EUとESG

2020年10月27日の日記より

EUとESG

EUが史上最大のESG債を売り出そうとしている事が報道されている。環境経営と言う事で、欧州が今までも得意としてきた分野ではあるが、この頃の野心的な目標設定や、世界の主導権を握ろうとする動きは、いよいよ切羽詰まった感を出してきている。グレタさんという少女を担ぎ出し、NYへの移動に飛行機を使わないとか、かなりヒステリックな動きに見えたが、むしろ焦りが見られる。

これは地球環境が切迫しているから欧州の国々が焦りだしているのだろうか。恐らくそんなことは無い。彼らは自分たちが保ってきた秩序が壊れだしている、壊れているというか、新たな秩序から取り残されている事に焦りを感じているのだろう。

欧州の国々が今でも世界をリードしている事は少なくないが、以前よりは減っている。例えば、電池、太陽光、EV、これらの分野で世界シェアが高いと呼べる欧州企業はほぼ無い。もちろん、風力発電のVestasとか、BMWのEVとかがあるが、どちらかというと植民地時代、帝国時代から続く、Oil powerと、大航海時代の保険や投資で得た利益の残存で世界での存在感を保ってきた。もちろん、そういった資金をベースに環境投資、環境への教育予算、研究開発に以前から手を打っており、CERNなどの基礎研究も充実しているのが欧州の特徴かと思う。産業構造が大きく変化しており、今後製造業の分野でイニシアチブを握るのは欧州の国、特にドイツ、フランスをもってしても不可能になってしまった。

こちらの面でアジアの国々にもはや追い越されているという事実がある。特にコスト競争力で既に勝てない状況において、欧州の製造業には既に将来性は無い。20世紀の産業構造秩序においては欧州は死に体なのである。それでも以前は研究開発、基礎研究の分野では負けていないという自負があっただろうが、それらも追い越されることは確実である。

そうなってくると、今のところお金はある、製造業では勝てない、という現実を元に新機軸を作り、新興国が追い付けない分野を作り出そう、となる。それが新たな秩序を形作るのであれば、自らの覇権や存在感を示すことにもつながり、また資金の流れを潤沢にすることができ、自らの延命につながる。そこで欧州が躍起になっているのがESGという新秩序におけるリーダーシップと言えるだろう。

電力買い取り制度や、EVに対する補助金、排ガス規制で欧州は今までもTop runnerであった。それらが世界に広がっていくというのが定番であって、例えば自動車のエンジンや排気系統の技術は欧州が先進的で、他の国が追随するという形であった。しかしながら、そういったイニシアチブでは製造業の存在感が握れないことが分かった。圧倒的なコスト差によるものである。

ESG投資で金を呼び込み、社会を回し、研究開発のメッカという側面を維持して、存在感を維持していく、これが欧州にとって重要なのである。存在感という言葉を多く使うが、現在の資本主義社会において、資本を集める事が出来る人間が富を掴むというのは、根本原理であり、存在感があるか無いか、というのがグローバルな資本市場において重要なファクターである。

欧州の製造業の資金調達力が中国の製造業の資金調達力に比べて相対的に低下している状況なのであれば、次の話題を作り出して、資金を呼び込まなければならない。米国と中国はESGに乗るようなそぶりを見せながら、本格的に資金が集まってくるものか様子を見極めるだろう。これは欧州による大実験である。例えば水素への投資というのは、一朝一夕でできるものではない。単純にインフラ一つとっても、過去から金属の水素脆化というのは大きな問題として挙げられており、燃料タンク、燃料管、色々な研究開発が必要になるであろう。欧州は最後の賭けとしてESG投資を頼みの綱としているが、投資に見合うリターンを創出できるのか、試されている。

日本も製造業が地盤沈下を起こしていると言われて久しい。今後はトヨタや日立、三菱重工のような企業で負の遺産と呼ばれるベテラン、OB社員への福利厚生、等のコストが重荷になってくるだろう。

鉄鋼業で言うとすでに日本製鉄はそういう状況に陥っている。米国で、US STEELやGM、がそれらで苦しみ、労働組合がさらに問題をややこしくする、というのが00年代以前にあった。そういう状況は日本にも目の前に迫っている。物価が下落している中では、影響はさらに大きくなるであろう。そういった中でどうやって存在感を維持するか、これは欧州が模索している道に近いものになるはずであり、日本も省エネルックではないが、省エネ研究と材料の基礎研究分野では良い技術を持っていると思う。

それらをESG投資に生かして、欧州と共同歩調をとっていくのはどうだろうか。米国はテック企業があるから経済は回る。ESGも必要ではない。日本がテック企業を生み出せるのか、今のところ政府はそちらの方に関心が高そうであるが、日本の役割は省エネや材料の基礎研究領域の方が性に合っている感じがする。

