セーフティネット

2020年12月9日の日記より

セーフティーネット

コロナによる経済の落ち込みに対して財政で対応しようというのは全世界で検討されている。バイデン氏は4兆ドルだかを4年でグリーンニューディールにとか、日本も国家予算が既にいくらか分からないくらい、国債発行が100兆円とか言っている次元になっている。

感染症の日本史 (文春新書)

言うまでもなく、これらのお金は国民の税金もしくは国債という形で将来への借金というもので担われている。現役世代の豊かさを維持するために、将来世代の貯蓄を切り崩している、そういう見方も出来よう。しかしながら、経済というのは程よいインフレをしながら大きくなっていくものであり、例えば米国で言えば30年前の100万円の借金は今や大した額ではない。そういった発想で雪だるま式に成長していくのが資本主義経済であるそういう言い方もできる。ここ30年間で大きく変わった事はお金の価値も一つであるが、経済格差は深刻な問題と言えるだろう。

30年前と比べて、米国では上位1%の占める富の割合が14%から20%程度に上昇している。50年前は10%程度だったらしいから50年で倍になっている。これはまさに複利効果であり、資産を持っている人間が積み立ての効果で裕福になっていくという資本主義の金利ゲームを端的に表している。その次元から考えると、資本主義経済という経済システムが転換されない限り、裕福な人間はより裕福に、そうでない人間はより貧困に、こういった傾向は今後も進むことは間違いない。日本は比較的中流が多い国、一億総中流などと言われたことも過去にあり、まだ年寄り世代にはその幻影が残っているかもしれないが、既に富の格差は発生しており、今後ますます格差が広がっていくだろう。これは制度的にというか、システム的に避けられない事である。

そうすると何が起こるかというと民主主義的な政策決定とのギャップである。富める人間の数は限られており、多数決をすると不利になってくる。経済的に不満を抱えた人間が政策決定に影響を及ぼすようになる。そこで何を行うかというと資本主義の破壊であり、全体主義的な政策の導入を叫ぶようになる。全体主義は中長期的に経済成長を止めてしまう事はソ連の実験で明らかであるが、そこに先祖返りしてしまうのである。

そうなるとデッドロックであり、まさに新興国の罠のようなもので、経済成長も出来ず、国家の混乱も止められないという状況になってくる。この両輪の両立は非常に難しくどこの政府も苦心している処だと思うが、本日の日経新聞を見ててその事態を出来るだけ避ける事にセーフティーネットとしての全国民への最低レベルでの現金支給は有効なのだろうか、とふと考えた次第。

不満を持つ人たちが立ち上がる時のモチベーションは何だろうと考えた場合、恐らくは「富の格差」というのに不満を持っているだろうが、大きな声に繋がるのは「食うに食えない」という事態になる時だろう。江戸時代の百姓一揆もそうだし、殿様がご機嫌で農民が食べるものがあれば、殿様が贅沢を尽くしていてもそれほど大規模なデモには発展しないだろう。しかしながら、困窮が極まると政治的な混乱が避けられないほど不満が鬱積する。そういう中、資本主義による経済成長を邪魔させない程度の生活を保障する程度の現金支給というのは、生活保護という政策よりも真剣に議論しても良いのかもしれないと思うに至った次第。

ESG投資ブーム

2020年12月15日の日記より

ESG投資ブーム

世の中が変わりつつあるというのは、こういう時のことを言うのだろうか。近年というか2020年になってからESG投資ブームというか、すでに一部の意識高い系の話ではなく、通常企業に対するプレッシャーにすらなりつつある。環境対応をしていない企業には、資金提供を止めるとか、縮小するとか、そういった流れだ。ESG投資だけに使う社債などの債権も出て来て、そちらは人気になるらしい。大手の鉱山資源会社が石炭の事業を売却するとか、日本でも大手のメーカーが将来的な火力発電所からの撤退を表明したり、日本製鉄は将来的なカーボンニュートラルを目標として設定した。

