国家の存在意義

2020年9月1日の日記より

国家の存在意義

コロナウィルスの影響で業績が下がった企業を助けるため、失業率の増加を未然に防ぐためという意味合いで、雇用調整金というものが支給されている。業績悪化に伴い、一時帰休をした場合に、その分の賃金を国家が補てんするというものであり、週に一度、従業員には有給休暇を付与し、その分の賃金を国が雇用調整金という形で補てんするというケースに使われている。上場企業と言われる大企業でも活用されており、20年4-6月期に70-80億円の雇用調整金を受け取った企業もいると聞く。

バブル崩壊以降に日本で言われている事の一つに、収益性の悪い企業が退場していないことの問題点は言われている。雇用を守るというベクトルが、収益性が悪く、成長余地がない企業についても生かし続けて、そこで働く人々をその企業に縛り付けて、雇用を維持したと言う事で良しとするのが日本的な考え方であった。それには、まずは90年代、00年代には未成熟な転職市場の存在があったのだが、今これだけ転職市場が発達しても、上場企業を手厚く保護する姿勢を見ていると、もっと違う構造的な問題があるのかもしれないと思うに至る次第である。

米国の雇用対策をみると、報道の情報という限られた情報ではあるが、どちらかというと失業保険への給付を手厚くするというベクトルの方が強く感じる。この存在が労働者の働く意欲をそいでいるという見方もあるが、一方で企業の破産法申請件数は数多く、市場から退場していく企業の新陳代謝、と言う事で言うと米国の方が、その点を重視している事が伺える。

これは恐らく国民性の違いに起因しているというか、米国民というのは欧州から移民してきたピルグリムの時点から、夢を追いかけて渡航してきた人々であり、古くはゴールドラッシュ、今はアメリカンドリーム、という名前で常に夢を追いかけており、企業活動というのもアメリカンドリームという名の夢の実現装置なのかと思う。そういう意味では、新興企業が成功する土壌を作らねばならず、逆に言うと成長を失った企業には退場してもらわないと、新興企業が成長、成功する余地が生まれない。国民の最低保障に国家としては重きを置きながら、企業活動は新陳代謝を求めているのだろう。どちらかというと、最低保証を保証するのが国家の仕事で、企業活動にはそれほど関与しない、という米国的な思想が伺える。

一方で日本は、戦後復興、通産省、護送船団方式、そういった色がまだ残る。企業を守り、企業を盛り立てる事こそが、国民の幸福につながるのだという幻想が強い。これは発展途上であった60,70,80年代においては、国家運営、経済のかじ取りという意味では非常によく、効率的な発想であったのだろう。日本は豊かになった。

しかしながら、失われた20年、低成長時代と言われて久しい中、この国家主導で企業を守り、雇用を守る、という考え方は日本の中長期的な成長において、足を引っ張っている可能性すらある。業績優秀、成長性もある真面目な大企業に対して、旧態依然として研究開発もそぎ落として生きる事に汲々としているような大企業を生きながらえる手助けは納得感が無いと思う次第である。

そういった企業で停滞している優秀な人材が、成長企業に移動する事も妨げるし、日本国としての成長に繋がらないのである。これは以前に申し上げた、国家の中心層がどの年代なのかという議論に戻ってくる話であり、現在多くの企業において、90年前後の大量採用、00年前後の採用凍結、この影響が顕著に出ており、50歳前後以上の人間が特に伝統的な形の企業では多くを占める。これは今までの歴史にないくらいの割合で高齢社員が多い事態と言う事を表している。

彼らにとって、新興企業に転職して、第二の人生を歩むと言う事は選択肢としてあり得なく、こういう発想が国家としてなんとなく、大企業でも中小企業でも雇用調整金でとりあえず延命しようという結果、政策に結びついているのではないかと思う。こういう世代が新興企業への転職を選択肢としてあり得ないと思うのは、DX的なことについていけないというのもあるが、学生時代、就職時、90年代後半の最悪期、バブル崩壊時、このそれぞれにおいて甘やかされた世代だからである。

この点はもう少し詳しい議論が必要ではあるが、例えば現在60歳前後以上の世代は、90年代末のアジア通貨危機から始まった不況の時に大きな困難を中堅バリバリの40歳台で迎えている。リストラや色々な困難にさらされる世代であり、そういった事から上手い事逃れられているのが、現在の50歳代世代であり、その後の就職氷河期もあり、下からの突き上げも弱く、今まで比較的緩やかに生きてきており、自己啓発と課にも弱い傾向があると感じる。故に、転職などは選択肢になく、現在の企業に定年までしがみつく事を生業としてしまうのである。

