国力を左右するもの

国力を左右するもの

人類の歴史は戦争の歴史、というのはよく聞くような標語ではあるが、実際に資源を巡る戦いの連続であることは間違いない。農耕が始まり、富の蓄積が出来るようになり、それが権力者を生み出し、様々な職業も作ってきた。権力が集中すると、権力をさらに広げようという欲が出る事もあるが、一方で権力者は維持のために奔走するというケースが多いのだろう。

例えば飢饉が発生した時に地域の住民を維持して国力を維持するために、食糧をどこからか奪ってこなければならない。天候状態が良く、平和な時に権力拡大のために戦争を行うというよりは、そういった危機に陥った時に止むを得ずに戦争が始まる、そういった図式がしっくりくるのだろう。一見、ただ権力拡大、領土の拡大のために始めているように見える戦争もあるが、第一次大戦のドイツにしろ、第二次大戦の日本にしろ、周囲の包囲網が迫って来て、止むを得ず資源の流通経路確保のために、各地域への侵攻を行ったという面もある。もちろん、領土拡大の最初のモチベーションは、大英帝国による植民地政策があり、これは富の簒奪に近く、不要不急の侵攻であった面もあるが、そこがドミノの一つ目になったとたん、これが各国の生命維持、国力維持への大きな脅威となり、資源の確保、食糧の確保に向けた戦争が始まっていくのであり、最初の一つ目を倒し始めた時点で、誰かが決定的な敗北をするまでドミノは終わらない、そういった構図になるのだろう。

第二次大戦時の日本についても、真珠湾に攻撃するに至るまでには、大英帝国による東への侵攻がまずあり、インド、香港が植民地されるのを見ているわけであり、その後、日清戦争、日露戦争と突き進み、軍拡が進む。軍拡を進めた当初の目的は欧米列強に飲み込まれないためであり、やはり国体維持のためのモチベーションが大きい。その中で俗にABCD包囲網と言われる国際的な経済制裁が科され、資源確保のために南進していくのである。19世紀、20世紀においては資源と穀物、これらの確保が国の運営の最重要課題であったので、そういう戦争が起きるに至った。

では21世紀はどうだろうか。穀物というか食糧の確保が重要な課題であることは変わりないが、これは先進国諸国が作り上げた序列が今後も生きる事になり、OECD、G7の枠組みが今後もコントロールするのだろう。食糧危機が起きれば先進国以外が犠牲になり、切られていく。もしかするとそこで戦争が勃発するのかもしれない。ただ食糧危機は報道されているほど簡単には起こらないだろう。テクノロジーがカバーできると思われる。

一方で資源である。これはオイルのような20世紀型の資源獲得競争は終わっていき、再生可能エネルギー電源の確保の争いが勃発するであろう。技術面での主導権争いと、発電方法自体のイノベーションの争いが起こる。蒸気機関による利点を工業面や軍艦などの軍事面でも徹底的に活用できていた英国が18,19世紀の世界秩序の中心になったように、再生可能エネルギー分野でのブレークスルーを行った企業や国による新秩序の時代が始まるのかもしれない。 勿論データ通信のイノベーションも世界を変える。伝書鳩や海底ケーブルが国力を左右してきたのも間違いなく、富の獲得には大いなる影響を与えるのであるが、こと戦争という意味でとらえると資源の獲得競争が引き金になるものではないだろうか。情報の獲得競争という意味と、資源の獲得競争というのは、ちょっと次元が異なっており、二つのレイヤーで物事を見る必要があるのかもしれない。差し迫った世界平和に対するリスクとして考えるのであれば、これは資源獲得競争であり、先述した通りドミノ倒しが起こり、決定的な敗者を得るまでのババ抜き状態が発生する事を考えると、その敗者にならない戦術がわが国には大事であり、再生可能エネルギーへの技術投資、国力投入は安全保障上も有益なのではとすら思う次第である。

海の民と陸の民

地球の面積の7割は海であり、残りの3割の陸地に住む人類にとっても海は重要な存在だ。物流の2/3は海上輸送で行われており、だからこそ大都市は沿岸部に出来る。国内から、海外から問わず、物品の獲得にコスト面でも有利であり、結果的に人口の増加を支える事が出来る。

特に日本は国土の7割が山地であることもあり、限られた陸地が沿岸部に多く、そこに人口集積がなされる。これが現代の大都市の図式であるが、歴史的には海は脅威であり、陸地は安定であった。もちろん陸地で遭難したり、事故に会うリスクもあるが、海上での移動におけるリスクと比べると、海上のリスクははるかに大きいと言えるだろう。

マゼランの頃の大洋への航海などは死を覚悟して臨むものであっただろうし、とにかく海の冒険というのは死へのリスクが付きまとうものだと思う。食糧確保においても漁船での漁においては、陸上での食糧採取に比べて死へのリスクが高く、海の民というのはリスクを取って、リターンを得るという文化的なバックボーンの中に生きているともいえる。

日本、特に東南アジアから渡来してきた俗にいう縄文系の履歴を持つ民族はかなり「海の民」的であったと推測される。その渡来の経路を見てもそうだが東南アジアから台湾と沿岸部を移動してきて日本列島に入ってきたという見方が一般的であり、海との繋がりが強い。一方弥生系と俗に言われる人々は中国の大陸の方から渡来してきたと言われる。

いづれにせよ、日本という地理的な条件も、人類の移動経路的な条件から見ても、日本は比較的「海の民」的な背景が強い国家であり、タンパク質消費においても魚介類が多い部類に入るだろう。因みに世界で一番魚介類の消費が多いのはアイスランドであり、共に火山国であることは興味深い。海の民はリスクを取って生存してきた歴史があり、ジャックアタリの著書によるとイノベーションに比較的長けた民族と言えるのではないかとの事であった。一面ではそうであり、米国が世界一のイノベーション国家で居続けるのは、彼らは欧州から死ぬ覚悟で海を渡って移住してきた人たちの集団であるからだろうか。それでは日本はどうなのかとなると、今のところ、現代社会の産業においてイノベーションに長けた集団とは言いずらい状況であることは確かだろう。

