都市間移動とラストワンマイル

ESGやSDGs、環境を意識した企業活動が重要視されるようになってきて、特に脱炭素の潮流というのはもはや激流と言えるくらい、大きな注目を集めている。各国が2030年、2040年の二酸化炭素排出量の目標値を発表する中で、EVやFCVが注目を集めるようになっている。

これは既に15年位前から論点になっているが、その中でEVが最適だ、FCVのほうが良いのでは、いやハイブリッドに勝るものはない、いやいや意外とガソリンエンジンが残る、さまざまな主張がある。これはそれぞれ議論している人々の立ち位置で正解が変わることの典型例であろう。

例えば筆者が住んでいた米国における自動車の位置づけと、日本の自動車の位置づけは必ずしも同じではない。以前も書いたが、米国の方が生活の足という位置づけは強いのではないかと思う。ヘンリフォードが大量生産を始めた国だけあって、自動車と生活の一体感は日本に比べると強い。もちろん、NYやLAのダウンタウンに住んでいる層は日本でいうと東京や大阪の大都市と同じで、通勤に自動車を使わない人々も一定数はいるが、割合として車依存が強い。しかも日常の足としてである。ちょっと郊外に行くと一家に最低二台は車があり、子供が大きいと3台、4台となる。これらの人々にとって、ガソリンスタンドというのは日本でいうコンビニと一体であり、これはもはや生活に欠かせないインフラの一部になっている。

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米国では文字通りコンビニがガソリンと一体で経営されているケースが特に郊外では圧倒的に多く、ガソリンスタンドに立ち寄ってコンビニに行くか、コンビニに立ち寄ってガソリンスタンドに行くか、両方のケースがあるが、ここの結びつきが非常に強い。これが何を示しているかというと、エネルギー補充、このケースだとガソリンということになるが、これに対する利便性を究極的なまでに要求するのである。

ここに従来EVの普及が進まなかった理由があるように思う。グリッドの不安定さもあるし、何よりコンビニに行く頻度が少なくなるというか、EVにしたとしてもコンビニに行くわけで、コンビニで買い物している間の時間に給油していた時と比べて、EVの充電が非常に煩わしくなるのである。それくらい、米国人にとってガソリンスタンドは生活に欠かせないインフラなのである。

そう考えてみるとよっぽどインフラ整備が進まないとアメリカ人のマインドはEVやFCVに向かいそうもない。よっぽどの補助金なので実質負担が少なくならないと、購入に向かうインセンティブにはならないだろう。

そうなってくると、家庭への普及ではなく、商用利用が重要になってくる。ここでようやくラストワンマイルになるのであるが、これは小回りが利くEVの出番になるし、例えば貨物の配送であれば、配送とともに、貨物の積み込みの時間と集荷ステーションという地理的な制約があり、これがEVの充電に有利となる。ガソリンスタンドとコンビニの関係と一緒であり、余っている時間を特定の場所で過ごす場合、そこで充電することができれば、便利と判断できるのである。

一方、FCVの場合、水素ステーションが必要になる。これのインフラ整備はもう少しお金がかかる。ラストワンマイル拠点に細かく整備するにはかなりの時間がかかってしまう。こちらはどちらかというと都市間移動や、長距離移動が中心となるだろう。例えば港に水素ステーションを作ったりして、そこからの物流で500KM離れた場所に貨物を運ぶ際、そういったところでFCVは活躍しやすい。EVは航続距離の問題があり、FCVが港で水素充填ができれば有利になるだろう。しかしながら、電気料金は再生可能エネルギーを使う前から競争が繰り広げられて比較的安い価格になっているが、水素はこれから価格が下がるものであり、現時点では非常に高い。太陽光発電や、風力発電、またLIBにしてもそうであったが、徐々に需要が拡大していき、徐々に価格が下がるというプロセスが必要になる。水素を含むそれらの価格は、流通量との逆相関になるからである。いきなり劇的に価格が下がることは考えづらく、例えばLIBの原単位当たりの価格が徐々に下がっていったように、これから10年とかをかけてようやく実用ができるレベルに落ち着いていくのだろうと思う。