勿論、以前にも述べたように、日本の優秀な大企業の底力は計り知れないものがあり、こういった特異な世代が退場すれば、成長路線に返り咲く可能性はある。それまで10年を長いと見るか短いと見るか、また日本の財政が持続可能な状況でいられるのか、そういった事とも関わってくるので、退場を則して、1年でも2年でも早く、そういった時代が来るように行動を起こし続けるというのが、それより下の世代の責務であり、さらに下の世代に対する責任なのかもしれない。

香港の中国化とアヘン戦争

2020年9月4日の日記より

香港の中国化とアヘン戦争

香港が中国に返還されたのは1997年で20年以上が経過したことになる。じわじわと進められてきた同化政策が本腰を入れられ、民主化勢力と中国政府勢力の衝突は昨年から報道をにぎわせている。西側のメディアは一国二制度を守り、西側寄りだった香港を今まで通り維持する方向を支持する報道であり、日本もどちらかというとそちらを追随するような報道が多い感じがする。香港の金融センターとしての機能、観光地としての魅力を総合すると当然のことのようにも感じる。

しかしながら歴史を紐解くと、植民地主義の最終段階として東アジアにまで欧州の勢力が伸びて来た時に、アヘン戦争を仕掛けてイギリスが香港を割譲したのが発端である事は忘れてはいけないのではないかと思う。筆者が小学生の時に香港はイギリス領土で1997年に返還される予定だと習ったが、こんな理不尽な話は無いと思った。植民地政策の苛烈さと、如何に欧州諸国が自国の利益のためだけに生きていたのか、という点を強調するような出来事だった。筆者は正確に調べたわけではないが、学校の知識で言うと、不平等貿易を押し付けられた中国側が英国に反発して、その報復として英国がアヘンの貿易を迫り、中国側は取り締まろうとしたが、巧妙に国民に浸透してアヘン中毒者は増えるは、貿易の不均衡(中国側の貿易赤字)は増えるは、傍若無人である。その貿易のための租界地として香港があったと記憶しているが、言い方は極端かもしれないが、例えば日本で言えば、沖縄は返還依頼一国二制度でアメリカの法律が適応される状態だったものが、日本の制度を適応しようとしたら沖縄の人々が怒り出し、アメリカが日本政府を批判する、というようなものである。沖縄本土復帰当時の国民感情がどうであったかは、詳しく知らない立場ではあるが、今の常識から考えた場合、我々日本人は「日本の領土になったのだから、日本の法律、日本の制度が適応されるのが当然だろう」と考えるのが普通ではないだろうか。

勿論、日本と米国に対して、中国と香港の違いというものは大きさが違うのかもしれないし、制度的に異なる面が大きくある、そういった突っ込む点はあるのだろうが、大きく見れば、こういう言い方が出来なくもない。

こういう所で報道というものの怖さを感じる次第で、報道では中国は軍隊を使って“民主的なデモ活動”を鎮圧しているという映像を強調し、軍隊の恐ろしさを植え付けようとする。ただ、国の秩序というのは、安心な国民生活のためには必要不可欠であり、治安維持は国の最優先事項である。国民もそのために税金を払っていると言っても過言ではない。米国でもBLM運動に対する軍隊の出動を批判的に見る向きが多く、日本のワイドショーでもコメンテーターと呼ばれるよくわからない人たちが、「一般市民に対して、一般市民で構成されている軍隊が銃を向けるなんて信じられない。物騒だ」という単純化して、偽善的なところだけを抜き取った歯の浮くようなコメントをしているケースがある。それをトランプ大統領のせいにしておけば、日本のワイドショー的には、悪の権力に立ち向かっている正義のヒーロー感を演出できてしまうのである。

しかしながらBLM運動も色々あり、暴力的であり、略奪をしているケースもある。そういった中で治安維持というのは国家として最優先事項であることは言うまでもない。しかも警察組織が批判にさらされ、国民の批判を受けている渦中であれば、警察組織による治安維持に不安が残る状況であり、軍隊の投入は正当化されると思う。軍隊の投入は自国軍隊を自国地域に治安維持のために送っているだけであり、どこかの国の侵略を進めているわけではないし、税金を使った治安維持である。これが批判されるのであれば、治安はどうやって維持されていくのであろうか。 治安維持と人権問題をもしかしたら比較したくなる方もいるかもしれない。二者択一論という単純化により、人権問題の方が重要なのだから、軍隊で声を消してしまうのは、如何なものかと。まず言える事は、これは対立事項では無いという事であり、人権問題の解決を行いながら、治安維持を行う事が重要であり、人権問題の議論を行うにも、反対的意見の立場の人に襲撃される、殺される、という恐怖がある中では正常な議論は出来ないはずであり、人権問題の議論はデモが鎮圧されたらおしまいではなく、治安が維持されてこそ正常な議論が行われると、認識すべきであろう。トランプ大統領が対立をあおっているという言い方を好きなマスコミが多いが、対立をあおっているのはマスコミの方だろう。その方が視聴率が取れるのは間違いないので、企業活動として利潤を追求する立場からは批判をしないが、責任転嫁をして権力者を貶めている様では、先を思いやられる。そういう浅はかな戦略は見透かされており、国民は責任転嫁をされている人を支持するのである。マスコミが報道する世論調査の結果にはあまり反映されないが。そういった面からも、今回の大統領選挙もトランプ大統領が勝利するのではないかと、筆者は考えている。

