税収と再分配

国家というか政府というか、例えば日本で言うと1億人ほどの国民がおり、民主的な選挙で選ばれた国会議員が立法を行い、そこで多数派を得た政党が政治の担い手である内閣を組閣する。政府は国家試験で選出された官僚を手足として政策を実施していくのであるから、国民の意思のもとに運営されていると言える。

特に国政選挙によって政策の方向性が国民によって選択されているのである。政府の機能というのは何なのだろうかと考えると、一つには国民を守るというのがあるだろう。これは例えばヒトでなくても、動物の群れでも持っている機能であり、集団はまずは外敵からの攻撃に対処するという面があるし、攻撃に対処するために群れ内部の秩序が必要であり、動物の場合は暗黙のルールであり、現代のヒトの場合は法律であり、それを専門的に秩序維持にあたるのが警察権力という政府機関になる。

もう少し時代は進んでヒトが農耕栽培を始めたころのたとえで言うと、食糧の備蓄の様な将来への備えも集団であるからこそ行う事であり、国民の将来を守る事につながる機能である。これら国民を守るというのが機能として一番目にある事は間違いない。ここで本来的には日本の立法、行政において軍事的な側面が一番に議論されるべきだという主張を展開すべきであるが、それは今後の話題としたい。

国民の将来を守るという意味では、セーフティーネット的な側面も、現代社会においては重要である。歴史時代から比較すると国民一人当たりのGDPというか稼ぎは上昇しており、それに伴い最低生活ラインというレベルがぐんぐん上がっている。特に日本で言うと、高度経済成長以降には顕著であり、最低限の生活という基準が上がっている。そういった中で最低限の生活ラインを全国民に保証するためには、所得の再分配という機能が重要であり、それも政府の大きな仕事の一つと数えられるようになっている。ここには問題は二つあり、生活最低ラインをどうやって引くのかという事と、経済の活力を失わないようにするためにはどの程度の再分配をすべきかと言う事になるだろう。

この二つは密接に関連するわけであるが、予算総額を見ながらこの議論が必要なわけであり、結論を出すのは非常に難しい問題であり、1億人規模でこの議論が収拾するのか、非常に疑問が残る点である。隣人にとっての最低限の生活ラインは、当人にとっての最低限のラインと大きく異なる可能性がある。 再分配機能を高めるためには、富裕層への増税や相続税の増税、これらがキーになってくるわけであるが、どちらにおいても経済的な成功者のモチベーションを下げる事になるし、今後成功者を目指すべく起業や勉強、自己啓発をしている人間のモチベーションすら下げてしまいかねないという問題を起こす。

立身出世を成し遂げた豊臣秀吉のような存在もあるが、歴史的には武家が統治していた江戸時代以前においては、日本国では経済的な大逆転というのはほぼあり得なかった。武士は武士で、農家は農家であった。それが可処分所得の高まりもあって、現代社会においては立身出世は夢物語でもなく、個人の能力によって経済的な成功を切り開きやすい世の中にはなったわけである。

それがさらなる経済成長を呼び込むというのが米国流の経済成長であるが、今は再分配機能に注目が当たっているというか米国においてはジョーバイデンは再分配を高めるだろう。そうなると活力は失われる。日本においても、雇用調整金、特別給付金が出されたように、最低限保障ラインの議論が強まっている。これはコロナによる影響であることは間違いないが、比較的短中期において経済の活力が失われる可能性をはらんでおり、さらに再分配機能についての議論を呼び込み、負のスパイラルに陥る可能性がある。経済的に息詰まると戦争を招く。歴史はそうやって繰り返されてきたわけだが、スペイン風邪のようにコロナが引き金になる、というのはあながち無視できない論点なのかもしれない。

行動規範と感染症対策

欧米での新型コロナウィルスの拡大具合と東アジア地域である中国、韓国、台湾、日本での拡大具合には大きな差がある様に感じられる。もちろん、人種による遺伝子の違い、免疫の違い、体質の違いのようなものも影響しているのかもしれないが、興味深い要素に集団行動が得意かどうか、という面がある。人間は危機に瀕した時に集団で危機を乗り越える事がある。その為には集団の統制というものが重要であり、特に軍隊などではヒエラルキーによる指揮命令系統の徹底、集団での統制を取れた行動が、行動規範となっており、これはこと軍隊に関しては世界共通の価値観であろう。文化的背景が違う中でも軍隊という集団の中ではこういった行動規範が徹底されるのは、普段から統制を徹底していれば危機の時に統制のとれた行動につながるからであり、軍隊が直面する危機というのは統制が取れた行動が勝敗を分けるカギになる。

だからと言って日常生活、特に今日の経済活動において統制が取れた行動が全ての勝者に結びつくわけでは無いというのが面白いところであり、現在のようなVUCAの時代と言われ、過去の成功体験が現代に適応しずらい潮目の時には統制が取れていない、自由な組織の自由な意見、自由な個人のヒトとは違った発想が勝利を導く。GAFAはまさにそういった例の代表でありTESLAも該当するであろう。TESLAがカリフォルニアにあの工場を作った時はみんな鼻で笑っていた。要は統制が取れた行動が良いか悪いか、というのはその組織や集団が置かれた立場次第である。しかしながら、感染症の拡大阻止という観点においては、集団で外出を自粛したり、マスクを付けたり、皆が同じレベルの予防策を講じられることがもしかすると大きな違いになっているのかもしれないし、今回の感染拡大具合において、見逃されがちな大きなファクターかもしれない。

