NBA Final

米国のバスケットボールリーグであるNBAのFinalが佳境を迎えている。ヤニス・アデトクンポがいるMilwakeeがリードしており、このまま初のタイトルを取って欲しいという気持ちがある。破壊的な力を持っており、高さ、強さ、スピードの全てを兼ね備えたスーパースターである。

ただ、個人的なものなのかもしれないが昨年のような盛り上がりが出てこない。レブロン・ジェームスや、ステファン・カリーがいないのが、直接的な原因な感じがする。特にキングレブロンがいないことは、大きな落胆であり、Lakersがいないことを残念がるのはオールドファンなのであろうか。

当方はアメリカ人ではないが、レブロンのような生粋のアメリカ人が活躍して、米国が盛り上がる姿を見たいということなのかもしれない。アデトクンポはギリシャ人であり、もちろん活躍は素晴らしいし、選手としての才能は計り知れないものがあるのだが、Milwakeeの人でないと、なかなか感情移入ができないのかもしれない。

このことは野球にも言えることで、デレック・ジーターやケン・グリフィーJr、バリー・ボンズのような超がつくほどのスーパースターは米国人な気がする。もちろん、米国のスポーツにおいてという意味であり、サッカーやテニスでも同じような感覚が当てはまるわけではない。

何を言いたいのかというと、米国の4大スポーツは米国のスポーツであり、国際化が進んでいるとはいえ、米国民が盛り上がることでスターが作られていくわけであり、国民的な盛り上がりは必須条件になってくるのではないかということだ。国際化が進んでいることは競技としては有意義なことであるが、米国民は米国人のヒーローを望んでいるわけである。

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これは八村塁選手を見ても同様なことが言える。日本人はNBAで活躍する八村選手を見て興奮するが、米国人にとっては単に若手のスキルフルな選手であり、スターと呼べるほどにもなっていない。これは、自国民へのバイアスがあるということなのであるが、当然のことであり、4大スポーツにおいて米国人がスーパーヒーローになりがちなのも、当然のことなのである。

アデトクンポ選手がギリシャ人だから盛り上がらない、という言い方をすると、昨今では差別的にすら聞こえてしまう。しかしながら、誰しも少なからずアイデンティティを持っており、そのアイデンティティが自国民の活躍を願うわけであり、そこから言うと米国のスポーツリーグで米国人がメインキャストでなければ盛り上がらないというのは、当然である。逆に言うと過剰な差別退避意識というのは、アイデンティティを消し去る方向に繋がっていく。

こうやって見ていくと、オリンピックに反対する勢力というものの特徴が分かってくる。例えば東京五輪であれば、反対勢力は、日本という国に反対する勢力、日本という国が盛り上がること、日本という国にアイデンティティを持つ人が盛り上がることを反対する勢力なわけであり、これは戦後の歴史ではちょくちょく出てくる例の集団である。1950年代、1960年代に教育を受けた世代に多いわけであるが、この人たちが早く退場してくれないと、普通の国としての国の誇りとか、国民意識、そういったものを醸成する議論は開始されて行かないのだろう。それでも、そういった集団は年齢を重ねて勢力は衰えつつある。1980年代、1990年代は君が代問題とか、歴史教育問題とかうるさかったが、今はあまり聞かなくなってきている。

オリンピックを開催するにあたり、国とか国民とか、そういったものとの距離感を測るいい機会に感じた次第である。

リベラルの不可逆性

婚姻については近年晩婚化が進んでいるのは間違いない。厚生労働省の労働白書にも書いてあるし、実感として結婚する人の年齢が上がっている。だからといって結婚できない人が増えているかというと、選択的に結婚をしない人が増えていることもあるが、全体の流れとしては自由な恋愛、自由な結婚ができる幅が広がっているので、結婚自体は望めばしやすい環境になってきているのではないだろうか。

勿論、経済的な面や仕事の面で結婚できない人がいるかもしれないが、例えばここ50年とかのスパンで社会の変化を見たときには、リベラルな方向性というのは確実に進んでおり、自由な恋愛、自由な結婚という幅は広がっているのは明白である。

例えば国際結婚であるが、これは筆者が子供の時は都内の小学校に通っていたがいづれかの親が外国籍である人、俗に言われるハーフの人は非常に珍しかったが、娘が今通っている小学校には複数いる。もちろん、地域性なんかもあるかもしれないが、例えばスポーツの世界を見てみても、外国籍の親を持つ選手の活躍はここ20年とかのスパンで見ても大幅に増えているように感じる。

これらはリベラルな思想の影響というと大げさではあるが、戦後民主主義という米国主導で始まった日本の民主主義はどんどん民主化、リベラル化する方向で進んでいる。これは世界的な傾向でもあるが、ある意味自由主義的な、ある意味個人主義的な、何物にも縛られないで生きることを最重要視するような文化である。

これは個人にスポットを当てると非常に過ごしやすく、居心地が良いので、世の中はリベラルに行く方向性であり、長いスパンで考えると今の政治体制、すなわち民主主義という観点から言うと、不可逆的であろうということが言える。自由を享受した国民は、自由が後退することは許容できないし、さらなる自由を求めるのである。