木を見る森を見るか

2020年9月10日の日記より

木を見るか森を見るか

多数派の意見を採用しようとするのが俗に言われる民主主義のメカニズムである。一方で、多数派の意見が正しいという確証はなく、少数派の意見を聞きながら、例えば政治であれば政策を決定していく事も、多様性という観点からも重要ではある。全体主義的な意見だけでは、将来の方向性を見誤る可能性もあるし、少数意見だから間違っているというレッテルを張ってしまう事で、人権がないがしろにされてしまう事もあるだろう。そういう意味で多数派、少数派、それぞれの意見が大事なのは言うまでもないのだが、多数派の意見なのか少数派の意見なのか、これを意識しながら意見を聞くことが大事である。

最近特に立ち位置を曖昧にしたままの報道が目立つ感じがある。Yahoo Newsとか複数の報道機関のニュースを纏めて並列で閲覧できる媒体であったり、ワイドショーというか情報バラエティというこれも似たような性質を持つ報道形態が増えているからだと思われる。これらの報道形態は、例えば、新聞で言うと、読売、産経、毎日、朝日、日経の記事をつまみ食いして、独自の取材は無しで、大媒体として展開してしまう。以前は、例えば家庭には一紙の新聞購読があり、例えば読売なら読売、朝日なら朝日という情報ソースが限られがちだったところに、Yahoo newsなり情報バラエティーがつまみ食いした情報を山盛りにして送ってくれる、という意味で、個人が得られる情報の量は増えたと言う事は言えるのだろう。

しかしながら、報道各社の立ち位置というか、例えば少数派の意見を意識して報道しているタブロイド的な新聞社の意見と、中立的に報道しようとしている某大手新聞社、リベラルを自任しているような大手新聞社、そういった各社の立ち位置が見えないままに、報道を受け入れてしまっている現状があるのではないだろうか。情報量が増える事は読者である個人にとっての安心感にはつながったのだろう、そしてそれが原因でこういった纏め的なメディアが存在感を高めたと言う事は言えるのだが、イデオロギーにしても数の論理にしても、統制が無くなっている。

この状態は民主主義というものへの大きな壁として立ちはだかる事になる。民主主義というのは冒頭で述べた通り、最後は多数決で決めよう、というルールである。多数派を形成できる意見が勝つというものである。利害が対決する陣営同士が決着を付けようとした場合に、民主主義のよりどころは数の論理になってしまうのである。しかしながら、少数派の意見が従来以上に取り上げられるようになり、マスコミは激しくとんがった意見や運動を面白おかしく取り上げる事で注目を浴びやすい面もあるので、少数派の意見が簡単に市民権を持つようになり、これがあたかも大多数の意見であるかのようになりやすくなっている。

例えば、日本の報道ではトランプ大統領を支持しない勢力でアメリカは満たされているような印象があるが、FOXニュースを見ればわかる通り保守層、トランプ支持層は確実に存在しており、むしろ支持率が40%前後以下にならない、所を見るとかなり強力な固定支持層がかなりの数いる事になる。報道されている事柄が、どれくらいの指示を受けている事柄なのか、注意をしている必要がある。 少数派の意見が市民権を持ちすぎる事になると、その主張者は、例えば選挙や政策決定投票で負けた時に、この負けを受け入れづらくなる。

本人は市民権を得た事によって、賛同者が多く感じ、自分の主張の正当性も裏書されているという思い込みが働きやすくなるからである。今度の米国大統領選挙についても言われる事であるが、もしトランプ大統領が敗北したとしても、トランプ陣営はそれを認めないのではないか、という予測もある。これはこの大統領選挙に限った事ではなく、今後ますます数の論理で決まる事を受け入れない勢力は増えていくだろう。少数意見をブログやSNSで発信しやすくなっている事もこの動きに拍車をかける訳であり、少数意見の数の増大、市民権の獲得の速さ、少数意見当事者の思い込みと正当性に関する過信、これらの傾向が進んでいくと、政策決定における多数決が機能しなくなっていく事に繋がり、民主主義は崩壊していく事になる。そのあとの世界は、武力なのか財力なのか、知力なのか分からないが、どれかに秀でた集団が統治するような、寡頭制政治的な、スターウォーズの元老院的な政治形態に移行していくのかもしれない。独裁的な政治は嫌うが、民主主義では政策決定が出来ない、となると何か客観指標で政治参加者を限定して政策決定をしていかざるを得なくなるのではないだろうか。