LIBのケースで言っても、例えば10年前は価格が一定程度下がらないとEVの普及に繋がらないという論調が多くあった。これはかなり正確な予想であったのだが、今LIBが下がった世の中で暮らしている人々は、今のLIBの価格が常識的な価格と思っており、現在のEVブームはLIBの価格の低減で達成されている面が多分にあるのだが、その点はあまり強調されない。ボトルネックの要素技術というのは、乗り越えてしまうと、忘れられがちなのかもしれない。これはなかなか面白い視点なのではないかと思う。

成長曲線

ダイエット、英会話、ゴルフのレッスン、一般的には習えども習えども、頑張れども頑張れども、なかなか進まないものの代表例だろう。だからこそ、世の中には数多のダイエット本があり、英会話教室があり、ゴルフのレッスンがある。

最近では結果にコミットするRizapがダイエットとゴルフをどちらも扱っているが、何故かというと本質が同じだからであろう。そろそろどこかの英会話教室を買収して、英会話教室の経営にも乗り出すつもりかもしれない。

これらの代表的な三つの事は、二つの問題というか、イメージと違うことが影響して長続きしない、もしくは成長を実感できなくて途中で挫折してしまうということに繋がりがちだと思う。

一つ目は、実際の成長曲線がまっすぐ一次関数ではないということである。英会話教室に週二回通い、これを3か月続けると毎週毎週、授業毎に成長をしていることを人は想像する。しかしながら、これは海外で合計9年過ごして、インドネシア語と英語を習得した筆者の経験から言っても、間違いである。もちろん、例えばボキャブラリーという意味では、今週は100語、来週は200語というように増やせるかもしれないが、会話という意味においては、相手があること、話題が違うこと、これら変動要素が多すぎることもあり、毎回成長を実感するということはなかなかなく、大体は停滞期を迎えるのである。

これはダイエットという身体的な、意識が及ばないものにおいても現れる特徴である。筆者はここ1年で10キロ減量したが、一年かけてゆっくり減量することができたと自負している。やったことは朝食を無くして毎日16時間の断食時間を作ったことと、週4-5回で一回6キロのジョギングである。これを継続して1年以上行ったわけであるが、体重というのも減量期と停滞期がある。これは体の現状維持機能が働くからだろうと推測しており、痩せ過ぎると痩せないように体が代謝のスピードを変えたり、栄養吸収のスピードを調整しているのだと思う。それもあって階段状に減量というのは進んでいく。

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これが意味することは何かというと、英会話もダイエットもゴルフも、本質的には日本人の日々の生活には必要がないということであり、体であり脳であり、これらが身に付けることを拒むというと言い過ぎかもしれないが、脳なり体なりが一度抵抗を示すのである。そこで必要なのは、最初に始めた時以上の強い意志であり、ここの時点で辞めてしまう人が多いというのが事実なのであろう。しかしながら、これらが達成されている人を見ると輝いて見えるので、また暫くたってから、改めて始めようとなる。これが、ビジネスとして成功している所以である。人間は自分にはないものを求めるというか、憧れるところがあり、これらが英会話、ダイエット、ゴルフのレッスン、には結び付きやすい。しかしながら、その裏返しとして、日常生活で不要であるから一度は脳なり体なりの抵抗にあう。それが長続きしない一つ目の要因となってしまうのである。

二つ目の要因としては、自分がイメージしている成長曲線との乖離であろう。これは一つ目と重なる部分が多く、脳なり体なりが抵抗を示したときに、イメージは成長が続いていることをイメージしており、自分ではもっとできるはずなのに、できていないという事実を突きつけられてしまう。これがモチベーションの低下に作用してしまう。これも途中で投げ出す人が多い原因となっているのだろう。

