報道が煽る脅威

テレビをつけても、分かってるのか分かってないのかというようなお笑い芸人が司会の報道番組然としている番組が、「インドの変異株が」「大変なことになる恐れも」そんな事しか言わないで、煽り立てているので、テレビはほとんど見なくなった。

この一年間のマスコミの報道が如何にいい加減だったか、科学的な視点を持つことができないか、大いに立証されたと思う。昨年の5月頃に緊急事態宣言が明けたら、東京の感染者は1000,2000人と級数的に増えていく「可能性がある」と騒ぎ立ててたのを思い出す。

今度は変異株らしい。しかも、インドの変異株と言えば、インドが医療崩壊を起こして酸素ボンベの取り合いをしていたこと、ガンジス川に死体が流れていたこと、これらの映像と合わせて流せば、最大の恐怖を植え付けることができる。

3,4月頃から変異株にどんどん置き換わっているから変異株の感染力は高いという報道もあったが、前の株の勢力が弱まっていただけであろう。もちろん、それを感染力が高いという言い方もできるかもしれないが、そもそも「感染力が高い」という言葉の定義もせず、曖昧なまま連呼する。感染者一人が他者に移す可能性が高まるのか、恐らくそういう意味で使いたい人が多いのだろうが、そうではない場面でも「感染力が高い」という言葉を使って煽り立てている報道が多い。

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そもそもそういった似非報道番組で司会をしている人たちに共通していることは、その場を取り繕う言葉を紡ぐことに関しては、非常に秀でているのだろうな、ということである。だからこそ、その瞬発力が高い芸人出身の人が重宝されている。もちろん、その場を取り繕うことが上手な人間は一定程度の知能の高さも併せ持っているのかもしれないが、そもそも芸人さんという職業は言葉の定義、科学的な分析手法、論理的な構成、こういうのを曖昧にすることで、「ずれ」を生み出して笑いを生む職業であり、報道に要求したいような言葉の正確性、定義の明確化、科学的な分析、論理的な話の展開、こういったものを求めるのは、かわいそうなのである。

ではなぜそういう報道になっているかというと、視聴者が求めているのである。如何せん数学、理科、理系と言われる学問を軽視してきたこの日本である。文系なんて言葉は恐らく世界にはない。芸術と言われる分野を追求することを学問と呼ぶのか微妙であることはさておき、芸術的な分野以外の学問分野において重要なことは、論理的な構成力である。理系と言われる分野であっても、文系と言われる分野であっても、Paperは論文と言われる。文字から言っても論理性が必要なのである。

数学や物理学、これらを追求する学問がどこか変わり者の学問ととらえられている風潮がある。これは一定程度は世界的にも言えることかもしれないが、日本における教育においての数学の軽視は驚きを覚えるほどであり、大学入試に数学を課さない大学があったりするらしいが、そんな程度の論理性でたとえば企業の経営とかについてもできるのだろうか。

そういう社会的な前提の上に、非論理的な司会者が曖昧な表現を強調してしゃべることが好まれている。その場その場を取り繕って、軽い笑いにつなげる軽妙なテンポのみが要求されるようになっている。科学的な視点や論理的な構成を無視して、煽り続ける構図がこうやってできてくるのである。

何が良いたいのかというと、報道がすべて間違っているわけではなく、インド株の脅威も一定程度あるのだろう。ただ、何が重要な脅威であり、何が軽度な脅威であるのか、どの程度なら我々は苦難を受け入れて、乗り越える必要があるのか、そういった議論をしなければならない。オリンピック開催にばかり批判が向いているが、それほどの脅威なのだろうか。札幌のマラソンのプレ大会も批判が多くあったが、あれだけ感染対策をして、無観客と言っており、さらには海外から選手を招いたわけではないのに、何を脅威と言ってるのだろうか。恐らくは、「大変な時に開催する」という空気感だけが批判を受けた理由であろう。この空気で批判を作り出すことは、様々な可能性を積んでしまうことに繋がるし、空気を作り出すのはマスコミであることをしっかりと認識したほうが良いであろう。

過度な平等

コロナウイルスのワクチン接種が徐々に日本でも開始されているが、報道等によると高齢者接種の受付予約がネットとLineだけであり、朝日新聞系なんかは大々的に批判しているようだが、平等ではないというのが根拠のようだ。

ネットやLineを使えない人はどうするんだ、という論調のようだが、では他にどういう手段があるんだ、と聞きたい。電話で対応するのか、そんなことやってたら、接種までの時間がますます時間がかかるだろう。代替手段がないので、若干の不平等は受け入れて、まずはスピード重視でやろう、これが現実的な判断である。

この場合、スピードと平等、どちらも重要な価値観であるが、これの優先順位を天秤にかけてスピードを取るわけであるが、現在のコロナウイルス感染状況を考えるとスピードを重視するのは当然の選択であろう。

政策決定というのは、国のような機関であっても、民間企業の戦略や意思決定においても、善か悪のように二択ではなく、結局いくつかのファクターがあり、どれも重要で良いとこどりをしたいが、二兎を追う者は一兎をも得ずではないが、優先順位を付けざるを得ず、優先順位を決めることが政策決定になっていく。

優先順位という考え方が重要であり、スピードも重要だけど平等も重要、どちらも満たされるまでそこを動かない、これが非現実的な、非建設的な議論であり、とくに野党やバブル世代に目立つ。現実的な解を求めず、理想論ですべてがパーフェクトな状態を目指すので、些末な批判が多く、建設的な議論が進まない。