ただのブームと言えないのは、実際に資産運用している資金の出し手が、ポジティブな会社に投資するというようなVC的な発想ではなく、ネガティブな伝統的産業に対しても影響力を行使しようとしている点であろう。これについて、現在のところ、政府も人々も、誰も文句を言う手立てがない。ポリティカルコレクトネスに近いかもしれないが、有無を言わさずに正しい事として捉えられている。もちろん地球環境を保護すると言う事に対して文句がある人はいないだろう。持続可能な社会を作る事もそれだけで言ったら、間違っていると反論する人はいないし、反論の理屈は無い。しかしながらそのコストをどうするのか、これがコロナでマヒしている。

今回のコロナ感染症の与えた影響が二つあると思われ、一つはこのパンデミックという事態を目の前にして、人生や自分の考え方を見つめなおす機会を持つ事が、多くの人であったと思われる。自己啓発系、運動で体系改善、そういった需要が大きく増加していると聞いているが、パンデミックの前にお金も仕事も何もかもが無力であり、日々を楽しく、一日一日を充実させよう、というような発想が広がったのかもしれない。そういった自己啓発系の延長に、地球環境保護が心の安定につながるだろうから、と言う事でその辺の意識の高まりに影響を与えた気がする。これはこれでいい事だが、日常に戻った時に、なんか熱にうなされていたんだろうな、と冷めてしまうのが若干懸念される。ただ、さほどではない。

もう一つの影響が、企業業績も国家財政も、緊急事態だから気にしなくていい、というような発想が蔓延しつつあるのではないだろうか。日本国政府の国債発行額も記録的な領域になっているし、時短営業やGo toトラベル事業の中止に伴う補償も、補償がありきになってきている。20年の春先は財源論があったと記憶しているが、とにかく借金したもの勝ちで、日米欧それぞれで積極的な財政出動を競うようにすらなっている。企業の方も今年、さらには来年についてはもう業績なんか関係ない、そういう感じなのかもしれない。前述の日本製鉄なんかは本気で水素製鉄を行う事になったら、恐らくコスト的にペイしない。ただでさえ国際的な競争力に欠ける会社が、さらに積極的にコスト増加の道に行くことが、企業の存続にすら影響を与えてしまうのでないだろうか。社長がコミットしたことは一部で評価を受けている様ではあるが、大多数は実現可能性に疑問を持っている。ブームに乗るのもいいのだが、コスト的な分析、生き残るための施策は打っているのだろうか。ESGとかSDGとかいう言葉が今の流行ではあるが、これによって地球温暖化についてはOne of themでしかなくなってきている印象もある。特にSDGsについては確かに重要だと思われる17の事柄があげられており改善を目指すと言っているが、それぞれの事柄の問題点の検証は大きく行われているのだろうか。地球温暖化すらデータのとり方に信頼性があるのかという議論があり、人工的な二酸化炭素排出は温暖化にさほど影響していないという分析もある。

科学的な議論なしに、言葉が独り歩きして、それが世の中の常識にすり替わって行ってしまう、これは危険であるし、誰かの思惑が多分に影響している可能性がある。アメリカのビジネスの歴史をみると、朝食を取り始めたのはエジソンの思惑だったし、クレジットカードの促進により自己破産する人が増える事は事前に明確であったのだが普及に取り組んだり、健康的によくないものであることは分かりながらマッチポンプ的に健康食品を売り込んだり、お金の為なら道徳は二の次と考えるのが、言い方が悪いがプロテスタント的な発想だと思う。だからこそプロテスタント系は経済的に成功したという考え方もあるが、道徳心が強い我々にはついていけない発想を持つ事がある人たちなので、注意が必要だろう。

一般常識とは

2020年12月17日の日記より

一般常識とは

一般常識という言葉があり、会話の中でも常識というのはある程度の人数の割合で共通認識であるような感覚がある。人は何かと他人も自分と同じ常識を持っており、自分と同じ知識を持っており、同じ価値観を持っているはずであろう、と期待しているところがある。