これを議論するためには、恐らく、海と陸という世界的概念で見た対立軸だけではなく、宗教観や倫理観を含めた議論が必要になり、日本の場合に重要なのは、中国渡来の儒教的価値観であろう。儒教的価値観において、年長者を敬うというのは絶対的な価値観であり、年長者や歴史、伝統的なふるまい、これらを過度に敬うと、イノベーションが起きずらくなる。先人が言っている事を尊重しなければならないので、それを翻すような発言が出来なくなる、という昭和的価値観に繋がっていくのだろう。

封建制、上下関係、これらも同じ論点である。ヒエラルキーは軍事的には重要な価値観であり、上官の命令が絶対、というシステムが無ければ、軍隊は統率を取れず、集団としての力が弱まる。その観点で、軍事の面で見ると儒教というのは非常に優れた統治システムであり、価値観を提供していたのだが、現代のようなイノベーションの時代に移ってしまった今、儒教的価値観というのは時代遅れになりつつあり、過度な年長者への経緯は中長期的な国力にも影響してきてしまう。この部分の価値観の転換というのが上手くなされておらず、政策決定においても中途半端で八方美人的な政策ばかりが実行され、時代に即した先行投資に制作資金が繋がって行かない、そういったジレンマに陥っているのが現代日本の現状ではないだろうか。

独裁者を生み出す民主主義

独裁者を生み出す民主主義

独裁政治と民主政治というのは対極にある様なイメージがあるが、非常に関係が深いものだと思われる。独裁者というのは、民衆を抑圧する存在で、自分の都合の良いように進めるという、例えば今で言うと北朝鮮の指導者のような存在がイメージに上がって来て、民主的な選挙が無い国で、世襲で指導者が決定されるような政治体制を独裁的と認識し、独裁的な政治体制は強権的で、市民を抑圧するような体制だというイメージがある。

そのイメージはある意味では正しいが、民主的な政治体制においても独裁的になっていく事はあり、そこが民主主義政治体制の危うさである。これは古代ギリシャ時代から言われている事で、民衆の支持を得るためには、実効性が無かったり、理想主義的な政策であっても、民衆の得票を得るために、無茶苦茶な公約を掲げて選挙に出る事が出来るからだ。特に国が苦境に陥っている時には注意が必要で、ドイツにヒトラーが出現した時もそうだが、国民のプライドが壊された時、純粋に経済状態が良くないときは、誰が政治を主導しても変わらない、ただただプライドを取り戻そう、という感じになり、ナショナリズムが台頭する方向に行くのかもしれない。

現代で言うと2016年からのトランプ旋風、17年からのトランプ政権は、アメリカの相対的な凋落と、そこで傷ついたアメリカ国民のプライドの復活のための、大衆迎合、衆愚政治の始まりだったのかもしれない。プライドの復活のためには、国民は強権的な政治を受け入れてでも、面目を保とうとする。それの行き着く先がヒトラーによる大戦への行進だったのかもしれない。

全体主義がイタリアやロシア、日本にも広まったと言われるが、当時の各国には一応選挙の仕組みがあり、それによって選出されたのがヒトラーであり、ムッソリーニであった。ヒトラーに至っては国民の大多数が支持をしていたのは当時のニュースや映像からも明らかである。 国民という存在は、それがドイツであれ、日本であれ、非常に脆いものであり、マスの人数があるから扇動には強いとか言うものでもなく、むしろ扇動によって右にしろ、左にしろ、考え方の振れ幅が加速してしまう。

これはバブルを生み出すメカニズムと似ているのかもしれないが、一度定常状態から上なり下なり、右なり左なりにぶれが生じると、これが加速度的にそちらの方向へ大きく振れていく、これが世論なのかもしれない。安全装置が働いて、中道的な定常状態へ戻っていく場合もあるのかもしれないが、一定のブレ幅を超えたところで、国民の熱狂というものを生み出してしまうものである。ナチの台頭もそうであるが、太平洋戦争前半期の日本国民についても鬼畜米英、戦艦大和、国民全員でどんちゃん騒ぎをしていたような印象だ。

1980年代のバブルの熱狂もそうであろう。誰もが乗り遅れまいと不動産を買ったりゴルフ会員権を買ったりした。もちろんプロが買っているうちは良かったのだが、当方の親族もそうだったが、素人が乗り遅れないようにと思って株に手を出す頃からが本当のバブルであり、その熱狂がバブルの拡大を生み出し、どこかの転換点まで突き進み、最終的にはじけてしまうのだろう。株価を2,3倍にしたバブル的な熱狂は、冷めていく時も同じ規模で働くわけで、みんなが我先にと逃げ出して、バブルは終わる。

そこには冷静な分析や、過去の経験則など働かず、皆が乗り遅れるな、逃げ出せ、という扇動に追われているだけであり、これは民主的な選挙においても現れる傾向であろう。旧来の既得権益を打破してくれそうだ、こういったものは熱狂を呼ぶ。これは細川政権誕生、小泉政権、2009年の民主党政権誕生で日本でも感じられた熱狂であったかもしれない。経済的に疲弊する時期にこういった事が発生する傾向が強いと思われるので、2021年の菅政権も危険な状況になるかもしれない。さらに保守的な勢力が出てくるのか、それともリベラル勢力が盛り返すのか、その点が分からないが、コロナの状況下、国民が一つの方向に熱狂してしまう可能性は否定できない。