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しかしながらここには危険な点も潜んでいる。民主主義のもっと根本原理である、国民の間での助け合いの概念というか、ここの部分をむしばんでしまうという矛盾に行きあたってしまうのである。民主主義を追求すると、個人の権利が拡大される方向に行ってしまい、個人が自由を得るようになり、さらなる自由を要求する。そして一定以上に自由になった国民は他者の事よりも自分のことを追求することに重きを置くようになり、やがて国家という事には思いを馳せなくなる。民主主義というのは国民全員が参加してこそ、最大限の効力を発揮するシステムであり、例えば徴税に応じない国民がいると平等が担保されなくなり破綻に至る。

破綻に至るプロセスは色々あり、徴税を免れるように権力を操作したり、議会を扇動したり、国家の活動に制限を与えたり、効率性を落とすように策略していくことに繋がる。そうすることによって国家としての活動、例えば、防衛、警察、インフラ、が不十分になっていき、破綻をきたすようになる。もしくは破綻をごまかすために戦争に走るのである。

机上の論理のようなことを書いているようであるが、この不可逆的なリベラル思想が進み過ぎてしまった社会はどこか現在の米国社会であるようにも感じる。特にトランプ政権を支持していた層は、まさに法人税率を低減して、テック企業の徴税逃れもそこまで追求せずに、そんな中、特に警察権力の失墜、インフラの致命的な老朽化、これらの問題を抱えており、国民国家としての危機に瀕していた。

バイデン政権になって反動があるので少し民主主義が引き締まったように感じられるが、あくまで反動であり中長期的に見たら、リベラル化は不可逆的である。欧州や英国でもこの民主主義の行き過ぎに指導層では危機感を感じており、GAFAへの課税強化、最低税率の上昇を議論しているが、自由を叫ぶ国民や民間企業に勝てるのだろうか。民主主義という国民主導の政治体制を維持したい体制側と、民主主義の恩恵を最大限に生かしたからこそ破綻に向かっているという事実を認識しているのかしてないのか分からない国民側に、大きな溝ができつつある。そう考えると民主主義というのが古代ギリシャでは「怪しい政治体制」と論じられていたことも納得がいくわけであり、そもそも矛盾をはらんでおり、長期には継続できない政治体制なのかもしれない。フランス革命から200年以上経つわけであるが、強権的な政治体制が優勢になっていくのが大きな流れなのかもしれないし、それをごまかすためにとれる策は戦争でしかないのかもしれない。

物理的な距離

コロナウイルスの感染拡大から既に1年半近く経っているわけであるが、日々の仕事については出張はなく、ZOOMやTeamsを活用した会議というのが板についてきたというか、他に選択肢がないからでもあるが、連日ZOOMやTeams会議が盛りだくさんである。

世界各国と遠隔会議を行い、非常に手軽にコミュニケーションが取れるようにはなっている。朝は米国のクライアントと話を行い、日中はオーストラリアやアジアの国々との会話、午後の遅い時間からインドや中東が入ってきて、夜にかけて欧州、ロシアとの遠隔会議を行う。

仕事の面だけでいうと世界は狭くなった。遠隔会議ツールの発達によって、思い立ったら世界のどこにいる人とも基本的にはコミュニケーションをとれるようになった。非常に便利な世の中であり、不必要に13時間のフライトに乗る必要がなくなったのは、筆者にとっては大きな進歩である。

ただ、本当に世界は狭くなったのであろうか。大航海時代が世界の距離をまずは縮めて、その後の海運の発展があった。江戸時代、明治時代と日本からも欧州に人が渡航するようになり、明治維新につながる一連の流れも、海運の発展があり、世界が狭くなったことによる影響であろう。

海の歴史

また、その後二度の大戦を経て航空機業界は目覚ましい発展を遂げた。ライト兄弟の初飛行からそれほど時を待たずして、アメリアイヤハートの挑戦、戦闘機の開発があり、旅客機の普及が始まるわけである。その後、世界は航空機網で結ばれることになった。ここでさらに世界は狭くなったわけである。

そして現代の遠隔会議、遠隔のコミュニケーションによる距離感の縮小を迎えているわけであるが、本当に海運の発展と、旅客機の発展と同列なのであろうか。もちろん、正確に言うと同列ではない。物理的な接点を得るための距離は変わっていないからである。言い方を変えると、ZOOMを使っても相手と会えるわけではなく、物理的には遠いままである。この点は違うと言える。そういう意味では触覚と嗅覚、味覚については縮まってはおらず、視覚、聴覚、という点でだけ距離が縮まっているという言い方ができるだろうか。

ここに論点整理のポイントがあり、ビジネスは視覚、聴覚情報、要は声と顔色さえ見えていれば、ほぼほぼ問題ないのであるが、それ以外の部分については触覚、嗅覚、味覚というのが重要であり、特に観光業において重要な点はその三つになるだろう。むしろ、声は優先順位が低い。

ビジネスの世界の距離は縮まった。これはコロナが変えた良い面であろう。コロナ前よりも環境が良くなっているのである。そういう面から言うと今後ビジネスの意思決定、国を超えた協力関係、これらの速度は加速していくだろう。

一方、現在実際に観光業が苦境に立っているように、触覚、嗅覚、味覚が重要なファクターであるそれらの業界は苦しい状況が続く。これを打破するのは勿論物理的な往来の再開ではあるが、一方で、ZOOMによるVirtual観光ツアーではないのだと思う。それでは触覚、嗅覚、味覚を刺激しづらいからである。そういう意味では、例えば、タイ料理屋に行くとタイの味覚を味わえるが、それの発展形のような形で、例えば福島のハワイアンズみたいなものの各国版ができていくのかもしれない。できていくのかもしれないというか、そこに商機が生まれるのか、と思いを馳せるわけである。