昨日電車に乗っていたら、あきらかにおかしな人が乗ってきた。マスクはしているのかしてないのか微妙な状況というか外したり付けたりしていて、あからさまに咳払いをしたり、嗚咽をもらしたり、これらを何かわざとやっているようであった。周囲の人間がざわめき、座席に座っていた乗客がそそくさと車両から消え、そのおかしな人はそこの座席に座る事が出来ていた。その後も明らかに周りに迷惑を掛ける事を目的にしているような行動であったので、筆者も一度車両から出て、他の車両に移動する事になった。その時に、「常識のない奴だ。コロナ禍で皆が飛沫が飛ばないように生活しているのに。」と思ったわけだが、一方で、そのおかしな人の常識というのは何なんだろう、価値観は何なんだろう、とも思った次第。

これは橘玲氏の「言ってはいけない」、の議論になってしまうかもしれないのであまり好ましい話ではないが、人間というか民衆というか、日本で言えば国民というものの知識、知能のレベルは我々が実感したり、想像したりしているよりもはるかに多様であると言えると思う。

多様というのは格差が激しいという意味であり、非常に知能の高い人と、特別支援学級に行くようなレベルのグレーゾーンの人々がおり、恐らくは自分は平均的な人間だと思いつつも、そういう層に所属している人すら多数いるのだと思う。これが世論形成の難しさであり、マスコミではとかく国民は一枚岩的なうえで、多様な価値観を持っているようにふるまいたがるが、右側の隣人と左側に住む隣人では例えばコロナ対策に関する考え方も180度違うケースが往々にしてあるのである。

これが現代のSNS社会によって、全ての意見が取り上げられるようになってしまい、世論とか多数意見が何なのかが複雑になり過ぎてしまっている。例えば、炎上した企業に対する抗議の電話が数十件あっただけで、朝の情報番組と言われる怪しいテレビ番組で報道される。それをリテラシーの低い人たちが視聴して、拡散に協力していく事になり、いつしか大事になる。その数十件の抗議電話はもしかしたら、電車の中でマスクを外してわざと咳払いをするような人たちによるものかもしれないのにもかかわらずである。

左派メディアでよく「一般市民」という報道の仕方をするらしいが、非常に極端なデモを少人数で開催した時も「一般市民」という言葉を使いたがるらしい。この辺りに左派の姑息なやり口が表れていると思っていたが、要は報道全体がそうなりつつあり、国民という対象を画一的に捉えることを前提としているので、数十件の抗議電話があっても、他の国民も同様に不満を抱えているはずであり、見逃せない動きである、そういう発想になるというか、そういう前提で報道をしていると、面白おかしい事象が増えるので、視聴率のアップにつながる事にもなり、報道として収益が上がる構造になっているのだろう。

しかしながら、繰り返しになるが国民の知能には大きな振れ幅があり、画一的では決してない。価値観も千差万別であり、それを多数派が牛耳っていくというのが民主主義社会である。この価値観が千差万別であると言う事を改めて認識する必要があるのと、それを認識してないと、「みな同じ価値観のはずなのに、なぜこの人は分かってくれないのだろう」というストレスが不必要に増えて行ってしまう。

現在のようなコロナの感染が収束しない状況において、国民のストレスは溜まって行っているように思うが、みな自分の価値観があり、その価値観ベースで「みな同じ価値観のはずなのに、なぜ分からない人が多いのだろう」、こういうストレスが激しい意見に繋がっているように見える。Go to トラベルにしても、一方では「収束していない時期に始めたこと自体が理解できない」、一方は「このまま旅行業界は死んでしまうので、天の恵みであった」、こういう180度違う意見が出てくるが、それは立場が違えばそうなるのは当たり前であり、双方の意見を尊重しなければならない。なのに断定的な論調で、誰があってる、誰が間違っている、この議論が永遠と続いているようで、不毛にしか感じない。

これが鎖国が250年続いた島国根性なのだろうか。それとも全世界的に、例えばアメリカでは分断が進んでいるが、世界的な傾向なのだろうか。SNSの発達は人間をむしろ内向きにしてしまったのかもしれない。自分の意見が以前に比べて相対的に力を持っている気になってしまい、自己の肯定を増長する事になり、内向きな発想が増えているのかもしれない。