実はこの日常に不要なものに対して脳や体が拒否反応を示すというのは、ここで上げた代表的な三つの種目だけに限ったことではないと思う。例えば仕事のスキル、例えば文学的知識、例えば優れた話術、こういったものも人それぞれにとって必要性が違っており、仕事をしている環境下においてもスキルを伸ばすことを不要と感じる人もいるだろうし、必要性が感じられないと、脳が受け入れに抵抗を示すことがあるのだと思う。海外生活で言語を習得できるかどうかも、抵抗を示してきた脳に対して、必要性のモチベーションが上回るかどうかで、大きく変わってくる。そこを超えられるかどうかは個人の意思の問題であり、積極的に突破できるかどうか、これが最初のスタートで差を作り出し、後々の成長に大いに影響を与えるものなのだろうな、と感じる次第である。

芸術の本質

岡本太郎が言う芸術の本質は今日の芸術という著書にあり、当方は非常に共感しているという話を以前に書いた。これは哲学的なところがあるのだが、彼曰く、芸術は美しくあってはならない。これは芸術というのを哲学的にとらえて人間活動の精神の発露として芸術を追求していった結果、小手先の技術ではなく、物事の本質を表現することこそ芸術だ、という感覚であり、かなり抽象的にはなってしまうが、そういう面で見たときにパブロピカソの芸術作品に当方は非常に惹かれるのは事実である。

ゲルニカやアヴィニヨンの娘たち、これらは衝撃的であった。岡本太郎の作品でいうと太陽の塔や明日の神話、これらも見てると感動してくるのは事実である。

一方で、色彩や構図、被写体自身、これらの美しさを切り取る、という面での芸術活動というのももちろんあると思う。この活動を含めて岡本太郎は言っているのかもしれないが、当方の視点ではやや別物である。

日常の美しさを切り取る、これは写真家にも通じるものがあるかもしれないが、根源的に美しく感じるものは存在してるわけで、これはそれぞれの文化的な背景もあるかもしれないが、例えば夕日に染まる海岸線を見ると、これも美しさで感動を覚えることがある。この一瞬のとらえ方に秀でた人間というのも存在しており、アンリマティスを題材にしたフィクション小説を読んでて、彼はそうであったのか、と認識するに至った。

切り取った場面を独特の色彩や構図にとらえなおして、芸術作品に落とし込む。これについても特に技法を競うわけではなく、真に美しい、誰から見ても美しいものを作り上げる、そういった気概でいる芸術家も存在しており、それが達成されると感動を生み出す。

ここにも認知能力の差というものが影響しており、ケーキを切れない非行少年という本ではないが、個人による認知能力の差というのは、我々が普段認識しているよりも、人間の中での個体差が大きい。一言で乱暴に言うと繊細さということで表現されるのかもしれないが、芸術家というのはナイーブな反面、認知能力が高く、色々なものに敏感であり、美しい瞬間を見つけ出すことに秀でている人がいるのである。ナイーブだからこそヴァンゴッホのように自殺にまで行ってしまうこともあり、話は飛ぶようであるが、三島由紀夫なんかもそういう世界の人間のように思う。ナイーブだからこそ、美しい瞬間を切り取りそれを表現することに長けていた。

現代でいうと色んなものに過剰に反応しすぎる人は、一応病名がつくらしいが、それくらいこれは恐らく遺伝的に細かいものに反応する特性が生き残っている。集団の中にそういう人間がいると、外敵から逃れるのに役に立ったのだと思う。そういう遺伝的な傾向が極限まで触れるとヴァンゴッホや三島由紀夫のように美しい瞬間を切り取る行為に長けた人間になっていくのかもしれない。芸術家というのはそういう意味では大変な職業であるし、この観点から言った場合の芸術家は選ばれし人間であり、だからこそ岡本太郎の論点とはちょっと別のところから考えるべきだろう、と思う次第である。