そもそも古来の宗教儀式なども例えばお祭りなんかは、皆が同じ行動をとる事で、何かの成果を得るための行動になっていたり、共同体の所属意識を高める事で他人への迷惑が掛からないように自制を行う、そういった一面もあるのかもしれず、そういった宗教儀式も行動の統制という意味で使われていた可能性がある。また、それらがどういう成果を求めたかというと、古来においては、脅威というのは凶作と自然災害、疫病が大きな問題であり、その中での疫病への対処方法として宗教儀式も発展してきた可能性がある。

冒頭の東アジアと欧米の比較という意味では、個人主義と、その反対という対立項に当てはめると、感染症拡大具合も見えてくるのかもしれない。その対比ではないが、そういう意味では東アジアの国はどちらかというとイノベーション的ではなく、先頭集団について二番手として生きていく、経済においてもそういった位置取りになってしまうのかもしれない。日本、韓国、中国、台湾の国々を見ているとそう思わざるを得ない。感染拡大を止める集団統制と、経済発展を則すイノベーションを生み出す個人主義、どちらがいいのかは分からないが、国民性、文化的背景からそういった区別になるのかもしれない。

日本の生活様式

日本語には、「水に流す」という言葉があるが、禊という意味でも手を洗ったり、水で清めたりする文化的習慣が多いように思う。滝行にしても水で悪いものを流すという意味合いもあるだろうし、転じて、よく手を洗う文化と言える。

感染症の日本史 (文春新書)

イスラムの世界も、とにかく水で顔、手、足を洗う。これらは恐らく、始まった当初は疫病対策だったのだろう。手洗いをする事によって、統計学も医学も、免疫学も発展していない時代から、有意に感染が減少する事が分かっていたのである。それに対して、アメリカに住んでいた経験から言うと、アメリカ人は外出から帰っても手を洗わない。家の中も、外もあまり感覚的に違いが無く、例えば家の中でも靴を履くという文化もそういう事だろう。これは疫病よりも恐らく大事な文化的な背景がありそうなっているのだろうが、外と中という概念があまりない。結果としてそれが今回の新型コロナウイルスの蔓延にもつながっている可能性がある。東アジア人は遺伝子的になのか免疫的になのか、欧米人に比べて今回のウイルスに感染しづらいのか、重症化しづらいのか分からないが、明らかに感染拡大の速度が違う。遺伝的な影響もあるのかもしれないが、そこまで大きな議論が展開されていないが恐らくは生活習慣が大きく影響していると思う。これは先にも述べたが、そういった疫病を退散させるための習慣が数多く残っている事からも分かる通り、生活習慣が疫病の拡大に影響を与えてきたのは明らかであり、日本のように文化的に単一に近い文化が2000年近く継承されている地域では、そのような習慣や祭祀を確認できるのである。

日本では床の上に、皿にのっけた食べ物を置く事も避けるし、例えば帽子を床に置く事すらよくない事とされる。筆者などは床と食べ物の間に皿があれば関係ないだろうから、無視していた習慣であったが、親からよく言われたのを最近思い出す。これは細菌学的に正しいのか分からないが、やはり習慣として「外」という概念に近い「足」に常に接している「床」と、食べ物をなるべく遠いところに置こうという、習慣があり、食べ物の清浄度に直接影響しないのかもしれないがそういった意識を持つ事、すなわち、「外」は徹底して汚いもの、不浄なもの、という意識を持っていたことがこんにちの文化に繋がっているのかもしれない。

そういう意味では穢れの思想のように過剰に血を避ける文化が日本にはあるが、これも既に現代的な意味では本質的ではないが、やはり感染症のように、獣から人への病の伝播を出来るだけ避けるために、文化として成立していったのかもしれない。例えばそういう本質的な意味でも文化の形成が4世紀に起きたとしても、日本は言語の面、民族の面、統治の面、それらで見ても少なくとも1700年前から同じものが支配しており、そういった歴史的な慣習が継続しやすい。感染症というのは世界各地で発生しているだろうが、それを避けるための習慣が残りやすかったのは、日本のように継続的な文化がある国なのかもしれない。もちろん、そういった文化があるから感染症を押さえられるわけではないが、どこかに文化的な面や、民族の記憶的な部分で、感染拡大の速度を少し抑える事に繋がっているのかもしれない。 新規のウイルスというのは、恐らく人口の過剰や、都市への過剰集中、移民の急増、そういったもので引き起こされるのだと思う。地球というエコシステムで言う所の人口を自動調整する機能であろう。居住可能面積が比較的小さく、島国であるという特徴を持つ我が国は、歴史的にそういった場面に出くわすことが比較的多かったことが考えられ、そういった意味で感染症との対峙の回数は歴史を見ても多かったのかもしれない。