特に国の政策決定という場においては、平等、反戦、人命、これをもって議論を止めてしまう向きが多いように感じる。これらは三種の神器ではないが、超越した絶対的な価値観として捉えられがちで、例えば軍備増強の議論も、「反戦」の一言で議論が止まる。反戦でない人は暴力的で粗野なレッテルを張られかねない。

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コロナウイルスとの戦いにおいても、オリンピックと人命のどちらを取るのか、そんな非常に低俗な議論に、これはマスコミが誘導している。それに乗っかっている人がいることが不思議でならないが、人命も大事だし、オリンピックも大事である。コロナで亡くなっている人がいるのにオリンピックをやるのか、ということをいう人がいて、なんかそれらしい勇ましい言葉に聞こえるが、オリンピックをやることで死者が増えるのか、増えるのであればどれほど増えるのか、全く科学的な声は聞こえてこない。もちろん、海外からの入国者が増えるので、級数的に感染が増えるという予測めいたことを発表している人もいるが、こんなことは昨年の感染者予測でさんざん煽っていたマスコミが一番、信頼性がないことに気付いているはずである。

人命は大事だけど、オリンピックもやる。もし感染が拡大する兆候があれば、延期、中止をしかるべき時に判断すればいいし、開催後に感染者数が高止まりすれば、緊急事態宣言を出せばいい。そこの因果関係が曖昧なままで、人々の不満のはけ口として、政府やオリンピックを使う一部の人たちの行動は、見てて非常にがっかりする。

平等についても、世の中は決して平等ではない。これは生物の宿命であり、だからこそ進化が行われてきて、今の形状に至っているわけであり、生まれながらにして平等、ということはあり得ない。もちろん、それを是正しなければならないので、憲法に生まれながらに平等であるべき、とういことが歌われているのであり、平等になるように政策で誘導するべき部分はあるが、全てが平等になる事はあり得ないし、過度な平等を追求した結果が、共産主義であり、ソ連という実験国家の失敗であるとも言える。皆が平等なユートピア的な社会は成長を阻害する。スピードと革新が生まれないからである。特に革新は不平等であったり、劣等感があったり、凸凹があるからこそ生まれるわけで、民主社会主義的と言われる日本の文化では過度に平等を求めすぎるから、本質的な革新が生まれないのかもしれない。筆者は一部上場企業で勤務しているが、社内でも異常に平等を重視する傾向は強い。例えば、評価の基準と可に公平性を求めるのは分かるが、文化として平等を重視してしまう。それが年功序列的にもなるし、革新や変革、スピード感を失わせているのだろう。

差別の構造

緊急事態宣言が発出されており、休日の映画鑑賞が増えているが、昨日I am not your negroというJames Baldwinのドキュメンタリー映画を見た。アメリカ社会において如何に黒人が差別されてきており、どういう声を上げてきたのか、マルコムXやMartin Luther King牧師の意見を通してみていった映画になるが、興味深いものであった。

題名にもにじみ出ているように、何せ白人社会が黒人のステレオタイプを積極的に設定していった、これが軸になっている。例えば1900年代前半に作成された映画などでの黒人の描かれ方、これは先住民と呼ばれるNative Americanの人たちにも言えることであるが、白人の映画社会が例えば、黒人はコミカルでされど人が好い、先住民は人を食べるほど残忍で話が通じない、こういったイメージを植え付けるのに一役買っている。

James Baldwinによると、これらのイメージ植え付け映画が最悪であった。映画に出ているような黒人男性は実際には存在してないし、しているとしても稀であり、本質的なところでは揶揄しているようにしか見えない。これは確かにそうであろう。あえて映画や書籍でそれらのイメージを作り出して、レッテルというか国民の間にステレオタイプ的なイメージを植え付けた。

これが何故行われたのか。ひとえに白人の強迫観念からきている、というのが映画の趣旨である。これが差別というものの構造的な問題というか、本質であるが、差別する側は、被差別側が恐怖なのである。被差別側が教育を受けて、経済的に豊かになり、差別する側と同じような境遇になり経済的にも変わらない力を持つことが恐怖なのである。これが基本的な差別の構造だと筆者も思うし、映画の主張もそこにあったと思う。

それが何故恐怖につながるかというと、必然的にパイが減るからである。100あるものの99を独占していた白人が、黒人が広く教育を受けることによって同じような学力になり、大学進学や企業への就職、起業において平等になる事で、当時の人口比である例えば12%は黒人の物となるとすると、99が88とか87に減るわけであり、これが恐怖を呼び込むのである。もちろん、経済は年々大きくなり100が110にも120にもなるから、白人が得られる絶対量は99から増加するはずであるという反論がありそうだが、そういう絶対値ではなく、ここでは相対値が問題であり、自分たちの相対的な既得権益が棄損される、これが恐怖なのである。

これはどこの差別に適応しても比較的すんなりと受け入れられる理論だと思われる。例えば、日本国内に在日韓国人、在日朝鮮人の人に対する差別があるとされるが、これも比較的所得が低い水準である在日社会の人たちが、権利を拡大していくことにより、自分たちの既得権益が棄損されることが怖いのである。ここでいう権利というのは相対的なものであり、絶対的な基準では非常に低い水準の権利であっても、例えば、差別側が100の権利を持っており、被差別側が10の権利であり、これが15になるというだけでも抵抗を示したくなる。絶対値が低くても相対的に上がることが、恐怖を生む。恐怖というのはそれほどに計測するのが難しく、ひとたび燃え上がると小さなことでも大きくなる。こうやって制御が難しくなり、結果差別につながっていく。差別の構造というのは、結局は差別側の恐怖に支えられている。そして、既得権益が棄損される場合に発動されるので、差別というのはどこまで行ってもなくならない。これは富が存在する限り、避けることはできないであろう。