太陽の塔

先日、太陽の塔の制作の舞台裏を描いたドキュメンタリー映画を見た。岡本太郎の世界観を詳らかにする映画であったが、関係者の証言が興味深い、良い映画であった。

太陽の塔は1970年の大阪万博のために作られたものであり、今でも大阪市内の公園に現存する。当時、高度経済成長をし、合理性や先進性が重要視されていた日本において、全く逆を行く、原始性、生命の摂理を表現するような巨大なモニュメントを制作することは、想像もできないような大きなチャレンジであっただろう。

中でも気になったのは、塔自体の制作である。今でこそ大きなモニュメントがそこにあるので、製作が可能であるというか、可能であったことは理解できるが、当時は岡本太郎の思想を反映したあんなにでかいものを作ることは、相当大変であったようで、製作指揮者の方は戸惑いを今でも浮かべていた。確か100分の一スケールの物だか50分の一スケールの物を岡本太郎が制作して、それをパーツに落とし込んで制作していったのだが、岡本太郎ができるだけ自然な風合いというか、表面のタッチを追求したこともあり、難易度が高かった。

パーツをくみ上げていって、丹下健三が作った屋根を突き破るように製作が完了したときには大きな感動が得られたであろう。しかも内部展示は、生命の起源を感じさせるような展示になっており、そのスケール間には脱帽するばかりである。

この辺は岡本太郎の世界観もあるのだが、当時の日本の勢いも表しているのだと思う。少し前の中国のように、結局できないことは何もない、と開き直る感じというか、そこに岡本太郎の世界観があるなら、きれいに表現してやろうではないか、そういう気概があったのだと思う。いまだと予算がとか、コンプライアンスがとか、安全性がとか、色々言う人がいるが、そういうのを無視して進められる勢いがあったのだろう。

その勢いは経済成長と戦後復興があればこそであり、それが日本に自信を取り戻す中で、勢いを生み出していったのだが、太陽の塔と同時期の制作で、一体で世界観を表現したとも言われる明日の神話が表現するところが、アンチ経済発展、アンチ文明、的なニュアンスであるところが、岡本太郎が秀逸なところであろう。芸術表現もさることながらその哲学と、哲学を表現しきるところが、岡本太郎なのである。

純粋な芸術表現という意味での、人間の精神の発露という観点はピカソの表現力には岡本太郎は及ばないと思うのだが、世界観というか自身の哲学をその時代の社会性に対する攻撃として表現するという意味では、そこの思考力は秀逸であり、これは若い時代にパリに行っていたこと、その時代の哲学者や文学者を含むような当時最先端であった欧州の芸術家との交流があったことが大きいのであろう。

先進地域で、先進的なアイデア、思考にもまれることは重要であり、それがあるからこそ社会に対する論評や分析ができるようになる。内に籠って、評論家になる事の危うさが、総合的に示されていると思う。外に出て、多様な感性に触れることでこそ、国内というか内部の批判ができてくるものであり、岡本太郎の精神性、日本文化、世界文明へのアンチテーゼと言えるような作品のドキュメンタリーを見て、この点を再認識するのである。

アメリカのブランド

南北戦争といわれる内戦が終わった後、アメリカは疲弊していた。しかしながら産業革命がなされ工業化がなされたこともあり、その後急速に都市化が広まった。大都市にある工場で市民は働くようになり、農業や畜産業で牧歌的に暮らしている時代は終わった。

大都市に市民が集まるようになると、食糧問題が発生した。農家が作った野菜や、牧場から出てきた食肉を、都市まで運んで市民に売るという流通の問題が発生した。19世紀中盤から後半にかけてのフォードが車を大量生産する前で、さらに鉄道整備もこれからという時代において、物流が整っていなかったのである。

昨晩見たアメリカの巨大食品企業、というドラマによると、当時販売されてた食品ははっきり言ってどんなものか得体のしれないもので、腐っていたり、危険な化学物質に浸透されていたり、今日の基準でいうと毒のようなものを食べさせられていたようだ。アメリカ人にとって胃痛というのが国民病だったらしい。

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当時はFDAもなく、食品安全基本法のようなものもなく、賞味期限や、禁止化学物質、こういったものを取り締まる法律もないわけで、今の基準で議論するのはよろしくないが、今の基準でいうと想像できないくらい質の悪い食品が流通していたのだと思われる。

そんな中生まれてきたのが、Heinzのケチャップであったり、Cocacolaであったり、ケロッグのコーンフレーク、Hersey`sのミルクバーであったり、というのが生み出されてきた、そしてその発明には色々なドラマがあり、困難があった、というのがこのドラマの本質のところであり、なかなか興味深いものであった。