アメリカには300年のゴールドラッシュの歴史があり、終着点が西海岸なのである。これらの人々は一獲千金を夢見る度合いが違う。島国日本というのは、そういった意味で社会全体としてゴールドラッシュ的な意識に欠けるところがある。テック企業がゴールドラッシュの頂点だとすると、文化的に日本から巨大なテック企業が出るとはなかなか思えない。日本は刀鍛冶であったり、水害対策の灌漑であったり、そういった分野に重きを置いてきた文化であり、自分たちの文化的な背景を今一度考えて、投資分野に繋げて行ければいいのではないだろうか。

植民地支配の意味

植民地支配の意味

日本が20世紀の前半に韓国の併合、日中戦争、太平洋戦争と大東亜経済圏を作ろうと邁進していたのは事実であり、当時韓国は日本の植民地というか、併合されていた。日本の法律で、日本政府が統治する形になり、もちろん税収も最終的には日本政府に入っただろう。

韓国政府が宣伝しているような、強制的な収奪や虐待などはあったわけはなく、日本と同じ法律が採用されて国家運営がなされていた。現在の韓国政府が言うような収奪が起きてしまうと、その併合した土地は持続可能ではなくなってしまう。民衆は疲弊して生産量が下がる事になり、併合というか植民地支配した意味自体が無くなる。

これは戦国時代の国盗り合戦でも同じことであるが、もちろん勝者による戦争中の略奪行為はゼロではないだろうが、基本的にはその土地で収穫できるものを収穫して税金として勝者が徴収する事が目的であり、それが短期的になくなってしまうような統治はしない。これは常識であり、勝ち取った国の民衆が持続可能に生産できる体制で統治しないと、国盗りをした意味が無い。特に戦国時代は石高が戦力を決める世の中であるから、むしろ征服された土地のコメの生産は増進する方に働くはずだ。

韓国併合時代もまさに状況はそうであり、日本政府の目的は、生産量の増大であり、その為の技術移転を行い、必要であれば日本本国から技術者の派遣も行う、そういったスタンスであったはずである。結果として韓国にいる農民の収入は増えるはずで、その上で税収が増えたと思われる。この税収を増やすというのは何をモチベーションとしているかというと、戦国時代と同じでまずは安全保障と言う事になる。

特に20世紀初頭の日本の置かれていた立場は微妙であり、アメリカや欧州列強が中国まで支配に入れつつあり、次は日本という状況になっていた。自らが生き残るために、日本は国家のサイズを大きくする必要性に駆られていた。これは安全保障上の要請である。国のGDPを飛躍的に増やして税収を増やすには、これは現代の企業経営にも通じるが、M&A政策をとるしかない。もちろん国家単体で見ても年に数%の成長が得られるが、M&Aのような植民地化を行うと、100%増までは行かないが、相手の国家規模が元の国の20%であれば20%増をするし、そこへ技術移転を行えば、100%が120%に増えて、120%が毎年数%の経済成長で拡大する、という好循環を生み出す。

植民地政策というのは現代で言えばM&Aみたいなものであったと思う。大東亜経済圏という連結企業のGDP総額を増額させて、日本国家への税収を増やす。このことが安全保障、すなわち軍事力に直接的につながる事になり、軍事拡大を達成できる。安全保障の力が高まり国家運営が安定する、これが究極的には国家運営の目的であり、だからこその植民地主義だったと言える。

一方で、日本に限らず植民地化した土地の統治というのは文化の違いなどもあり反発があり、これの統治は難しく、結局20世紀半ばあたりから、文化的なアイデンティティの目覚めがあり、多くの国の独立を呼んだ。それ以降国家はあからさまな植民地政策はとらなくなったが、企業を活用した対外直接投資によって自国に利益を呼び込み、税収を増やす作戦に出た。

これが国際企業の伸張に繋がって、現在のグローバリゼーションに繋がるわけであるが、租税条約を駆使しながら、外国に投資した企業の利益が自国に還流するようになっている。この分が国家財政を支えるというか、他国に比べて優位性を維持する仕組みになっており、国内経済的にはパイが小さくなりつつある日本もある程度の経済力を維持できている。

GDPは世界で3位である。ただ、米中の経済規模には及ばなくなり、安全保障上も一国では中国には対抗できない状態になりつつある。だからこその米国や他の自由主義諸国との連携は必要であり、今後も対外直接投資による間接的な植民地政策により国家財政規模の拡大を図りつつ、同盟国との連携に注力するという、政策が必要になってくるだろう。国内の内需刺激も必要だが、内需はある程度の範囲で変わらないものであり、国家規模を維持するためには、対外直接投資による貿易収支の増大が効いてくるのではないだろうか。

国防費に関する議論

国防費に関する議論

日本の国防費はGDP比で1%程度と先進諸国というか、色々な国と比較しても突出して低いと言われている。韓国は2.5%を3%に引き上げるらしいし、NATOという軍事同盟を結んでいる西欧諸国でもNATOの基準値は2%となっている。これはひとえにアメリカの核の傘、駐日アメリカ軍による抑止力、これら日米同盟、日米安全保障条約のたまものである。

