で「専門家」とか「コメンテーター」として発言している人間のコメント程薄っぺらいものはないだろう。それに左右されて政策決定してしまうのもどうかと思うが、声が大きい人の思惑を無視すると民主政治では生き残れないので、政治家としては苦渋ではあるが、そういった決断に至るのだろう。