コカ・コーラは、モルヒネの代用として、コカの葉とコーラの実、カフェイン、ハーブ、いろいろなものを調合して、最終的には薬用炭酸水を混ぜてみたら、美味しかったし、当時はコカインの成分を取り除いていなかったから、興奮作用もあったようで、かなり怪しい飲料だったようだ。ただ、禁酒法的な流れが発生したときに、このSoft drinkという概念が時代にもマッチしたようで、アルコールがないが、爽やかになれ、高揚感が得られるこういった飲み物が売れていったようだ。

また、コーンフレークも、最初は医療用に消化のいいものを提供するために、細かく砕いたグラノーラを提供していたところ、院内で相当の人気になり、さらに潰してフレーク状にすると触感もよく、その後市販するためには砂糖を大量に投入するといいだろうということで、現在の形に近いものになりケロッグさんが販売したものである。砂糖を大量投入する時点で医療用の物から遠ざかるのだが、味が良いので売れたようだ。

当時のアメリカ人は金もうけのためなら何でも許される状況だったようで、コカ・コーラにしてもケロッグにしてもエピソードはドロドロである。産業スパイがいたり、人の弱みに付け込んで金を駆使して権利を買ったり、ロビー活動で自分に有利なように法律を制定したり、たった100-150年前の出来事であるが、隔世の感を感じる。

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ゴールドラッシュ時代、南北戦争、二度の大戦、冷戦、その後の一極支配、とアメリカ人は基本的には強欲ではある。常に争いながら、トップに君臨すべく生きている。これはイギリスから移住してきた時から変わっておらず、強欲で夢見がち、この本質は数百年経っても変わらないのだ、と思った次第である。

政治家の高齢化

本日の新聞を読んでいたら、元カリフォルニア州知事のコメントが載っていた。カリフォルニア州知事としての在任期間を見ると、なんと1975-1983年と2011-2019年と記載されており、恐らく30歳代で一度、その後60歳代後半から70歳代でもう一度州知事をやっていると思われる。もちろんその間にもいろいろやっているとは思うが、これだけのブランクを経て州知事をもう一度やるというのは、面白い例だと思う。

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このJerry Brownという方の例は面白いが、それ以外でも高齢の政治家は目立つ。トランプ大統領も、バイデン大統領も菅総理も高齢で、欧州もマクロン大統領が出てきて、カナダのトルドーが出てきて、これらは若返っているが、印象としては高齢化が進んでいる印象だ。

そもそも平均寿命は引き続き延びており、日本では人口に占める高齢者65歳以上の人の割合は3割ともそれ以上とも言われるぐらいに、全人口に対する高齢者の人数が増えていれば、高齢の候補者に対する共感も増すし、高齢の候補者の政策は高齢者向けであることが傾向としては高いと思うので、それが支持につながるという面もあるだろうから、自然の流れなのかもしれない。

一方でもう一つの要因もあるのではないだろうかと思うのは、政治家という職業の魅力である。例えば50年前と比べて政治家になる事のインセンティブが低いのではと思う。優秀な人材は政治家になるよりも投資銀行や弁護士、医者として働くほうが生涯賃金も多いだろうし、これは50年前よりも傾向が強くなっているんだろうと思う。立身出世といえば日本でも例えば田中角栄のような存在があるが、政治家として名を上げることは一つのモデルであったように思うが、近年は政治家で成功するよりも孫さんのように事業で成功するほうが、立身出世のモデルと言えるだろう。

若い人にとって政治家になる事の相対的な魅力がなくなってきている。これは国家公務員にも言えることであろう。報酬としての金銭の受け取れる量が相対的に低下してしまっているのである。これは政治家や国家公務員の給与額が絶対額としてそれほど上がっていないことの要因よりも、高額報酬の民間の企業の選択肢が増えており、優秀な人材がそちらに行っていることが現在の状況なのだと思う。

これの結果なのか分からないし、個人的な評価はよく知らないのでわからないが、結果として報道で聞くようなスーパークレイジー君のような話題性というか、もはやネタとして立候補して、当選を果たす、そういうような位置づけになってきている。もちろん地方議員の話ではあるのだが、これは象徴的であり、職業政治家を目指そうという人が減っていることの裏返しだろう。

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もう一つは過剰にリベラルが進んだ結果ともいえる。国民の知る権利による政治家の私権やプライバシーの制限もあり、これもインセンティブが減る要因だ。また、多様性というか、政治家に賢さや優秀さを求めず、良い人で、印象だけを求めるようになっている。リベラルが進んだというか、思考停止というか、両方なのだろうが、有権者が本当に優秀な人を選出しようという気概もなくなり、選出する能力も低下している、これが一番の要因なのだろう。大衆化しすぎた結果、専門性や知識、事務処理能力、こういうものの人の優劣を認めたくない人たちが、その部分をあまりに矮小化して話を進める。これは特にマスコミに顕著であるが、印象、過去の過ち、プライベート、これらにだけ焦点を当てて、政治という名のショーを煽っているのである。本当に優秀な人は選出されず、橋下元知事のようにどうでもいいことで叩いて排除しようとする。民主主義という政治形態の限界なのかもしれない。