尖閣諸島、竹島、北方四島、これらの領土を守るために自衛隊や海上保安庁は日々奮闘しているが、諸外国と比べて国防費が潤沢とは言えなくなってきている。もちろん日本のGDPの成長が止まっているから、諸外国の国防費に比べて相対的に費用が下がってきているからである。そういった状況の中、日本という国家を防衛というか文字通り守り、我々の子孫に安全で誇れる国を残そうとした場合、今後は国防費を増やす議論をしていかなければならない。

戦争を無くす努力をしていれば国防費、ひいては国防の配備すらいらないというような左寄りの主張はあるが、そんなわけがない事は戦争の歴史である人類史が物語っている。ヒトの行動原理の根本は欲望であり、相対的に他社よりも富を得たいと思っている。もちろん生存、遺伝的形質の保全、これらのために重要な事は言うまでもないが、最低限の生活ができていればいいと、本質的に一生思い続ける事が出来る人は多くはない。

皆が富を求めるのである。現代のような物質主義の時代になり、マネーが余暇や消費の中心となっていればなおさらである。国の中で富の争奪が行われるが、それでは飽き足らなく、国家間の競争に発展していく。さらには究極的には領土の奪い合いに発展するわけで、これは人類が数千年行ってきた事であり、これからもそうであろう。

そういう意味で国防費用というのは国家が考えるべきことの最重要な点の一つであるが、日本ではこれがなかなか進まない。敗戦とその後の教育によってあまりにもナイーブな老人が大量生産されてしまったからである。もちろん、明治維新以降、特に20世紀に入ってからの日本の拡大主義、軍国主義というのは、1945年の敗戦時に大きな傷跡となって帰ってきた。シビリアンコントロールの重要性を再認識するし、同盟の重要性も認識すべきであるが、改めて考えるべきは、国防における事前準備と、民主主義が善であるという偽善、これらであろう。

軍国主義の暴走を招いたのは、民主主義的な意思決定が無かったからではない。これはナチスヒトラーでも言える事だが、民衆の多くはその意思決定を指示しており、恐らく今以上に民主的な指示により、軍国主義的な方向に走ったと言われている。これは民主主義の怖い面であり、現在の色々な国で起こっている問題であるが、指導者というか政治家が弱腰を見せると、民衆という名の世論は一定の反発を示す。それがエスカレートしていくと、戦時中の日本やナチスドイツのような状況をもたらすのである。これが民主主義の暴走状態であり、危機の時は発生しやすく、2000年前後に始まった小泉政権も似たような感じがあったと記憶している。

こういったものの暴走を止めるには同盟関係という客観視できる存在が重要になるのであろう。国の内部は文化的にも感覚的にも同じ感覚に陥りやすいが、複数の同盟国家からブレーキをかけてもらう事が重要で、それこそNATOとか、軍事同盟ではないがEUはそういった民主主義の良い意味でのブレーキに少なからずなっていると感じる。

そういう意味では国防費の議論も一方に傾きやすい世論に対して慎重に議論していく必要があるのかもしれない。不安を煽り過ぎると国防準備を過剰にしないと不安だという世論が大きくなるだろうし、これはコロナ騒動でも見られた現象である。不安を解消してくれるのが政治であるというナイーブな人間たちが、政治に過剰に期待してしまう。税金を払っているんだから、全て解決してくれ、という安易な発想が大いに目立った。

事はそれほど簡単ではなく、コロナにしても国防にしても、完璧な対策などない。それを辛抱強く見てられるのか、という点が政治を見るうえで大事であり、コロナのケースで言うと日本は諸外国よりもそれが出来ていたのかもしれない。筆者の海外二か国での9年間の生活を通して感じている事は、政治家は国民の鏡であるという事だ。

国民が選出している政治家が政治をしているので、当たり前と言えば当たり前の事実かもしれないが、そういう認識をしていなく、「政治家は金に汚い」とか「政治家はうそつきだ」とか「政治家は民衆である国民大多数の意見を聞いていない」とかいう声はどこの国でも聞くが、それら国の政治家の「金の汚さ」「嘘つき度合い」「人の話を聞かない度合い」というのは、おおむねその国の国民の性質と一致している印象だ。もちろん個人差はあるが、適当な国民が多い国は政治家も適当に見える人が多い。「政府は綺麗事だけではなく、実行力を!」とか言っているキャスターがいたりするが、当人が実行力が無いんだろうな、と思うケースが多々ある。まずは、自分たち国民が選んだ政治家が政治をしていると言う事を改めて認識して、例えば資質が足りない国会議員がいると思うのであれば、それはそれを選んだ国民の資質が低いことの裏返しであることを自覚すべきだ。民主主義国家の政治を良くしたいのであれば、国民それぞれの資質を上げる必要があり、その為に教育であったり、自己研鑽、個人個人が意識を高める必要があるし、これは中長期的に政治主導で良いサイクルに乗せるべく、みんなが意識すべき事だろうと思う。